「へへ、しかし隠されると見たくなるのが男の性。ここで会ったのも神のお導き。どうか一目拝ませてもらえませんかね」
図々しいな、とホロは本当の妻ではないのにロレンスはそう思った。
しかし、それを注意する前に当のホロが口を開く。
「旅はする前が一番楽しく、犬は鳴き声だけが一番怖く、女は後ろ姿が一番美しいものでありんす。気軽にひょいとめくれば人の夢を壊しんす。わっちにゃそんなことできんせん」
そう言ってホロが外套の下で小さく笑うと、ゼーレンはそんなホロの言葉に吞まれたようにぎこちなく笑った。流暢なそれはロレンスも感心するくらいのものだったからだ。
「へへ……いや、すごい奥さんですね」
「尻にしかれないようにするのが精一杯だ」
半分以上、ロレンスの本音だった。
「うん、こりゃあ、お二人に出会えたのは神のお導きに違いない。ちょっと、あっしの話を聞いてくれやしませんかね」
沈黙が降りかけた瞬間、ゼーレンはそう言って前歯の欠けた顔をロレンスへと近づけたのだった。
普通の宿とは違い、教会では部屋を借りることはできても食事までは面倒を見てくれない。ただし寄付をすれば竈を使わせてもらえるので、ロレンスは寄付をしてジャガイモを五つほど水を張った鍋の中に放り込む。もちろん火を起こすときの薪代は別料金だ。
茹で上がるまでに時間がかかりそうだったので、その間にホロが宿るという麦を麦穂から大雑把に落として適当に使っていない皮袋に詰め込んだ。首から提げたいと言っていたことも思い出し、皮紐を一本手に取り竈へと引き返す。ジャガイモ、薪、皮袋、皮紐と、合わせれば無視できない金額なので、ロレンスはホロにいくら請求しようかと胸中で計算しつつ、茹で上がったジャガイモを持って部屋へと戻ったのだった。
両手がふさがっているのでノックなどできなかったが、狼の耳を有するホロは足音だけで誰が来たのかわかるらしく、ロレンスが部屋に入っても振り返りもせずにベッドの上でのんびりと尻尾の毛づくろいをしていたのだった。
「ん? 良い匂いじゃの」
そして、耳と同様に鼻もよく利くのかそう言って顔を上げた。
ジャガイモの上にはヤギのミルクから作ったチーズを少し載せてある。一人ならばしない贅沢だが、二人なので奮発してみたのだ。ホロの反応も上々で、した甲斐もあったというものだ。
ロレンスがベッド脇のテーブルの上にジャガイモを置くと、ホロはベッドの上から早速手を伸ばそうとしたが、その手がジャガイモを摑む前にロレンスは麦袋の詰まった皮袋を放り投げた。
「おっと。ん、麦かや」
「ほら、皮紐も。自分で工夫して首から提げられるようにしておけ」
「うむ。助かる。しかしこっちが優先じゃな」
と、ロレンスが驚くくらい無造作に皮袋と皮紐を脇に置くと、ホロは舌なめずりをせんばかりの表情でジャガイモへと手を伸ばす。食い気優先の性格のようだった。
ホロは大きなジャガイモを一つ手にとって、早速二つに割る。するとたちまち立ち昇る湯気に幸せそうな笑顔を浮かべている。尻尾がわさわさと揺れているのが犬と似ていて面白かったものの、きっとそんなことを言えば怒ると思ったのでロレンスは黙っておくことにしたのだった。
「狼もジャガイモがうまそうと思うのか」
「うん。別にわっちらも年がら年中肉を食べてるわけじゃありんせん。木の芽も食べるし魚も食べる。人の育てた野菜は木の芽よりうまい。それに、肉や野菜に火を通すという発想も、わっちは好きだわいな」
猫舌という言葉はあるが狼は結構丈夫なようだ。まだ湯気がもうもうと立っているそれを、二、三度吹いただけでひょいひょい口に放り込んでいる。ただ、その量はいくらなんでも無理だろう、と思っていると、案の定喉に詰まったようだ。水の詰まった皮袋を放り投げてやって、ホロはことなきを得る。
「ふう。びっくりじゃ。人の喉は相変わらず狭いの。不便じゃ」
「狼は丸飲みだからな」
「ん、そりゃあ、ほれ。これがないんじゃ、悠長に嚙み砕けん」
ホロは指で唇の端を引っ張った。頰のことだろう。
「しかし、わっちは昔もジャガイモを飲み込んで喉を詰まらせた」
「ほう」
「わっちとジャガイモは相性が悪いのかも知らん」
単にがっつくのが悪いだけだろう、とは言わなかった。
「そういえば」
と、代わりにそんなふうにロレンスは切り出した。
「お前、噓を聞き分けられるとか何とか言ってなかったか?」
ロレンスがそう尋ねると、ホロはチーズをかじりながらロレンスのほうを振り向いて返事をしかけたが、ふと次の瞬間に視線を別のところに走らせると一拍遅れて手が動いた。
「どうした」、とロレンスが言う間もないほどの一瞬のできごとで、ホロの手は中空で何かをつまむような形になって止まっていた。
「まだノミがおった」
「良い毛並みだからな。絶好の温床だ」
毛織物や毛足の長い毛皮などの輸送では、季節によっては時折煙でいぶさないとならないくらいにノミが湧くことがある。ロレンスはそれを連想しながらそう言ったのだが、ロレンスの言葉を聞いたホロは驚いたような顔をしてからたちまちのうちに胸をそらして得意げな顔になっていた。
「ぬしもこの尻尾の良さがわかるとはなかなかの目利きじゃな」
子供のように得意げに言うので、ロレンスは何から連想したのかは黙っておこうと決意した。
「で、噓かどうか聞き分けられるのは本当なのか?」
「うん? ああ多少はの」
ノミをつぶした指を拭いて、ホロは再びジャガイモにかぶりつく。
「どれくらい聞き分けられるんだ?」
「まあ、ぬしが褒めるつもりも無くわっちの尻尾のことを言ったことがわかるくらいには、わかる」
ロレンスがどきりとして口をつぐむと、ホロは楽しそうに笑ったのだった。
「百発百中ではありんせんがな。信じる信じないは……まあ、ぬしの勝手じゃがの」
指についたチーズを舐め、少し意地悪な笑みを浮かべながらそう言うホロの様子はまるで幻想譚に出てくる妖精か小悪魔のようだ。
ロレンスは色々な意味で少したじろいだが、あまり反応するとまたそこについて何か言われかねない。気を取り直して後を続ける。
「それじゃあちょっと聞くが、あの小僧の話、どう思う」
「小僧?」
「暖炉のある部屋で話しかけてきたあいつだ」
「ああ。ふふ、小僧か」
「何がおかしい?」
「わっちからみりゃどっちも小僧じゃ」
下手に何か言うとまた手玉に取られかねなかったので、ロレンスは喉から出てきそうになった言葉をぐっと吞み込んだ。
「くふ。ぬしのほうが少しだけ大人じゃな。で、小僧の話じゃが、噓をついとるとわっちは思うな」
ホロの言葉に、ロレンスは途端に冷静な頭になって「やはり」と胸中で呟く。
あの暖炉の部屋でロレンスに話しかけてきたゼーレンと名乗る駆け出しの行商人の若者は、ロレンスにちょっとした儲け話を持ってきたのだ。
それは現在発行されているある銀貨が、近々銀の含有率を増やして再発行されるという話だ。もしもこの話が本当ならば、古いほうの銀貨は質が悪いのに質の良い銀貨と同じ価値を持つことになる。しかし、別の貨幣との相場を比べた場合、強いのは銀の含有率が高い新しい銀貨だ。つまり、新しい銀貨が銀を増やして再発行されるとわかっていれば、古い銀貨を大量に集めておいて新しい銀貨と交換することで差額の分だけ大儲けできる、というものだ。ゼーレンは世に流通するたくさんの貨幣のうち、どの貨幣でこのからくりが使えるのかという情報を渡す代わりに、大儲けの際は分け前をくれ、と言うのだ。おそらくは目をつけた商人何人かにそう言っているのだろうが、ロレンスは当然それを鵜吞みにはできない。