木樽から飛び出してきた少女はそのまま毛皮の山を蹴散らして、こちらの胸に飛び込んできた。灰に銀粉を混ぜたような不思議な色合いの髪の毛をなびかせた、華奢な体つきの少女だった。年の頃も十余といったあたりで、まだ娘と呼ぶのさえも早い。そんなミューリは元気だけは良く、その勢いに押し倒され、船が右に左にと揺れた。ひっくり返らなかったのは、船頭の腕のおかげだろう。
「う、み、ミューリ、な、なんで──」
ここにいるのだ、というのと、そんなに焦げ臭いのだ、という言葉が喉でつっかえて言葉にならなかった。
「なんでもなにもない!」
力いっぱいに叫んだ少女、ミューリは、木樽の中がよほど臭かったのか、それとももっと別の理由からか、目に涙をいっぱいに溜めてこちらを見下ろしていた。
「私も旅に連れていって!」
大地から湧き出る湯より熱い涙が顔に落ちる。だが、突然木樽からミューリが出てきたとか、どう考えても船頭と示し合わせていたとか、今更船は引き返せないとか、そんな諸々は後回しだった。目の前のミューリは今にも感情が破裂しそうで、すでに灰色の髪の毛はざわざわとうごめいている。
ほかに手だてがなかった。慌てて抱きしめ、その小さな頭を腕の中に隠す。
「わかりました! わかりましたから!」
落ち着いて!
その直後、ミューリが腕を振りほどいて、がばっと顔を起こした。
「本当!? 本当に!?」
「本当、本当です、だから落ち着いて──」
耳と尻尾が出ている!
こちらの心の叫びなど無視して、ミューリは目を見開いて満面の笑みになると、狼が獲物に食らいつくように抱きついてきた。
「兄様大好き! ありがとう!」
よほど嬉しいのか、髪の毛と同じ色をした獣の耳と尻尾がぱたぱたわさわさ大忙しだ。
顔を青くして船頭を見ると、どうやら隠し事を吐き出せてすっきりしたのか、それとも変に気を利かしているつもりなのか、船尾に座って小さな酒樽を開けているところで、こちらを見ていなかった。
とにかくこの場をどうにかしないとならない。あの行商人と狼の話は実話であり、この少女はその一人娘だ。普段は耳と尻尾を自在に出し入れし、人と全く変わらないふうを装っているが、興奮したりびっくりしたりすると、意志に関係なく隠している獣の耳と尻尾が露わになってしまう困った特徴があった。
「ミューリ、ミューリ……!」
「ふふ、んふふ……うん?」
まだ涙も乾いていないのに、こんなにも嬉しそうに笑うことができる。
感情豊かなのはとても良いことだ。
しかし、もう少しだけ、思慮深くあって欲しかった。
「出てます、出てますから……!」
声を押し殺して囁くと、ようやく気がついたらしい。慌てて猫が顔でも洗うかのように、自分の頭をせっせと撫でていた。尻尾もその頃には消えていて、なんとか船頭には気づかれなかったようだ。ほっとして首から力を抜くと、後頭部がごんと船の床に当たる。
それから、またすぐに起こした。
「ミューリ」
「うん?」
ミューリがこちらに向けた笑みは、明らかな作り物。怒りを孕んだこちらの声に、いつからか見せるようになった女の笑顔だ。
「どきなさい」
「……はあい」
狭い船内では逃げられないと思ったのか、あるいは言質は取ったからなのか、いつもより聞き分け良くわざとらしい笑顔を消した。
「まったく……」
ため息交じりに言いながら体を起こそうとすると、ミューリは手を貸してくれた。
それから二人で散らかしてしまった毛皮を片付け、ミューリが隠れていた木樽も元に戻した。
元々木のヤニが詰まっていた樽らしく、猛烈に焦げ臭い。ミューリの体からは囲炉裏の灰の中に落っこちたような臭いがする。狼の血が流れ、鼻の良いミューリがこれを我慢していたのだから、相当な決意がうかがえた。
なにより、この少女はあのロレンスとホロの娘である。旅に連れていってもらえず、めそめそと熊の巣穴で泣いているはずがなかった。
「それで?」
すべてを元通りにしてから、そう尋ねた。
「えへへ……家出してきちゃった」
悪びれているようで悪びれていないミューリは、お転婆少女そのままに、首をすくめながら言ったのだった。
船は今更引き返せなかった。険しい山の中を下る川は、両脇が高い崖だったり、良くても岩場だった。もちろん、仮に接岸できたとしても、そこからまともな道など伸びているはずもない。領主が設けた川の関所なら、旅人の使う山道も伸びてはいるが、場所によってはニョッヒラの村とは反対側に向かっていたりする。しかも、この地方はまだまだ冬のさなかで、雪深く、天候はすぐに荒れ模様になる。女の子が一人で、その細い足で踏破できようはずもない。今すぐ追い返すというのは無理なのが明らかで、ミューリと向かい合って座ると、大きなため息ばかりが出た。
「そもそも、その服はなんですか?」
おとなしくちょこんと座ったミューリは、たちまちぱっと顔を輝かせた。
「可愛いでしょ? ヘレンさんに作ってもらったんだ。今、南のほうはみんなこんな格好してるんだって」
ミューリは湯屋に出入りしている人気の踊り子の名前を出してそんなことを言った。そのミューリは、兎の毛皮から作ったケープを羽織り、肩のやや膨らんだ装飾入りのシャツを着て、熊皮かなにかのコルセットをしている。自分の知識が確かなら、何十年も前の宮廷貴族が召していた形に近い。
だが、最も頭痛を覚えるのは、その下だった。
「ヘレンさんみたいに肉付きが良くないのが残念なんだけど……えへへ、どうかな?」
ミューリは細長い足に、筒状に縫い合わせた亜麻布をぴったりと穿いていた。その布の上に重ねたズボンは大胆な位置まで切り落とした短い物で、とにかく足を見せることに特化している。旅用の武骨な靴でさえ、実用的な理由からではなく、足の細さを強調するために履いているように思えた。
「あのですね、なにから言っていいかわかりませんが、とにかく若い女の子がそんなに足を見せるというのは良くありません」
「見せてないよ。これ、きちんと爪先まで覆ってるよ?」
刺繡が施され、細長い足を覆う布を引っ張りながら、ミューリがそう主張する。その様子が妙に扇情的で、思わず咳払いを挟む。
「肌を見せなければ良い、というわけではありません」
三つ編みお下げに麻のスカートと前掛け、という質実な村人の姿からは程遠かった。
「第一、旅にふさわしい格好ではありません。寒いでしょう?」
「大丈夫。ヘレンさんたちから聞いたもの。お洒落はやせ我慢が大事だって!」
満面の笑顔でそんなことを言っているが、改めてよく見れば、唇は若干青いし、小鹿のような足は震えている。
大きなため息をつきつつ、毛皮の山に手を伸ばし、ミューリの膝の上にどんどん載せていく。
「冬眠中の蛙を掘り起こして湯船に放り込んだり、罠を仕掛けて兎や栗鼠を根こそぎにしなくなったと、ようやくほっとしていたのですが……」
村の男の子たちの中にいても群を抜いて元気だったミューリが、ある日女の子らしくなったと安心したのも束の間、今度はこちらの方向に頭を悩ませることになった。