第一幕 ④

 木だるから飛び出してきた少女はそのまま毛皮の山をらして、こちらの胸にんできた。灰に銀粉を混ぜたような不思議な色合いのかみをなびかせた、きやしやな体つきの少女だった。年のころも十余といったあたりで、まだむすめと呼ぶのさえも早い。そんなミューリは元気だけは良く、その勢いにたおされ、船が右に左にとれた。ひっくり返らなかったのは、船頭のうでのおかげだろう。


「う、み、ミューリ、な、なんで──」


 ここにいるのだ、というのと、そんなにくさいのだ、という言葉がのどでつっかえて言葉にならなかった。


「なんでもなにもない!」


 力いっぱいにさけんだ少女、ミューリは、木だるの中がよほどくさかったのか、それとももっと別の理由からか、目になみだをいっぱいにめてこちらを見下ろしていた。


「私も旅に連れていって!」


 大地からる湯より熱いなみだが顔に落ちる。だが、とつぜんだるからミューリが出てきたとか、どう考えても船頭と示し合わせていたとか、いまさら船は引き返せないとか、そんなもろもろは後回しだった。目の前のミューリは今にも感情がれつしそうで、すでに灰色のかみはざわざわとうごめいている。

 ほかに手だてがなかった。あわててきしめ、その小さな頭をうでの中にかくす。


「わかりました! わかりましたから!」


 落ち着いて!

 その直後、ミューリがうでりほどいて、がばっと顔を起こした。


「本当!? 本当に!?」

「本当、本当です、だから落ち着いて──」


 耳と尻尾しつぽが出ている!

 こちらの心のさけびなど無視して、ミューリは目を見開いて満面のみになると、オオカミものに食らいつくようにきついてきた。


「兄様大好き! ありがとう!」


 よほどうれしいのか、かみと同じ色をしたけものの耳と尻尾しつぽがぱたぱたわさわさおおいそがしだ。

 顔を青くして船頭を見ると、どうやらかくごとせてすっきりしたのか、それとも変に気をかしているつもりなのか、せんすわって小さなさかだるを開けているところで、こちらを見ていなかった。

 とにかくこの場をどうにかしないとならない。あの行商人とオオカミの話は実話であり、この少女はその一人ひとりむすめだ。だんは耳と尻尾しつぽを自在に出し入れし、人と全く変わらないふうをよそおっているが、興奮したりびっくりしたりすると、意志に関係なくかくしているけものの耳と尻尾しつぽあらわになってしまう困ったとくちようがあった。


「ミューリ、ミューリ……!」

「ふふ、んふふ……うん?」


 まだなみだかわいていないのに、こんなにもうれしそうに笑うことができる。

 感情豊かなのはとても良いことだ。

 しかし、もう少しだけ、りよぶかくあってしかった。


「出てます、出てますから……!」


 声をころしてささやくと、ようやく気がついたらしい。あわててねこが顔でも洗うかのように、自分の頭をせっせとでていた。尻尾しつぽもそのころには消えていて、なんとか船頭には気づかれなかったようだ。ほっとして首から力をくと、後頭部がごんと船のゆかに当たる。

 それから、またすぐに起こした。


「ミューリ」

「うん?」


 ミューリがこちらに向けたみは、明らかな作り物。いかりをはらんだこちらの声に、いつからか見せるようになった女のがおだ。


「どきなさい」

「……はあい」


 せまい船内ではげられないと思ったのか、あるいはげんは取ったからなのか、いつもより聞き分け良くわざとらしいがおを消した。


「まったく……」


 ため息交じりに言いながら体を起こそうとすると、ミューリは手を貸してくれた。

 それから二人で散らかしてしまった毛皮を片付け、ミューリがかくれていた木だるも元にもどした。

 元々木のヤニがまっていたたるらしく、もうれつくさい。ミューリの体からはの灰の中に落っこちたようなにおいがする。オオカミの血が流れ、鼻の良いミューリがこれをまんしていたのだから、相当な決意がうかがえた。

 なにより、この少女はあのロレンスとホロのむすめである。旅に連れていってもらえず、めそめそとくまの巣穴で泣いているはずがなかった。


「それで?」


 すべてを元通りにしてから、そうたずねた。


「えへへ……家出してきちゃった」


 悪びれているようで悪びれていないミューリは、おてん少女そのままに、首をすくめながら言ったのだった。



 船はいまさら引き返せなかった。険しい山の中を下る川は、りようわきが高いがけだったり、良くても岩場だった。もちろん、仮に接岸できたとしても、そこからまともな道などびているはずもない。領主が設けた川の関所なら、旅人の使う山道もびてはいるが、場所によってはニョッヒラの村とは反対側に向かっていたりする。しかも、この地方はまだまだ冬のさなかで、雪深く、天候はすぐにれ模様になる。女の子が一人で、その細い足でとうできようはずもない。今すぐ追い返すというのは無理なのが明らかで、ミューリと向かい合ってすわると、大きなため息ばかりが出た。


「そもそも、その服はなんですか?」


 おとなしくちょこんとすわったミューリは、たちまちぱっと顔をかがやかせた。


可愛かわいいでしょ? ヘレンさんに作ってもらったんだ。今、南のほうはみんなこんな格好してるんだって」


 ミューリは湯屋に出入りしている人気のおどの名前を出してそんなことを言った。そのミューリは、うさぎの毛皮から作ったケープを羽織り、かたのややふくらんだそうしよく入りのシャツを着て、くまかわかなにかのコルセットをしている。自分の知識が確かなら、何十年も前のきゆうてい貴族がしていた形に近い。

 だが、最も頭痛を覚えるのは、その下だった。


「ヘレンさんみたいに肉付きが良くないのが残念なんだけど……えへへ、どうかな?」


 ミューリは細長い足に、つつじようわせたぬのをぴったりと穿いていた。その布の上に重ねたズボンはだいたんな位置まで切り落とした短い物で、とにかく足を見せることに特化している。旅用の武骨なくつでさえ、実用的な理由からではなく、足の細さを強調するためにいているように思えた。


「あのですね、なにから言っていいかわかりませんが、とにかく若い女の子がそんなに足を見せるというのは良くありません」

「見せてないよ。これ、きちんとつまさきまでおおってるよ?」


 しゆうほどこされ、細長い足をおおう布を引っ張りながら、ミューリがそう主張する。その様子がみようせんじよう的で、思わずせきばらいをはさむ。


はだを見せなければ良い、というわけではありません」


 三つ編みお下げにあさのスカートとまえけ、という質実な村人の姿からはほどとおかった。


「第一、旅にふさわしい格好ではありません。寒いでしょう?」

だいじよう。ヘレンさんたちから聞いたもの。お洒落しやれはやせまんが大事だって!」


 満面のがおでそんなことを言っているが、改めてよく見れば、くちびるじやつかん青いし、鹿じかのような足はふるえている。

 大きなため息をつきつつ、毛皮の山に手をばし、ミューリのひざの上にどんどんせていく。


とうみん中のかえるこして湯船にほうんだり、わなけてうさぎを根こそぎにしなくなったと、ようやくほっとしていたのですが……」


 村の男の子たちの中にいても群をいて元気だったミューリが、ある日女の子らしくなったと安心したのも束の間、今度はこちらの方向に頭をなやませることになった。

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影