第一幕 ⑨

 そのためには、できれば外の世界は知らず、あのニョッヒラで静かに暮らしてしかった。


「それで、あなたがニョッヒラに帰る話ですが」


 そう切り出すと、がつがつパンを食べていたミューリはふと動きを止め、はて……とばかりに小首をかしげていた。


「とぼけないでください」


 まさかあっさり同行を認められると思うほど、ミューリは鹿ではないはずだ。

 案の定、てきされるとむすっと表情を変えてパンをみちぎっていた。しゆしような態度は、船の上だけのものだったらしい。


いやだよ、帰らないからね」

「だめです」


 ばっさり切り捨てると、ミューリの尻尾しつぽがむくむくとふくらんでいく。


「スヴェルネルまで行って、そこでしんらいのできる人にたのんで送り返そうかと思いましたが、予定が変わりました。明日、早馬でニョッヒラに手紙を出しますから、だれかにむかえに来てもらいましょう」


 この時期はまだニョッヒラにとうりゆう客がたくさんいて、どこもいそがしい。そのことを考えると自分で連れ帰りたかったが、ミューリを連れて雪山の道をえっちらおっちら歩いてもどれば二日から三日はかかる。

 現状直接のやとぬしと言えるハイランドが、すでにアティフにとうちやくしているかもしれないというのだから、一刻も早く向かわなければならない。


「それに、いまごろロレンスさんとホロさんがニョッヒラで心配しているはずです」


 ロレンスなど半きようらんになっていたっておかしくない。もしかしたら、けんろうと呼ばれ、その真の姿は人をまるみにできるほどきよだいオオカミであり、またミューリの母親でもあるホロが、夜やみに乗じてむかえにくるかもしれなかった。

 むしろそうしてもらえれば、ミューリは母親のホロにだけは絶対服従なので助かるのだが。

 と、そう思った直後だった。


「心配なんてしてないよ」


 ミューリはくされたように言った。親からのかんしよううつとうしく思うのは、このとしごろ特有のことなのだろう。真正面からさとしたって反発されるだろうから、さてどう教えたらいいものだろうか。聖典の中の教訓を頭の中で探していたら、ミューリはパンを口にくわえて両手を空けて、ごそごそとむなもとからなにかを引っ張り出した。


「おほうははは、おおははいはほひえはいへほ」

「え? なんですか?」


 聞き返すのと、ミューリがむなもとから引きずり出した物に気がつくのは、ほぼ同時だった。


「え、あ……それは!」


 ミューリはくされていたのではない。あきれていたのだ。

 ミューリが手にしていたのは、ひもつながれた小さなふくろにすぎない。はたにはなんのへんてつもないものだろうが、こちらをだまらせるには十分すぎるしろものだった。


「あはひは……むぐ、んぐ。私が、母様の目をぬすんで家出なんてできるわけないでしょ?」


 そのふくろは、ミューリの母親であるホロの持ち物だった。手のひらに軽く収まる小さなもので、ホロはいつもそれを首からげていた。なぜならば、ふくろまっているのはいくばくかの麦であり、ホロは麦に宿り、そのほうじようつかさどると言われた存在なのだから。


「母様に兄様のことを相談したら、麦を少し分けてこのふくろに入れてわたしてくれたの。兄様のことをよろしくたのむ、って母様に言われたんだよ。これがあれば、いざという時には兄様を守れるからね」


 その言葉に、天地が逆さまになったような気がした。

 自分がミューリを、ではなく、ミューリが自分を?

 混乱していると、ミューリはまっすぐにこちらを見つめてくる。


「大体、さっきの話はなに?」


 底冷えするような目だった。


「さっき、の?」


 仕返しというわけではないが、最大限とぼけて聞き返すと、ミューリの尻尾しつぽの毛が逆立った。


「部屋で知らない人と会ってたでしょ!」

ぬすきしてたのですか……」

もどってきたら話をしてたから外にいただけ!」


 そうは言うが、きっとミューリはけものの耳をそばだてていたはず。


「そんなことより! 兄様はやっぱり遠くの国で聖職者になろうとしてるんじゃない! うそつき!」


 オオカミの血を引くせいか、人よりも少し目立つ犬歯をき出しにしながら、ミューリはのどおくうなり声を上げている。尻尾しつぽの毛も、使い古したブラシのように逆立っていた。

 湯屋の主人であるロレンスとホロには、旅の目的を伝えてあった。しかし、ミューリに説明しても理解できないだろうし、ややこしいことになりそうだったので少し遠方に手伝いに行ってくる、程度の説明しかしていなかった。


「大体、兄様はあのきんぱつだまされてるんだよ!」


 ハイランドは王家の血を引くのにふさわしい、目が覚めるような実に見事なきんぱつだ。

 ミューリはなぜかそれをやたらと敵視している。灰に銀粉を混ぜたような不思議な色合いのかみに愛着を持っているので、敵対視しているのかもしれない。


だましてなんかいません。ハイランド様のやろうとしていることは、とても大事なことです」

「いいや、だましてるね。兄様はおひとしだからすぐ人にまるまれちゃうんだよ!」


 おひとしの部分は、め言葉として受け取っておく。


「では、どうだましていると思うんですか?」


 そう言って、ミューリの作ってくれたパンをかじる。火の玉みたいなミューリには、頭ごなしに言ってもこちらが根負けしてしまう。説得も同様なので、とにかくしやべらせてしやべらせて、つかれてわけがわからなくなったところをせるしかない。

 先週一週間のもうこうも、そうやってしのいできた。

 そして、ミューリもその戦略にうすうすかんいているのかもしれない。こちらをにらみつけながら手にしていたパンをがつがつと食べる様は、体力をたくわえているようにしか見えなかった。


「あぐっ、はぐっ……んぐ。だましてるよ。だっておかしいでしょ。あのきんぱつは王国のえらい人なんでしょ? そんな人が、どうして兄様をたよりにするわけ?」


 自分は生来ひかえめな性格だと自覚しているし、けんきよさをほこりにしているところもある。その観点から言うとミューリのてきあまんじて受け入れるべきなのだが、ゆずれないしよだって当然ある。


「私はこれでもニョッヒラにやってくる学識者や高位の聖職者のお客様がたから、高い評価をいただいています。ミューリが思うよりも、私は……」


 自画自賛はどうしてもくさいのだが、言うしかない。


「私は、それなりの人物なのですよ」

「はっ」


 すると、ミューリは半目でこちらを見て鼻を鳴らす。兄様、兄様、とじや尻尾しつぽってしたってくる妹の目ではない。

 それは酒に飲まれてたいげんそうしている客を見るような、男には大変厳しいおどと同じ目だ。


「あのね、兄様。私だって知ってるんだからね。聖職者は一応えらい人なんだよ。えらい人っていうのはげんがあって、立派な人のことなんだよ。兄様のような人とはちがうんだから」


 一度もやまおくの村から出たことのない、子供の言い方そのままだった。


「はあ……。いいですか、ミューリ。聖典にはこんな記述があります。神からお言葉をたまわる預言者が、生家のある村に帰った時のことです。預言者のしんせきは、預言者に向かってこう言うのです。お前は神から言葉をたまわれると言ってはばからないそうだが、そんな大げさなことを言うのはやめなさい。お前がつうの子であることは昔から知っている、と。そして、預言者はたちにこう言いました。物を手に取って目に近づけて見たまえ。近ければ近いほど、その正しい形は見えなくなる」


 こうしてみると、聖典は実にがんちくがある。そんなことをしみじみと思っていた時だった。


「近くで見るからこそ、わかることだってあるじゃない」

「……たとえば、なんですか?」


 ため息交じりに聞きかえす。

 ミューリの目が、冷たく光った。


「ヘレンさんたちおどさんにからかわれたら、兄様はすぐ顔を赤くしてしどろもどろになるじゃない」

「えっ」


 予想もしなかった方向から、氷のたんけんが飛んできた。

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