なにせ、湯屋は人を喜ばせるのが仕事の場所だから、とにかく華やかで賑やかだ。やってくる客たちも羽目を外す者ばかりなのに、そこで禁欲やら清貧やらを説いたってまったく説得力がない。
父親たるロレンスも一度は叱るが、そこでちょっと殊勝にしておけばそれ以上強く言わない、とミューリに見抜かれているので、抑止力としては心もとない。挙句に最近は、だってお父様が喜ぶかと思って……と悲しげにする技を覚えたので、いよいよ無力になっていた。
母親たるホロに対しては、尻尾を踏んだらその怖さはロレンスの比ではないとわかっているので、ミューリもホロの顔色は窺っていた。しかし、何百年と生きるホロは元々布地のひとつや二つを気にかけるような性格ではないし、むしろミューリを通じて華やかな衣装の情報を仕入れているほど。
結局、自分がしっかりするほかない。
「女の子らしく服装に気を配りなさいって言ったのは、兄様じゃない」
毛皮の山の中で、ミューリはむくれていた。
「極端なのです。腰巻ひとつで山に分け入る、蛮族みたいな格好をしていたからそう言ったのです。何事も中庸が大事です。わかりましたか?」
「……はあい」
面白くなさそうに返事をして、ミューリはそのまま後ろ向きに毛皮の山にぼすっと倒れ込んだ。
「えへへ、なんだっていいや。あの狭い村をようやく出られたんだもの」
両腕を広げて、透きとおった青空を見上げながらミューリはそんなことを言う。
冷水をかけることばかり言いたくないが、誰かがその役目を引き受けなければならない。
「スヴェルネルに着いたら、人と馬をつけますから、そこから帰るんですよ」
スヴェルネルまで行けば、湯屋の仕入れなどの関係で知り合いがたくさんいる。信用できる者たちも多いので、ミューリを任せても安心だ。
ただ、ミューリは絶対に怒り狂うだろうと腹に力を込めて構えていたのに、一向に駄々をこねる様子がなかった。
「ミューリ?」
こちらから重ねて問うと、空を見ていたミューリはゆっくりと瞼を閉じ、ため息をついた。
「はあい」
随分聞き分けが良いので、逆に嫌な予感がした。それとも、単に村からちょっと出てみたかっただけだろうか? しかし、その程度の理由で鼻が曲がりそうなほど臭い樽の中で息を殺そうと決意するだろうか? しかも、旅立ちの日が近づいてからは、一週間に渡って文字どおり嚙みついてごねていたのだ。
疑わしげにその様子を窺っていたが、ミューリは毛皮の山の中であくびをしていた。
「ふぁ~……あふっ。夜が明ける前から準備してたから、眠くなっちゃった……」
こちらがどれほど心配しようとも、その欠片も伝わっていない。自由奔放なミューリにとっては、すべて煩わしいことなのだろう。その図太さも並大抵のことではなく、寝ると決めたらすぐにでも寝られる特技からも明らかだ。毛皮の隙間からは、すでに寝息が聞こえていた。
やれやれとため息をついて、ミューリの上にさらに毛皮をかけ、苦しそうなので頭の上のは退けてやる。おとなしく眠っている顔は健気で可愛らしいが、可愛い故に、余計に気苦労が絶えなかった。
暖かく眠れるようにとひととおり毛皮をかけ終わると、船頭が長い棹の先に器用に木のジョッキの取っ手を引っ掛けて、こちらに伸ばしてきた。甘酸っぱい香りから、スグリの果実酒だとわかった。
「夜が明ける前に、村の寄合所で仮眠していた俺のところにやってきてね」
ミューリのことだとはすぐにわかる。もちろん、ミューリの計画に加担したこの船頭を責める気はない。
「船に乗せろ、乗せないと死ぬって喚くんだ。月明かりの按配か知らないが、暗闇の中で光る金色の目を見て、こりゃ本気だ、と思ったわけさ」
甘さよりも酸っぱさの勝る酒を啜りながら、笑いもひきつってしまう。旅に連れていけと迫るミューリがどれくらいの迫力かは、ここ一週間ずっと味わってきた。
「まあ、放浪の旅やら、わけありの逃避行なんかはこの仕事をやってるとちょくちょく出くわす。手を貸してもいいものかどうか、それなりに判断はできているつもりだ」
「その上で、いいと?」
「そりゃあ、旅の道連れがいかにも堅物の青年とくれば。ただ、予想より固すぎて、怒り出さないか不安だったがね」
笑う船頭の言葉には、ため息が出るばかり。甘酸っぱい酒を口に含み、肩を落とした。
なんにせよミューリはスヴェルネルに着いたら追い返す。なにを企んでいるのか知らないが、断固たる態度でそうしなければならない。ミューリは自由奔放で、勝手気ままで、客におだてられたら踊り子たちと一緒にこちらが慌てるような格好で踊り狂う娘だが、常にどこかは冷静なのだ。成長するに従い、どきりとするほど母親のホロにそっくりになってきたが、真に似ているのはその容姿ではない。そっくりなのは、馬鹿騒ぎの合間に見せる、賢狼と呼ばれ崇められた母親と同じ、運命を見とおすような理知的な目のほうだ。
「しかし、兄妹だったとは。てっきり恋仲だと思ったんだが、そこは当てが外れたな」
「血の繫がった兄妹ではありません。お世話になっていた湯屋の主人の一人娘です。産声を聞いて、散々おしめを替えてきましたよ」
ミューリ自身もつい最近まで、こちらのことを本当の兄だと思っていたらしい。いかにホロやロレンスが、自分のことを単なる使用人としてではなく、家族として扱ってくれていたかということだ。感謝のしようもない。
「ま、これだけ賑やかな娘と一緒なら、長旅も飽きないだろう」
ミューリはさっさと村に送り返すつもりだったが、少なくともそれまでは静かで単調な旅、とはいかないことが容易に想像できる。
「賑やかなのは構いませんが、何事も適度であってほしいものです」
「それも大事だ。川の流れのようにな」
船頭が笑ってジョッキを軽く掲げるので、それにあわせて掲げ、道中の無事を神に祈ったのだった。
関所をいくつか越え、船はそのたびに止まり、積み荷を調べられ、税を支払っていた。
昼寝から目覚めたミューリは見る物すべてが珍しいようで、興味津々に辺りを見回し、意外に静かだった。
太陽が茜色に変わる頃には、辺りの景色もかなり変わってきていた。山がちなのは同じだが、雪が減り、小石の多い河原が増え、時折川沿いに道が見えるようになった。
流れもだいぶ緩やかになってきた川を大きく迂回して丘を回り込むと、目の前に現れたのはこれまでとは違う、大きくて賑やかな関所だった。
「わあ! すごい!」
広い河原にはたくさんの荷物が並んでいる。川を下って運ばれてきたのか、それともここからさらに下って次の関所に向かうかするのだろう。桟橋の入り口では鎧兜の兵が槍を携え、夜間の見張りのための篝火を用意していた。その桟橋でも今日の航行は終わりだと、船をくくりつけている者や、すでに船の上で酒盛りをしている者たちがいた。
「この川で二番目に大きい、ハビリシ卿の関所だ」
船頭が船を桟橋に寄せると、顔なじみらしいほかの船頭たちが挨拶を寄越してくる。
「二番目? これで二番目なの?」
河原の向こうには宿屋が二軒ほど見え、軒先に椅子と長机が出されて夜の騒ぎが一足先に始まっている。窮屈な市壁の中ではないので、随分おおらかなようだ。
笑い声や誰かが持ち出した楽器の音色に、ミューリはうずうずそわそわしていた。