自分は数多いる協力者の一人にすぎないとはわかっているし、これは信仰を巡る真剣な問題だともわかっている。けれども、どうしたって胸の奥に熱いものを感じてしまう。本来の勤めを忘れた教皇と、それに立ち向かうウィンフィール王国。
大きな物に立ち向かう興奮と、冒険に対する憧憬が自分の中にもあっただなんて思いもよらなかった。
まずはアティフであのハイランドの支えとなる、というのはおこがましくも、一助になれればと決意を改めた。そんな時だった。
「あ~、兄様~!」
扉の向こうから聞こえてきたミューリの間抜け声に、厳粛な想いが破られた。
「扉、開けて~」
ごん、ごん、というのは扉を蹴る音だろう。
ため息をついて、扉を開けた。
「扉を蹴るのはやめなさいと何度言ったらわかるんですか」
「わっわっ、ちょっと、どいてどいて!」
ミューリは小言を聞く耳など持たず、こちらのことを押しのけて部屋に転がり込み、両手いっぱいに抱えていた物をなんとか落とさずにベッドの上に置いた。
「手が、手が熱い! 火傷したかなあ……」
ふうふうと息を吹きかけているが、こちらもまた呆気にとられていた。
「ミューリ? なんでそんなにたくさん買い物が?」
渡したのはディップ銅貨と呼ばれる、この辺では最小単位の通貨だ。二枚や三枚では一食分を買うのがせいぜいで、豚の肉が数切れと、乾いた古いパンを買えれば良いほうのはず。
それが、ミューリが抱えていたのは大きな葉っぱで包まれたあれやこれやと、ミューリの太ももくらいありそうな立派な三本のパン。どう考えたって、買える量ではない。極めつけは、小ぶりな酒樽だった。
「酒は買ってはだめだと言ったでしょう」
無視し続けるのも面倒になったのか、ミューリはつんとした様子で言った。
「買ってないもの」
「買ってない?」
「もらったの」
「そういうことでは──まさか、これ全てを?」
すると、ミューリはたちまち得意げな笑顔になった。
「豚が焼けるのを待ってたら、踊りに誘われてね? 楽器に合わせて踊ったら、みんなすごい喜んでくれたんだよ!」
自分の両頰に手を当てて、嬉しそうに身をよじりながらくるりと回転すると、耳と尻尾が現れた。賑やかなことが好きな娘だし、ニョッヒラの湯屋では踊り子と一緒によく踊っていた。
その様子に、ため息をついて額に手を当てる。それから、鼻歌と共にふさふさの尻尾を振って舞うミューリの頭を、手でぐいと押さえつけた。
「ミューリ、以降、そういうことは慎むように」
「ほえ?」
手のひらの下から、きょとんとこちらを見上げてくる。
そして、なにかに気がついたように口を開けた。
「あ……えっと、靴のままテーブルの上に乗るのは、その、私もいけないかな、と思ったんだけど……」
耳がしょげ、尻尾が力なく垂れる。
そんなことをしていたのか、と眩暈を覚える。
「でもでも、ほかに踊り子さんがいないかはきちんと確認したよ? お仕事の邪魔をしちゃいけないってのはわかってるもの」
それくらい弁えている、とばかりに胸を張ってミューリは主張する。
ニョッヒラでは踊りの輪に加わればその明るさと天真爛漫さで、ミューリが一番輝いていた。
しかし、そうするとお客はすれきった本職の踊り子におひねりを投げてちょっと微笑んでもらうより、肉やらパンやらを与えたらおいしそうにかぶりつく無邪気なミューリばかり相手にすることになる。それは立派な縄張りの侵害ということで、何度か踊り子と揉めることになった。ミューリはそのことを言っているのだろう。ミューリの頭から手を離すと、握り拳を作って小突く。
「そういうことではありません」
「……?」
ミューリは頭をわざとらしく手で押さえ、不服気だ。
昔は素直に話を聞いてくれたのに、と疲労感に苛まれながら、木窓を開けて外を見た。
「ここはニョッヒラではありません。娘が酔漢の前で踊る、というのはとても危ないことです」
丸焼きの豚はすっかり骨だけになり、酒が進んでいる客たちは腕相撲に興じていた。
この関所に集うのは毛皮や木材などを売買する商人や荷運びの男たち、それに船を操る船頭ばかりなので、傭兵とまではいかないが少々荒っぽい。
「危ない?」
しかし、ミューリは怪訝そうに聞き返してくる。
「素晴らしい踊りに心奪われたら、花を携えて片膝をつく男ばかりではない、ということです」
それでなくてもミューリは無防備に見える。
「ああ、そういうこと。大丈夫だよ」
ミューリはそう言うと、ベッドの上に放り出した食べ物に手を伸ばす。丁寧に巻かれた大きな葉っぱの包みから出てきたのは、脂が滴る実においしそうな豚肉だった。
「ヘレンさんから色々教えてもらったもの。それに、女の価値は振った男の数で決まるんだって、母様も言ってたよ?」
指でつまんで豚肉を食べると、指についた脂を舐めながらそんなことを言う。
ニョッヒラには貴族の若い子弟がお供としてやってくることもあり、彼らが山での狩りに飽きれば、他にすることはほとんどない。戯れか本気か、ミューリに声をかける者は多かった。
男に声をかけられるのは当たり前。だからそんなことでは嫁のもらい手が、と諌めたところで聞く耳を持たないのだ。
「まったく……」
それでなくても、このくらいの年頃の娘には怖いことなんてなにもないのかもしれない。
自分が十も二十も余計に歳を取った感覚に苛まれつつ、言った。
「全員が全員、聞き分けの良い人たちばかりではありません」
二切れ目の肉を食べながら、ミューリはいよいよ説教じみてきたぞ、とばかりにげんなりしている。
「なにかあってからでは遅いのです。いいですか、ミューリ。あなたはまだ若く、世間のことを知りません。慎み深くしなさいというのは、意地悪ではなく、それがあなたを守る方法になるからなのです」
滔々と語る前で、ミューリはベッドの上に肉の包みを置き、パンを裂いて肉を挟んでいた。
中腰になって作業をしているので、こちらに向けた小さな尻の前で、灰色のふさふさの尻尾が揺れている。大丈夫、大丈夫、とあしらうかのように。
「聞いているのですか?」
「聞いてますよー。はい、これ、兄様の分」
ミューリが笑顔で差し出してきたのは、やっぱりミューリの太ももくらいもある大きなパンだった。そこにたっぷりの肉が挟まり、ついでにチーズもぎっしり詰まっていた。
「……こんなに食べられませんよ」
「えー? そんなだから、兄様はひょろひょろなんだよ」
「ひ、ひょろ……」
狩人や傭兵とまではいかなくても、それなりに筋肉があるつもりだったので若干傷ついた。
それに、ミューリが改めて手に取ったパンは、自分に手渡された物よりもさらに大きくて、見るだけで腹がいっぱいになる。
「いただきまーす」
ミューリは口を大きく開けて、ざくり、とパンにかぶりつく。細い体のどこにそんなに入るのか、喜色満面、耳と尻尾をパタパタさせていた。
「まったく……」
今日何度目かわからないため息をつく。食べるのに夢中のミューリを見やり、自分もパンをかじった。この世には楽しいことしかなく、美しい景色しかなく、笑いと幸福に満ちていると確信しているかのような様子に、ある種の羨ましさがないわけでもない。
それに、ミューリがその天真爛漫さを失って、人を疑いの目で見るようになる、ということを望んでいるわけではない。このまままっすぐ、なにものにも傷つけられないままに育ってくれたら言うことはない。