船は川を下る間に、たくさんの領主の土地を通過する。そのたびごとに関所をとおり、税を徴収される。大きい川だと五十を超え、中には百を数える川もあるという。
そして、領主は自分の領地でしか税を課せられないが、教会はその教えが広まっている場所であれば、あらゆる場所で税を課すことができる。つまり、事実上の世界中であり、それが『十分の一税』と呼ばれるものだった。
「教会の十分の一税がなくなれば、俺たちも助かる。しかも、元々は異教徒と戦うために集められていた税だって言うじゃないか。その戦争が終わったら、確かに払う道理はない。ウィンフィールの王様はよくぞ声を上げてくれたって話だ」
税金はいつだって、どんな理由であれ不人気なもの。それをなくそうと声を上げる王様を、悪く言う理由はない。
「その上、筋の通った話をしている王様に対する、教皇様の仕打ちだ。いや、まったくウィンフィールの王様には頑張ってもらわないと……」
と、そこまで言って、船頭は不意に口を閉じた。
船に乗せているのが、聖職を希望する者だと思い出したらしい。
「こりゃすまない。あんたの志願先を悪く言うつもりはないんだが」
「いえ」
短く言って、小さく笑った。
「私も同感ですから」
「へえ?」
きょとんとする船頭をよそに、川下から吹き上がってくる、冷たくも澄んだ風に目を細めて言った。
「教皇様が税の支払いを強要するために、話し合いではなく王国の聖務停止を言い渡したことは、私も信じられません」
吐いた息が殊更白くなったのは、怒りのためだろう。聖務停止とは、その土地一帯にある教会の聖職者全員に、あらゆる仕事を放棄させるという、教皇からの命令だった。
「王国では、もう三年間に渡って、赤子の洗礼も、愛し合う二人の結婚も、大切な家族の葬式も行われていません。すべて聖職者が執り行うべき、人生の大切な儀式なのに、教皇様はそれを停止してしまった。神の恩寵が欲しければ税を払えと迫るなんて、私にはそれが神の御心に適う行動とはとても思えません。私は、無学で無力な身ではありますが……」
首から提げ、胸元にいつもある教会の紋章をかたどった木細工を、力強く握りしめる。
「私は、歪められてしまった神の教えを正す、一助になりたく思っています」
税のために三年間も魂の救済を怠っている傲慢な教皇から、ウィンフィール王国を救うべく、また、神の教えを正すべく戦わなければならない。自分はそのために、旅に出たのだ。
困難はあるだろう。苦難もあるだろう。それでも、自分にはこれまで学んできたたくさんのことがあるし、ロレンスや、その妻のホロといった、いわばお伽噺のような奇跡にも直に触れてきた。ならばやれるはず。自分にもきっとできるはず。
理不尽で無慈悲なこの世界に、少しでも多くの笑顔と幸福をもたらすため。
川の流れの行く先を見つめ、改めてそう誓う。
神よ、我に勇気を与え、我を導きたまえ。
目を閉じると、天使が頰を撫でるかのように、ひときわ強く風が吹いた。
「ははあ……」
と、後ろから船頭のため息が聞こえてきて、我に返った。
かあっと顔が熱くなったのは、まだ自分が聖職者見習いですらないからだ。
「えっと、志としては、そう思っている、というところです……」
「いやあ、俺はてっきり、ニョッヒラで働いているうちに、温泉で飲み食いする聖職者が羨ましくなったのかと思ったんだが」
船頭の遠慮のない一言だったが、それも事実。こんな山奥にまでやってくるには、相当の旅費と、何か月も仕事を放り出しても困らないだけの地位が必要になる。その両方を揃えられるのは、隠居した大商会の主か、統治がうまくいっている貴族か、高位の聖職者くらいのものだ。
「確かに、そういう理由で聖職者になりたがる人も多いでしょう。嘆かわしいことですが……」
「『甥』や『姪』がたくさんいる聖職者も珍しくないしなあ」
含みのある言い方だが、船頭になにか思うところがあるわけではなく、それは公然の秘密というやつだからだ。聖職者は独身を貫かなければならないので、もちろん妻もいなければ子供もいないことになっている。よって、彼らには『甥』や『姪』がいる。教皇ですら例外ではないし、その『姪』の一人がウィンフィール国王に嫁いでいるのだから、いかに悪弊が常態化しているかという話だ。
「世界がもっと正直に、まっすぐであればと願うばかりです。そんなことだから、教皇様まで金目当てに権力を振るってしまうことになるのでしょう」
ため息と共に言うと、船頭は探るような口調でこう言った。
「ということは、なんだ。あんたはニョッヒラにいて踊り子には指一本触れなかったのかい?」
まさかそんなことはないだろう? という聞き方だったが、胸を張って言える。
「もちろんです」
「おお、それは……」
船頭は言葉に詰まっていた。
ただ、そういう反応には慣れている。本職の聖職者でさえ、禁欲の誓いを守っているのはごく少数だ。きちんと禁欲を守っているのは、人里離れた修道院で、どうあがいても女性とふれあえない修道士くらいのものだろう。
「もっとも、禁欲の誓いを破ろうと思っても、破れなかったとは思いますが」
苦笑して言うと、船頭はようやくぎこちなくはあったが笑っていた。
踊り子や楽師の娘から、確かに声をかけられることはあった。けれど、どれもからかいの延長にすぎなかった。そういう意味では、努力して守ったとは言えないかもしれない。
「とはいえ、定められたことは守るべきだと思います」
背筋を正して、そう言った。
「ううむ。そうだなあ」
船頭はしみじみと呟いてから、舳の向きをまたくるりと変える。
「とはいえ、世の中は川のようなものだ。なかなかまっすぐばかりというわけにもいくまいよ」
振り向くと、船頭はしたり顔でも、理想を語る若者を嘲笑う顔でもなかった。
それは多くのことを甘受して、受け流そうとする、隠者の顔にも見えた。
「時には曲がるからこそ、そこに魚が住めるということもある」
船頭という職に就いていれば、思索にふける時間もたっぷりあるのか、実に含蓄のある言葉だった。事実、破戒にまみれてから真理に至った、という高名な神学者もいる。
「仰る言葉もわかる気がします」
「もちろん、人の理想をくさすつもりはない。ましてや聖職者を目指そうという人だ。ただね、まっすぐ一辺倒じゃわからないことってのもあるだろう? 寄り道してこそ得られる経験ってやつだ」
それもそのとおりだ、と素直に思う。
ただ、船頭の話の向かう先が見えなかった。
「えっと……つまり?」
船頭は、なぜかばつが悪そうに鼻先を搔いていた。
「うむ。その、なんだ。あんたの旅の目的と、その精神が素晴らしいものだってことはわかったんだが……いやあ、まさかそこまで固いとは思わなかったから、俺も無駄な世話焼きというかね……」
「え?」
聞き返した直後だった。
「なんにせよ、もう引き返せない。おい、出てきていいぞ」
船頭は、積み荷を見ながらそう言った。視線は毛皮の山ではなく、その手前にある木樽に向けられていた。直後、ばこん! と音がして木樽の蓋が空に舞う。
「おっと」
と、船頭がうまく蓋を手に取った。木樽の中からは、武骨な旅用の靴を履いた、細長い足がすっくと伸びている。困ったように笑う船頭をよそに、開いた口がふさがらなかった。
「うー! ううー!」
そんなうめき声と共に、木樽の縁に手がかかり、がたがたと揺れる。
それが倒れる、というまさにその瞬間、中から一人の少女が飛び出してきた。
「くっさああああい!」
「ミューリ!?」