「一番大きいのは、この川をさらに二晩下ったところにある。関所の傍らにあるのはあんな小屋じゃない。立派な鐘楼付きの石造りの要塞でな、対岸のこれまた大きな石の塔と、巨大な鎖で繫がっている。頭上に渡された鎖の下を通る時は、まるで地獄の審判を受けているかのようにどきどきするよ」
「鎖?」
ミューリがきょとんとした。
「鎖で繫いだら、船が通れなくなるでしょう?」
謎かけを楽しむように笑う船頭に、困ったミューリはこちらに助けを求めてくる。
「それが目的なんですよ」
「そう。もうそこからは海まで一息だからな。大海原からやってくる海賊共が内陸に入ってこないようにと、いざという時には鎖を落として防御するんだ。あるいは、海賊どもへの警告だな。町に攻めてきたらこの鎖に繫いで奴隷として働かせてやるってな」
今まさに頭上に鎖があるかのように、ミューリは目を見開いていた。
「海……賊……? 海賊!? 海賊って、あの海賊!?」
山頂に登っても、見渡す限りに山が続くようなニョッヒラで生まれ育ったミューリには、あまりにも縁遠い単語だったのだろう。
興奮に目を見開き、こちらの腕を痛いくらいに摑んでくる。
「すごい! 兄様、海賊だって! 海賊!? それを? 鎖で!?」
船の上で大はしゃぎのミューリに、周りの者たちは奇異な視線を向けてくる。しかし、それがどうやら山奥から出てきたばかりの少女とわかると、今すぐにでも海賊に転身できそうな船頭たちが、揃って孫を可愛がる年寄りのような優しげな笑みを浮かべていた。
「すごい、すごい! 兄様も海まで行くの? 行くんだよね?」
「行きません」
しかし、こちらは殊更冷たく言った。これ以上興奮したら耳と尻尾が出てくるかもしれない。
なにより、あまり外の世界に興味を持たれ過ぎると、ニョッヒラに送り返すのが難しくなる。
「それに海賊が内陸まで来ることなんて滅多にありませんし、私も聞いたことがありません」
「まあな。単なる脅し……あるいは、ここは海賊に狙われるくらい重要な土地なのだ、という見栄なんだよ。もしも川を下ってきて、あるいは海から上がってきて、頭上に巨大な鎖が張られていたら誰だって肝をつぶすだろう?」
ミューリはそんな説明にいちいち大きくうなずいて、感嘆のため息をついていた。
「外の世界は、とても複雑なんだね」
おお神よ、とでも続きそうなくらい生真面目な言い方に、思わず笑いそうになってしまった。
ただ、気を緩めてはならない。可能な限り冷たくあしらって、情が湧かないようにしなければならない。
「行きますよ、ミューリ。今日はここで宿泊です」
「あ、う、うん!」
川の流れの先を神妙な顔で見つめていたミューリは我に返り、慌てて隠れていた木樽の中から荷物を引きずり出していた。中になにが入っているのか知らないが、一応旅支度を調えていたらしい。
「操船ありがとうございました」
「なあに」
船頭とはここでお別れ、と気がついたらしいミューリは、こちらが持っているのとそっくりな頭陀袋を一丁前に肩に担ぎ直し、笑顔で手を振った。
「船頭さん、ありがとう!」
「またな!」
屈託のない笑顔に、船頭は船を操るための棹を振り上げ応える。ミューリは笑顔でうなずき、去り際にももう一度振り向いて、手を振っていた。
そんな様子を横目に、桟橋をかこかこ音を立てて歩き、河原の石を取り除いて作られた道に降りると、確かな地面にほっとした。船旅は楽だが、妙に緊張する。ミューリも船酔いなどしていないだろうか、とふと見れば、隣で表情を陰らせていた。
「酔いましたか?」
ミューリは顔を上げ、力なく微笑んだ。
「ううん。せっかく仲良くなったのに……ちょっと、寂しいなって」
小柄で華奢で、しかも寒そうな格好をしているせいもあるだろうが、なにより頑張って笑おうとしながらそう言うところが、なんともいじらしい。
しかし、甘い顔を見せてはならない。気を引き締め、言った。
「湯屋でも別れは当たり前でしょう」
「そうだけど……お客さんはお客さんだもの」
「船頭さんから見たら、ミューリもその客の一人です」
「……」
隣を歩くミューリはこちらのことを見上げ、少し傷ついたような顔をしていた。
「そっか……」
旅は出会いと別れの連続だ。楽しいことばかりではない。
それがわかってくれれば、おとなしくニョッヒラに帰ってくれるかもしれない。
そう思っていたのだが、しゅんとしてしまったミューリの様子に、どうしても心が痛む。
「まあ、あの船頭はこの川をずっと上り下りしています。村の港に行けばいつでも会えますよ」
ミューリは顔を上げ、こちらを見る。
目が合うと、ほっとするように笑った。
「ありがと、兄様」
ミューリの笑顔に、もう少しでほだされるところだった。
それから連れだって川岸の宿屋に向かい、部屋をひとつ確保した。本当は最も安い雑魚寝部屋にするつもりだったが、ミューリがいるので仕方がない。この分はこれから後、節約していけばいい。
やれやれと荷物を下ろすと、木窓を開けて外を見下ろしていたミューリは、元気いっぱいに振り返った。
「兄様! 外で肉を焼いてるよ!」
ニョッヒラで育ったミューリは、それでなくても宴会が大好きだ。うまい食べ物は輪をかけて好きで、これで酒を飲むようになったら手がつけられなくなるだろう。
ミューリに袖を引かれて外を見てみたが、確かに石で囲った竈では、豪勢に豚を丸焼きにしている真っ最中だった。
「ね? ね? 豚の丸焼きだって。すごいよね、今日はお祭りなのかなあ」
賑やかさではニョッヒラも負けていないが、山奥の土地なので物資の流通に限りがある。鹿や兎は山で獲れるが、豚は獲れないので高級な輸入品、という印象なのだろう。その丸焼きになれば、尚更お目にはかかれない。
おおはしゃぎのミューリをよそに、さてどうやって今晩の食事を干し肉と炒った豆だけで済まそうかと考えていると、ふと視線を感じた。酒を酌み交わす旅人や商人たちの中で、一人だけぽつんと座っている者が、こちらを軽く見上げて手を掲げていた。
「ねえ、兄様、ちょっとだけでいいから、ね?」
と、ねだるミューリに、財布から銅貨を数枚取り出して、握らせた。
「二人分の食事を買ってきてください。少しでしょうが、豚の丸焼きの肉も買えるでしょう」
「え……あ、うん」
この地方で使われる、ディップ銅貨と呼ばれる貨幣を手に、ミューリはやや戸惑っている。
「兄、様は? 行かないの?」
「お祈りと聖典の暗誦の日課がありますから。それとも、一緒にやりますか?」
ミューリはたちまち嫌そうな顔をして、巻き込まれたらかなわない、とばかりに遠巻きに扉に向かう。
「じゃあ、ちょっと買ってくるね!」
「お酒はだめですよ」
「え~……」
「だめですからね」
ミューリは返事をせず、むくれたまま部屋から出ていった。
まったく、とため息をつきつつ、少ししてから外を見ると、豚の丸焼きの前に小走りに駆けていったミューリが、ぱっとこちらを振り向いて手を振ってきた。人ごみの中でもすぐに目立つのは、踊り子直伝の新奇な格好だから、というわけではない。ミューリは実際に人の中で目立つ。まるで輪郭に沿って切り抜いたかのように、そこだけ淡く光っているようにさえ見えた。