一歩を踏み出すと、二歩目はすぐに続き、三歩目は意識さえしなかった。
振り向くとロレンスは後ろ手に組んで穏やかに笑い、ハンナは手を控えめに振ってくる。視線を少し遠くに向けたのは、ニョッヒラの村の様子がなお名残惜しかったのと、どこかにあのお転婆なミューリがいないかと思ったため。木陰から拗ねた顔でも見せてくれたら、と思ったが、見当たらなかった。意地っ張りなところは母親そっくりだ。小さく笑い、桟橋に向かった。
「別れは済ませたかね」
「お待たせしてしまって」
「船頭などしてるとよくあることさ。しかし、同じ川の流れには二度と入れない。未練がましいことも悪いわけじゃない」
毎日静かな川の流れの上で船を操っていると、自然と思慮深くなるのかもしれない。
船頭の言葉に深くうなずき、桟橋から船に飛び乗った。
「客はあんた一人だ。毛皮の山で昼寝でもしててくれ」
桟橋に船を繫ぎ止めている綱をほどきながら、船頭は言った。
毛皮の山、という言葉にふと記憶がよみがえる。昔、聞いたことのある話だった。
一人の若い行商人がいたという。ある村に立ち寄った彼は、いつもどおり自分の荷馬車で夜を過ごそうと、積み荷の毛皮にもぐり込んだ。すると、そこには見目麗しい少女がいて、自分を故郷まで連れて行ってくれと言うのだ。その少女は月の下でなお輝く美しい亜麻色の髪の毛を持ち、その頭には人ならざる大きな獣の耳を、腰からはあらゆる毛皮の中でも飛びきり最上級の毛並みの尻尾を生やしていた。自らを賢狼と称し、村の麦に宿り豊穣を司る神であり、数百年の長きを生きる狼の化身だと言った。行商人はその娘の頼みを聞き、彼女と共に旅に出た。それから二人は苦楽を共にし、気持ちを通わせ、ついには幸せに暮らしたのだった。めでたしめでたし。
まさかとは思いつつ、毛皮の山の中に手を入れ、まさぐった。大丈夫。誰も隠れてはいない。
船には毛皮のほかに、炭が詰まった麻袋や木樽が所狭しと積まれている。木樽の中身は炭焼きの際に出た木のヤニだろう。防腐剤や防水のために塗られるもので、強烈な焦げ臭さが時折漂ってくる。毛皮はこのニョッヒラの村からさらに山奥にある、点在する集落からもたらされた物だ。冬の間、山の民たちは狩りに勤しみ、毛皮を売ることで町から必要な品を手に入れる。彼らが町まで毛皮を背負って行くのは大変なので、大抵、このニョッヒラに集められて、船で運ばれて行く。炭や木のヤニもその手の代物だ。
「今年は随分毛皮が多いんですね」
「おお、商売繁盛で助かるよ。ニョッヒラは昔から大繁盛であまり変わらないが、今はどこも賑やかだ。ほれ、北と呼ばれる地方一帯と、南の教会との戦が何年か前に終わっただろう? 元々形骸化したいい加減な争いだったが、やっぱりきちんと終わると違うもんなんだなあ」
船頭はしみじみ言って、ほどいた綱を船に乗せ、自分も飛び乗った。
船は不思議なほど揺れなかった。
「そら、もう船が下りだせば、旅の始まりだ」
船頭は船尾に向かい、棹を手に取る。船はゆっくりと進み出し、川面を滑っていく。ニョッヒラは長い冬の中のなんの変哲もない一日なのに、船の上からだと見慣れたはずの村も違って見えた。もしかしたらそれは、旅人として見る初めての、あるいは最後のニョッヒラかもしれない。そう思うとやにわに我慢ならなくなり、船の上で膝立ちになった。それから、川べりでこちらを見送っていたロレンスとハンナに手を振った。
「ありがとうございました!」
ロレンスは笑って、軽く手を上げた。ハンナは料理がうまくできた時みたいな顔をしていた。
それも、たちまちのうちに見えなくなってしまう。山奥の川なので、流れが速いのだ。
「さあ、別れは済んだ。次は前を見る番だ」
いつまでも村のほうを見ていた自分に、船頭が言った。押しつけがましくなく、むしろこちらを励ますような優しい言い方だった。少し照れ臭く、船頭にぎこちない笑みを見せてから、前に向き直る。
ああ、旅に出てしまったのだと、寂しいような、わくわくするような、不思議な感覚に囚われていた。
「しかし、さっき毛皮の中を探していたようだが、鼠でもいたかい?」
「え? ああ……実は、昔話を聞いたことがありまして」
そう答えてから、行商人と狼の精霊の出会いの話をした。どこにでもありそうな奇跡譚だが、船頭は随分興味津々だった。
「船旅の暇つぶしに、その手の話をする機会がいくらでもある。種がひとつ増えて助かるよ。とはいえ、そんな話を思い出して毛皮の中をまさぐるとは、若いのに随分迷信深いんだな」
まさかその話が実話だと言っても信じないだろうし、その狼の娘が隠れているかもしれないなどと言ったら、肝をつぶすかもしれない。その話の行商人とはロレンスのことであり、積み荷に隠れていた狼とは、妻のホロのことなのだから。
自分は彼らの奇跡のような旅に同行した。目を回すような大冒険を手伝った。思い出すだけでわくわくし、ぞっとするような経験もいくつかある。
ただ、あの二人の物語に巻き込まれた中での最大の驚きと言えば、そういう血湧き胸躍る事柄ではない。幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし……の後の生活に付き合ってみて、目の当たりにしたことだった。
まさかずっと幸せでい続けられるだなんて、驚きをとおり越して笑うしかなかった。
「それで、あんたはどこまで行くんだい。ひとまずスヴェルネルって言ってた気がするが」
船頭が口にしたのは、西に向かって流れる川を下り、途中から南に陸路を行った先にある、毛皮と琥珀の貿易で古くから栄えている町の名前だった。
「そこで旅の情報を集めてから、レノスを目指すつもりです」
「ほう、レノス! あっちも確か大きな川沿いの町だったなあ。大きな船が行ったり来たりするような場所だ。その分関所が多いと聞くが」
知っている。自分はその川で、まさしくその関所で、ロレンスたちと出会っていた。
あまりにも懐かしく、今はどんなふうになっているのだろうと楽しみだった。
「なるほどなあ。そこでなにをするんだい。職人……には見えないな。商人か」
「いえ」
小さくかぶりを振り、空を見上げたのは、そこにいるはずの誰かに誓うためだ。
「聖職者を目指しています」
「なんと坊さんだったか。それはそれは」
「ですが、まだ見習いですらありませんし、本当になれるかどうか」
「はっはっは。そこで神の御加護を信じないようじゃだめだろう」
確かにそのとおりだった。
「ただ、今はほれ。教会はウィンフィール王国と大喧嘩中で大変な騒ぎなんじゃないのかい?」
船頭が棹を深く川の底に突き立てると、船先がくるりと回り、大きな岩を回避する。ニョッヒラは山奥の村のため、周りも見通しの良い河原などではない。切り立った崖の上に雪がたっぷり積もり、さらにその上から鹿が物珍しげにこちらを見下ろしたりしている。
「よく御存知ですね」
「川は水以外に、情報ってやつも流れるんだよ」
得意げに言ったのはわざとだろう。陽気な人だった。
ウィンフィール王国とは、この川が西に向かって流れ出た先の海を、さらに南西に向かうと出くわす大きな島国のこと。名産は羊の毛で、最近は船の建造も盛んだという。
そのウィンフィール王国と、世界の信仰を統べる教会の教皇が、真っ向から対立して早数年が経っていた。
「それに、騒ぎの発端は税を巡る話だろ? 物を運ぶ俺たちみたいな仕事には直接影響するからな。嫌でも耳に入ってくる」