第一幕 ⑥

「一番大きいのは、この川をさらに二晩下ったところにある。関所のかたわらにあるのはあんな小屋じゃない。立派なしようろう付きの石造りのようさいでな、対岸のこれまた大きな石のとうと、きよだいくさりつながっている。頭上にわたされたくさりの下を通る時は、まるでごくしんぱんを受けているかのようにどきどきするよ」

くさり?」


 ミューリがきょとんとした。


くさりつないだら、船が通れなくなるでしょう?」


 なぞかけを楽しむように笑う船頭に、困ったミューリはこちらに助けを求めてくる。


「それが目的なんですよ」

「そう。もうそこからは海まで一息だからな。大うなばらからやってくるかいぞく共が内陸に入ってこないようにと、いざという時にはくさりを落としてぼうぎよするんだ。あるいは、かいぞくどもへの警告だな。町にめてきたらこのくさりつないでれいとして働かせてやるってな」


 今まさに頭上にくさりがあるかのように、ミューリは目を見開いていた。


かい……ぞく……? かいぞく!? かいぞくって、あのかいぞく!?」


 山頂に登っても、わたす限りに山が続くようなニョッヒラで生まれ育ったミューリには、あまりにもえんどおい単語だったのだろう。

 興奮に目を見開き、こちらのうでを痛いくらいにつかんでくる。


「すごい! 兄様、かいぞくだって! かいぞく!? それを? くさりで!?」


 船の上で大はしゃぎのミューリに、周りの者たちはな視線を向けてくる。しかし、それがどうやらやまおくから出てきたばかりの少女とわかると、今すぐにでもかいぞくに転身できそうな船頭たちが、そろって孫を可愛かわいがる年寄りのようなやさしげなみをかべていた。


「すごい、すごい! 兄様も海まで行くの? 行くんだよね?」

「行きません」


 しかし、こちらはことさら冷たく言った。これ以上興奮したら耳と尻尾しつぽが出てくるかもしれない。

 なにより、あまり外の世界に興味を持たれ過ぎると、ニョッヒラに送り返すのが難しくなる。


「それにかいぞくが内陸まで来ることなんてめつにありませんし、私も聞いたことがありません」

「まあな。単なるおどし……あるいは、ここはかいぞくねらわれるくらい重要な土地なのだ、というなんだよ。もしも川を下ってきて、あるいは海から上がってきて、頭上にきよだいくさりが張られていたらだれだってきもをつぶすだろう?」


 ミューリはそんな説明にいちいち大きくうなずいて、かんたんのため息をついていた。


「外の世界は、とても複雑なんだね」


 おお神よ、とでも続きそうなくらいな言い方に、思わず笑いそうになってしまった。

 ただ、気をゆるめてはならない。可能な限り冷たくあしらって、情がかないようにしなければならない。


「行きますよ、ミューリ。今日はここで宿しゆくはくです」

「あ、う、うん!」


 川の流れの先をしんみような顔で見つめていたミューリは我に返り、あわててかくれていた木だるの中から荷物を引きずり出していた。中になにが入っているのか知らないが、一応旅たく調ととのえていたらしい。


「操船ありがとうございました」

「なあに」


 船頭とはここでお別れ、と気がついたらしいミューリは、こちらが持っているのとそっくりなぶくろを一丁前にかたかつぎ直し、がおで手をった。


「船頭さん、ありがとう!」

「またな!」


 くつたくのないがおに、船頭は船をあやつるためのさおげ応える。ミューリはがおでうなずき、去り際にももう一度いて、手をっていた。

 そんな様子を横目に、さんばしをかこかこ音を立てて歩き、河原の石を取り除いて作られた道に降りると、確かな地面にほっとした。船旅は楽だが、みようきんちようする。ミューリもふないなどしていないだろうか、とふと見れば、となりで表情をかげらせていた。


いましたか?」


 ミューリは顔を上げ、力なくほほんだ。


「ううん。せっかく仲良くなったのに……ちょっと、さびしいなって」


 がらきやしやで、しかも寒そうな格好をしているせいもあるだろうが、なによりがんって笑おうとしながらそう言うところが、なんともいじらしい。

 しかし、あまい顔を見せてはならない。気をめ、言った。


「湯屋でも別れは当たり前でしょう」

「そうだけど……お客さんはお客さんだもの」

「船頭さんから見たら、ミューリもその客の一人です」

「……」


 となりを歩くミューリはこちらのことを見上げ、少し傷ついたような顔をしていた。


「そっか……」


 旅は出会いと別れの連続だ。楽しいことばかりではない。

 それがわかってくれれば、おとなしくニョッヒラに帰ってくれるかもしれない。

 そう思っていたのだが、しゅんとしてしまったミューリの様子に、どうしても心が痛む。


「まあ、あの船頭はこの川をずっと上り下りしています。村の港に行けばいつでも会えますよ」


 ミューリは顔を上げ、こちらを見る。

 目が合うと、ほっとするように笑った。


「ありがと、兄様」


 ミューリのがおに、もう少しでほだされるところだった。

 それから連れだって川岸の宿屋に向かい、部屋をひとつ確保した。本当は最も安い部屋にするつもりだったが、ミューリがいるので仕方がない。この分はこれから後、節約していけばいい。

 やれやれと荷物を下ろすと、木窓を開けて外を見下ろしていたミューリは、元気いっぱいにかえった。


「兄様! 外で肉を焼いてるよ!」


 ニョッヒラで育ったミューリは、それでなくてもえんかいが大好きだ。うまい食べ物は輪をかけて好きで、これで酒を飲むようになったら手がつけられなくなるだろう。

 ミューリにそでを引かれて外を見てみたが、確かに石で囲ったかまどでは、ごうせいぶたを丸焼きにしている真っ最中だった。


「ね? ね? ぶたの丸焼きだって。すごいよね、今日はお祭りなのかなあ」


 にぎやかさではニョッヒラも負けていないが、やまおくの土地なので物資の流通に限りがある。鹿しかうさぎは山でれるが、ぶたれないので高級な輸入品、という印象なのだろう。その丸焼きになれば、なおさらお目にはかかれない。

 おおはしゃぎのミューリをよそに、さてどうやって今晩の食事を干し肉とった豆だけで済まそうかと考えていると、ふと視線を感じた。酒をわす旅人や商人たちの中で、一人だけぽつんとすわっている者が、こちらを軽く見上げて手をかかげていた。


「ねえ、兄様、ちょっとだけでいいから、ね?」


 と、ねだるミューリに、さいから銅貨を数枚取り出して、にぎらせた。


「二人分の食事を買ってきてください。少しでしょうが、ぶたの丸焼きの肉も買えるでしょう」

「え……あ、うん」


 この地方で使われる、ディップ銅貨と呼ばれるへいを手に、ミューリはややまどっている。


「兄、様は? 行かないの?」

「おいのりと聖典のあんしようの日課がありますから。それとも、いつしよにやりますか?」


 ミューリはたちまちいやそうな顔をして、まれたらかなわない、とばかりに遠巻きにとびらに向かう。


「じゃあ、ちょっと買ってくるね!」

「お酒はだめですよ」

「え~……」

「だめですからね」


 ミューリは返事をせず、むくれたまま部屋から出ていった。

 まったく、とため息をつきつつ、少ししてから外を見ると、ぶたの丸焼きの前に小走りにけていったミューリが、ぱっとこちらをいて手をってきた。人ごみの中でもすぐに目立つのは、おど直伝のしんな格好だから、というわけではない。ミューリは実際に人の中で目立つ。まるでりんかくに沿っていたかのように、そこだけあわく光っているようにさえ見えた。

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影