第一幕 ②

 一歩をすと、二歩目はすぐに続き、三歩目は意識さえしなかった。

 くとロレンスは後ろ手に組んでおだやかに笑い、ハンナは手をひかえめにってくる。視線を少し遠くに向けたのは、ニョッヒラの村の様子がなお名残なごりしかったのと、どこかにあのおてんなミューリがいないかと思ったため。かげからねた顔でも見せてくれたら、と思ったが、見当たらなかった。意地っ張りなところは母親そっくりだ。小さく笑い、さんばしに向かった。


「別れは済ませたかね」

「お待たせしてしまって」

「船頭などしてるとよくあることさ。しかし、同じ川の流れには二度と入れない。未練がましいことも悪いわけじゃない」


 毎日静かな川の流れの上で船をあやつっていると、自然とりよぶかくなるのかもしれない。

 船頭の言葉に深くうなずき、さんばしから船に飛び乗った。


「客はあんた一人だ。毛皮の山でひるでもしててくれ」


 さんばしに船をつなぎ止めているつなをほどきながら、船頭は言った。

 毛皮の山、という言葉にふとおくがよみがえる。昔、聞いたことのある話だった。

 一人の若い行商人がいたという。ある村に立ち寄ったかれは、いつもどおり自分の荷馬車で夜を過ごそうと、積み荷の毛皮にもぐりんだ。すると、そこにはうるわしい少女がいて、自分を故郷まで連れて行ってくれと言うのだ。その少女は月の下でなおかがやく美しい色のかみを持ち、その頭には人ならざる大きなけものの耳を、こしからはあらゆる毛皮の中でも飛びきり最上級の毛並みの尻尾しつぽを生やしていた。自らをけんろうしようし、村の麦に宿りほうじようつかさどる神であり、数百年の長きを生きるオオカミしんだと言った。行商人はそのむすめたのみを聞き、かのじよと共に旅に出た。それから二人は苦楽を共にし、気持ちを通わせ、ついには幸せに暮らしたのだった。めでたしめでたし。

 まさかとは思いつつ、毛皮の山の中に手を入れ、まさぐった。だいじようだれかくれてはいない。

 船には毛皮のほかに、炭がまったあさぶくろや木だるが所せましと積まれている。木だるの中身は炭焼きの際に出た木のヤニだろう。ぼうざいや防水のためにられるもので、きようれつくささが時折ただよってくる。毛皮はこのニョッヒラの村からさらにやまおくにある、点在する集落からもたらされた物だ。冬の間、山のたみたちはりにいそしみ、毛皮を売ることで町から必要な品を手に入れる。かれらが町まで毛皮を背負って行くのは大変なので、たいてい、このニョッヒラに集められて、船で運ばれて行く。炭や木のヤニもその手のしろものだ。


「今年はずいぶん毛皮が多いんですね」

「おお、商売はんじようで助かるよ。ニョッヒラは昔からだいはんじようであまり変わらないが、今はどこもにぎやかだ。ほれ、北と呼ばれる地方一帯と、南の教会とのいくさが何年か前に終わっただろう? 元々けいがい化したいい加減な争いだったが、やっぱりきちんと終わるとちがうもんなんだなあ」


 船頭はしみじみ言って、ほどいたつなを船に乗せ、自分も飛び乗った。

 船は不思議なほどれなかった。


「そら、もう船が下りだせば、旅の始まりだ」


 船頭はせんに向かい、さおを手に取る。船はゆっくりと進み出し、かわすべっていく。ニョッヒラは長い冬の中のなんのへんてつもない一日なのに、船の上からだと見慣れたはずの村もちがって見えた。もしかしたらそれは、旅人として見る初めての、あるいは最後のニョッヒラかもしれない。そう思うとやにわにまんならなくなり、船の上でひざ立ちになった。それから、川べりでこちらを見送っていたロレンスとハンナに手をった。


「ありがとうございました!」


 ロレンスは笑って、軽く手を上げた。ハンナは料理がうまくできた時みたいな顔をしていた。

 それも、たちまちのうちに見えなくなってしまう。やまおくの川なので、流れが速いのだ。


「さあ、別れは済んだ。次は前を見る番だ」


 いつまでも村のほうを見ていた自分に、船頭が言った。しつけがましくなく、むしろこちらをはげますようなやさしい言い方だった。少し照れ臭く、船頭にぎこちないみを見せてから、前に向き直る。

 ああ、旅に出てしまったのだと、さびしいような、わくわくするような、不思議な感覚にとらわれていた。


「しかし、さっき毛皮の中を探していたようだが、ねずみでもいたかい?」

「え? ああ……実は、昔話を聞いたことがありまして」


 そう答えてから、行商人とオオカミせいれいの出会いの話をした。どこにでもありそうなせきたんだが、船頭はずいぶんきようしんしんだった。


「船旅のひまつぶしに、その手の話をする機会がいくらでもある。種がひとつ増えて助かるよ。とはいえ、そんな話を思い出して毛皮の中をまさぐるとは、若いのにずいぶんめいしん深いんだな」


 まさかその話が実話だと言っても信じないだろうし、そのオオカミむすめかくれているかもしれないなどと言ったら、きもをつぶすかもしれない。その話の行商人とはロレンスのことであり、積み荷にかくれていたオオカミとは、妻のホロのことなのだから。

 自分はかれらのせきのような旅に同行した。目を回すような大ぼうけんを手伝った。思い出すだけでわくわくし、ぞっとするような経験もいくつかある。

 ただ、あの二人の物語にまれた中での最大のおどろきと言えば、そういう血き胸おどことがらではない。幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし……の後の生活に付き合ってみて、目の当たりにしたことだった。

 まさかずっと幸せでい続けられるだなんて、おどろきをとおりして笑うしかなかった。


「それで、あんたはどこまで行くんだい。ひとまずスヴェルネルって言ってた気がするが」


 船頭が口にしたのは、西に向かって流れる川を下り、ちゆうから南に陸路を行った先にある、毛皮とはくの貿易で古くから栄えている町の名前だった。


「そこで旅の情報を集めてから、レノスを目指すつもりです」

「ほう、レノス! あっちも確か大きな川沿いの町だったなあ。大きな船が行ったり来たりするような場所だ。その分関所が多いと聞くが」


 知っている。自分はその川で、まさしくその関所で、ロレンスたちと出会っていた。

 あまりにもなつかしく、今はどんなふうになっているのだろうと楽しみだった。


「なるほどなあ。そこでなにをするんだい。職人……には見えないな。商人か」

「いえ」


 小さくかぶりをり、空を見上げたのは、そこにいるはずのだれかにちかうためだ。


「聖職者を目指しています」

「なんとぼうさんだったか。それはそれは」

「ですが、まだ見習いですらありませんし、本当になれるかどうか」

「はっはっは。そこで神の御加護を信じないようじゃだめだろう」


 確かにそのとおりだった。


「ただ、今はほれ。教会はウィンフィール王国と大げん中で大変なさわぎなんじゃないのかい?」


 船頭がさおを深く川の底にてると、船先がくるりと回り、大きな岩をかいする。ニョッヒラはやまおくの村のため、周りも見通しの良い河原などではない。切り立ったがけの上に雪がたっぷり積もり、さらにその上から鹿しかものめずらしげにこちらを見下ろしたりしている。


「よく御存知ですね」

「川は水以外に、情報ってやつも流れるんだよ」


 得意げに言ったのはわざとだろう。陽気な人だった。

 ウィンフィール王国とは、この川が西に向かって流れ出た先の海を、さらに南西に向かうと出くわす大きな島国のこと。名産は羊の毛で、最近は船の建造もさかんだという。

 そのウィンフィール王国と、世界のしんこうべる教会の教皇が、真っ向から対立して早数年がっていた。


「それに、さわぎのほつたんは税をめぐる話だろ? 物を運ぶおれたちみたいな仕事には直接えいきようするからな。いやでも耳に入ってくる」

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影