第二幕 ③

「へへ、しかし隠されると見たくなるのが男のさが。ここで会ったのも神のお導き。どうか一目おがませてもらえませんかね」


 ずうずうしいな、とホロは本当の妻ではないのにロレンスはそう思った。

 しかし、それを注意する前に当のホロが口を開く。


「旅はする前が一番楽しく、犬は鳴き声だけが一番怖く、女は後ろ姿が一番美しいものでありんす。気軽にひょいとめくれば人の夢をこわしんす。わっちにゃそんなことできんせん」


 そう言ってホロが外套の下で小さく笑うと、ゼーレンはそんなホロの言葉にまれたようにぎこちなく笑った。流暢りゆうちようなそれはロレンスも感心するくらいのものだったからだ。


「へへ……いや、すごい奥さんですね」

しりにしかれないようにするのが精一杯だ」


 半分以上、ロレンスの本音だった。


「うん、こりゃあ、お二人に出会えたのは神のお導きに違いない。ちょっと、あっしの話を聞いてくれやしませんかね」


 沈黙が降りかけた瞬間、ゼーレンはそう言って前歯の欠けた顔をロレンスへと近づけたのだった。



 普通の宿とは違い、教会では部屋を借りることはできても食事までは面倒を見てくれない。ただし寄付をすればかまどを使わせてもらえるので、ロレンスは寄付をしてジャガイモを五つほど水を張ったなべの中に放り込む。もちろん火を起こすときのまき代は別料金だ。

 で上がるまでに時間がかかりそうだったので、その間にホロが宿るという麦を麦穂からおおざつに落として適当に使っていない皮袋に詰め込んだ。首からげたいと言っていたことも思い出し、皮ひもを一本手に取りかまどへと引き返す。ジャガイモ、まき、皮袋、皮紐と、合わせれば無視できない金額なので、ロレンスはホロにいくら請求しようかと胸中で計算しつつ、茹で上がったジャガイモを持って部屋へと戻ったのだった。

 両手がふさがっているのでノックなどできなかったが、オオカミの耳を有するホロは足音だけで誰が来たのかわかるらしく、ロレンスが部屋に入っても振り返りもせずにベッドの上でのんびりと尻尾しつぽの毛づくろいをしていたのだった。


「ん? 良いにおいじゃの」


 そして、耳と同様に鼻もよく利くのかそう言って顔を上げた。

 ジャガイモの上にはヤギのミルクから作ったチーズを少しせてある。一人ならばしないぜいたくだが、二人なのでふんぱつしてみたのだ。ホロの反応も上々で、したもあったというものだ。

 ロレンスがベッドわきのテーブルの上にジャガイモを置くと、ホロはベッドの上から早速手を伸ばそうとしたが、その手がジャガイモをつかむ前にロレンスは麦袋の詰まった皮袋を放り投げた。


「おっと。ん、麦かや」

「ほら、皮紐も。自分で工夫して首からげられるようにしておけ」

「うむ。助かる。しかしこっちが優先じゃな」


 と、ロレンスが驚くくらい無造作に皮袋と皮紐を脇に置くと、ホロはしたなめずりをせんばかりの表情でジャガイモへと手を伸ばす。食い気優先の性格のようだった。

 ホロは大きなジャガイモを一つ手にとって、早速二つに割る。するとたちまち立ち昇る湯気に幸せそうな笑顔を浮かべている。尻尾がわさわさと揺れているのが犬と似ていて面白かったものの、きっとそんなことを言えば怒ると思ったのでロレンスは黙っておくことにしたのだった。


「狼もジャガイモがうまそうと思うのか」

「うん。別にわっちらも年がら年中肉を食べてるわけじゃありんせん。木の芽も食べるし魚も食べる。人の育てた野菜は木の芽よりうまい。それに、肉や野菜に火を通すという発想も、わっちは好きだわいな」


 ネコ舌という言葉はあるが狼は結構丈夫なようだ。まだ湯気がもうもうと立っているそれを、二、三度吹いただけでひょいひょい口に放り込んでいる。ただ、その量はいくらなんでも無理だろう、と思っていると、あんじようのどに詰まったようだ。水の詰まった皮袋を放り投げてやって、ホロはことなきを得る。


「ふう。びっくりじゃ。人の喉は相変わらず狭いの。不便じゃ」

「狼は丸飲みだからな」

「ん、そりゃあ、ほれ。これがないんじゃ、ゆうちようくだけん」


 ホロは指でくちびるはしを引っ張った。ほおのことだろう。


「しかし、わっちは昔もジャガイモを飲み込んでのどを詰まらせた」

「ほう」

「わっちとジャガイモは相性が悪いのかも知らん」


 単にがっつくのが悪いだけだろう、とは言わなかった。


「そういえば」


 と、代わりにそんなふうにロレンスは切り出した。


「お前、うそを聞き分けられるとか何とか言ってなかったか?」


 ロレンスがそう尋ねると、ホロはチーズをかじりながらロレンスのほうを振り向いて返事をしかけたが、ふと次の瞬間に視線を別のところに走らせると一拍遅れて手が動いた。


「どうした」、とロレンスが言う間もないほどの一瞬のできごとで、ホロの手は中空で何かをつまむような形になって止まっていた。


「まだノミがおった」

「良い毛並みだからな。絶好の温床だ」


 毛織物や毛足の長い毛皮などの輸送では、季節によっては時折煙でいぶさないとならないくらいにノミがくことがある。ロレンスはそれを連想しながらそう言ったのだが、ロレンスの言葉を聞いたホロは驚いたような顔をしてからたちまちのうちに胸をそらして得意げな顔になっていた。


「ぬしもこの尻尾しつぽの良さがわかるとはなかなかの目きじゃな」


 子供のように得意げに言うので、ロレンスは何から連想したのかは黙っておこうと決意した。


「で、噓かどうか聞き分けられるのは本当なのか?」

「うん? ああ多少はの」


 ノミをつぶした指をいて、ホロは再びジャガイモにかぶりつく。


「どれくらい聞き分けられるんだ?」

「まあ、ぬしがめるつもりも無くわっちの尻尾のことを言ったことがわかるくらいには、わかる」


 ロレンスがどきりとして口をつぐむと、ホロは楽しそうに笑ったのだった。


「百発百中ではありんせんがな。信じる信じないは……まあ、ぬしの勝手じゃがの」


 指についたチーズをめ、少し意地悪な笑みを浮かべながらそう言うホロの様子はまるで幻想たんに出てくるようせいか小悪魔のようだ。

 ロレンスは色々な意味で少したじろいだが、あまり反応するとまたそこについて何か言われかねない。気を取り直して後を続ける。


「それじゃあちょっと聞くが、あのぞうの話、どう思う」

ぞう?」

だんのある部屋で話しかけてきたあいつだ」

「ああ。ふふ、小僧か」

「何がおかしい?」

「わっちからみりゃどっちも小僧じゃ」


 に何か言うとまた手玉に取られかねなかったので、ロレンスはのどから出てきそうになった言葉をぐっとみ込んだ。


「くふ。ぬしのほうが少しだけ大人おとなじゃな。で、小僧の話じゃが、うそをついとるとわっちは思うな」


 ホロの言葉に、ロレンスはたんに冷静な頭になって「やはり」と胸中でつぶやく。

 あの暖炉の部屋でロレンスに話しかけてきたゼーレンと名乗るけ出しの行商人の若者は、ロレンスにちょっとしたもうけ話を持ってきたのだ。

 それは現在発行されているある銀貨が、近々銀の含有率を増やして再発行されるという話だ。もしもこの話が本当ならば、古いほうの銀貨は質が悪いのに質の良い銀貨と同じ価値を持つことになる。しかし、別のへいとの相場を比べた場合、強いのは銀の含有率が高い新しい銀貨だ。つまり、新しい銀貨が銀を増やして再発行されるとわかっていれば、古い銀貨を大量に集めておいて新しい銀貨と交換することで差額の分だけ大もうけできる、というものだ。ゼーレンは世に流通するたくさんの貨幣のうち、どの貨幣でこのからくりが使えるのかという情報を渡す代わりに、大儲けの際は分け前をくれ、と言うのだ。おそらくは目をつけた商人何人かにそう言っているのだろうが、ロレンスは当然それをみにはできない。

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狼と香辛料XIIISide ColorsIIIの書影
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