それとも、本当の妹のように可愛がってきたゆえの贔屓目だろうか。
苦笑したところで、扉がノックされた。
「どうぞ」
笑みを引っ込め、木窓を閉じる。
扉が開くと、そこにはつい先ほど、広場からこちらを見上げていた旅人がいたのだった。
小柄と言えるかもしれないが、さほど背が低いわけではない。体格はがっしりしているわけではないが、細いわけでもない。なんとも印象が摑みにくいのは、もしかしたらたまには密偵じみた仕事をするからなのかもしれない。
フードをかぶると若い青年なのかと思うが、実際は皺の出始めた物静かな男だ。
「驚きました。こんなところでお会いするとは」
椅子を勧めると、男はかぶりをふる。
「長居はしません。わざわざ人払いもしてもらってすみませんね」
「ああ……あの子は、ニョッヒラから無理やりついてきたんですよ。積み荷に潜り込んでいたんです。それも木のヤニが詰まっていたような、よもやここにはというくらい臭い樽の中に」
「ええ?」
男は驚き、肩を揺らして笑った。
「あの樽は本当に臭い。私も何度か潜り込んだことがありますが」
やはりこう見えて、荒っぽい仕事も多いようだ。男はデバウ商会と呼ばれる、この北の地方一帯に勢力を広げている強力な大商会の連絡員だった。デバウ商会は教皇と揉めているウィンフィール王国側に与している。苦境に陥った王国を助け、商売上の特権を引き出すのが狙いなのだろう。
そういうわけで、ウィンフィール王国と、自分のような王国への協力者の連絡役を請け負っているのだ。
「笑い事ではありませんよ……。ところで、どうしてここに? スヴェルネルでお会いするはずでは?」
「それなのですが、レノス行きはなくなりまして、そのことをお伝えするためにここで待っていたのです。代わりに、アティフに向かっていただきたい」
「アティフに?」
それは、昼間乗っていた船の船頭が語った、海賊から守るために巨大な鎖が渡されている関所がある町の名だった。
「レノスからはまた随分離れますね……なにかあったのですか」
ニョッヒラから流れ出る川は、少し南に下った後に、進路を変えて真西に向かう。川は山脈の隙間を窮屈そうに蛇行したあと、ドラン平原と呼ばれる平地に出て、海にそそぐ。レノスはもっと南西に向かって、いくつも山を越えた地方の町だ。
「レノスにある司教座の大司教とは、交渉が早々に決裂しましてね」
「え……」
「ハイランド様がご自身でどうにかしたいと仰っておりましたが、北の地方と南の地方を繫ぐ重要な地域なので、ラフォーク伯爵が代わって交渉に臨むと」
レノスという町は、自分が子供の頃はまだ教会がなかったが、今や北の地での信仰の一大中心地とも呼べる規模になっている。他の教会の司教を任命する権限を持つ司教座が置かれ、大司教が錫杖を振るってかれこれ十年になる。
ただ、気落ちしたのは重要なレノスの町での交渉がうまくいかなかったからではない。
「ハイランド様はさぞご無念でしょう」
その人物のことが気がかりだった。
「なあに、あのかたの良いところは諦めないところです」
ハイランドは高位の身分で、ウィンフィール王国の王族の血を引いているが、連絡員の男は友人のことを語るようにそう言った。本来なら不敬なのだろうが、男の気持ちもわかる。ハイランドは変に気取らないまっすぐな心根の持ち主で、つい友人のような気になってしまう。
自分がウィンフィール王国の一助になろうと決心したのは、理屈の面もあるが、ニョッヒラの湯に浸かりに来たこのハイランドに、直接口説かれたからということも大きかった。
「では、アティフで次の交渉を? しかし、レノスの次がアティフとは……」
「レノスの交渉に失敗し、萎縮してるみたいだと?」
男に指摘され、おとなしくうなずく。
「アティフの教会は司教座が置かれていると言っても、確かに新参も新参。弱小司教座ですが、ここ数年は町全体が交易で大儲けしていて、ますます伸びるといった感じです。あそこを説得できれば、北の海の三分の一は確保できます」
北の地の隅々まで掌握しているデバウ商会が言うのだから、噓ではないのだろう。
それに、アティフがいつの間にか大きくなっていたなどという話は知らなかった。ニョッヒラの山奥にいると、どうしても世事に疎くなるようだ。
「また、どこの王権にも属していない自治都市ですから、取っかかりとしても悪くない。アティフが説得に応じれば、他の自治都市も倣うことでしょう。その上、アティフからでしたら、今時の船で海路を使えばウィンフィール王国まで二日とかかりません。地図上では遠いようで、実は重要な町なのです」
地理には多少詳しい自信があったが、世の中は大きく動いている。自分の記憶は過去のものと思ったほうが良さそうだった。
「なんにせよ、ハイランド様やウィンフィール王国には頑張っていただかないとなりません。尻馬に乗る我々の儲けがありませんからな」
商人らしい男の物言いには苦笑いだったが、事実でもある。
「コル様も、未来の王家お抱え司祭の座を狙う身でしょう?」
「それは」
言い募ろうとして、口ごもってしまう。出てきたのは、己の欲を認める照れ笑いだ。
「立身出世に興味がない、とは申しません。ですが、やはり教皇様の横暴としか言えない政策と、恣意的に神の教えが用いられている現状は許せません。なにより、ハイランド様の確かな信仰心に心を打たれました。あのような方が治世を行ってくれたらと思います。そして、私の力が正しい信仰の役に立つのでしたら、とても嬉しいことです。それに……」
「それに?」
「十分の一税が強化されれば、ニョッヒラが仕入れる様々な品物の値も上がるでしょう? 逆にそれが廃止できれば、ニョッヒラの湯屋の儲けを守ることができます」
男はやや驚いた顔をしてから、額をぴしゃんと叩いて笑っていた。
「コル様は修道院に引きこもっていた学僧とは違いますな。実に心強い。右手に天秤、左手に聖典というわけだ」
「どっちつかずかもしれません」
「それはおいおい証明していけば良いだけのこと」
そして、その結果、各々が望む利益を手に入れる。自分もその列に加わる一人とはいえ、ハイランドへの純粋な協力の気持ちがないわけではない。たとえ見返りがなくとも、と大袈裟に言えばそうだった。
上等の客だけが使える洞窟内の静かな湯に浸かり、教理問答を望むハイランドの相手をした時のことを今でもはっきりと思い出せる。ハイランドの信仰と情熱は本物であり、自分の国が教皇の欲望によってひどい目に遭わされていることに、本気で心を痛めていた。古来より、高位の人間の側に立つ聖職者は、彼らの友でもあった。自分の学んできたことが、素晴らしい人物の支えになるのなら、それはとても誇らしいことだ。
「それと、ハイランド様の遠大なる計画も楽しみです」
男はにやりと笑って、言った。
「『我々の神の書』を作ろうとは、この歳になってもわくわくする大事業です。コル様にも期待されているとのことですよ」
「恐縮です」
それは謙遜ではなく本気だったのだが、男はからからと笑っていた。
「とりあえず、皆様の滞在は我々デバウ商会の商館で面倒を見させていただきます。道具類もすぐに揃えられるでしょう」
「よろしくお願いします」
「さて、私も次の場所に行かなければ。まだ船に飛び乗れば次の町に行ける。ハイランド様も海路ですでにアティフに到着なさっているでしょうし。それでは、神のご加護があらんことを」
男は小さく笑うと部屋を出ていった。
ぱたん、と閉じられた扉を前に、大きくため息をついた。知らず緊張していたらしい。