そのためには、できれば外の世界は知らず、あのニョッヒラで静かに暮らして欲しかった。
「それで、あなたがニョッヒラに帰る話ですが」
そう切り出すと、がつがつパンを食べていたミューリはふと動きを止め、はて……とばかりに小首を傾げていた。
「とぼけないでください」
まさかあっさり同行を認められると思うほど、ミューリは馬鹿ではないはずだ。
案の定、指摘されるとむすっと表情を変えてパンを嚙みちぎっていた。殊勝な態度は、船の上だけのものだったらしい。
「嫌だよ、帰らないからね」
「だめです」
ばっさり切り捨てると、ミューリの尻尾がむくむくと膨らんでいく。
「スヴェルネルまで行って、そこで信頼のできる人に頼んで送り返そうかと思いましたが、予定が変わりました。明日、早馬でニョッヒラに手紙を出しますから、誰かに迎えに来てもらいましょう」
この時期はまだニョッヒラに逗留客がたくさんいて、どこも忙しい。そのことを考えると自分で連れ帰りたかったが、ミューリを連れて雪山の道をえっちらおっちら歩いて戻れば二日から三日はかかる。
現状直接の雇い主と言えるハイランドが、すでにアティフに到着しているかもしれないというのだから、一刻も早く向かわなければならない。
「それに、今頃ロレンスさんとホロさんがニョッヒラで心配しているはずです」
ロレンスなど半狂乱になっていたっておかしくない。もしかしたら、賢狼と呼ばれ、その真の姿は人を丸吞みにできるほど巨大な狼であり、またミューリの母親でもあるホロが、夜闇に乗じて迎えにくるかもしれなかった。
むしろそうしてもらえれば、ミューリは母親のホロにだけは絶対服従なので助かるのだが。
と、そう思った直後だった。
「心配なんてしてないよ」
ミューリは不貞腐れたように言った。親からの干渉を鬱陶しく思うのは、この年頃特有のことなのだろう。真正面から諭したって反発されるだろうから、さてどう教えたらいいものだろうか。聖典の中の教訓を頭の中で探していたら、ミューリはパンを口に咥えて両手を空けて、ごそごそと胸元からなにかを引っ張り出した。
「おほうははは、おおははいはほひえはいへほ」
「え? なんですか?」
聞き返すのと、ミューリが胸元から引きずり出した物に気がつくのは、ほぼ同時だった。
「え、あ……それは!」
ミューリは不貞腐れていたのではない。呆れていたのだ。
ミューリが手にしていたのは、紐で繫がれた小さな袋にすぎない。傍目にはなんの変哲もないものだろうが、こちらを黙らせるには十分すぎる代物だった。
「あはひは……むぐ、んぐ。私が、母様の目を盗んで家出なんてできるわけないでしょ?」
その袋は、ミューリの母親であるホロの持ち物だった。手のひらに軽く収まる小さなもので、ホロはいつもそれを首から提げていた。なぜならば、袋に詰まっているのは幾ばくかの麦であり、ホロは麦に宿り、その豊穣を司ると言われた存在なのだから。
「母様に兄様のことを相談したら、麦を少し分けてこの袋に入れて渡してくれたの。兄様のことをよろしく頼む、って母様に言われたんだよ。これがあれば、いざという時には兄様を守れるからね」
その言葉に、天地が逆さまになったような気がした。
自分がミューリを、ではなく、ミューリが自分を?
混乱していると、ミューリはまっすぐにこちらを見つめてくる。
「大体、さっきの話はなに?」
底冷えするような目だった。
「さっき、の?」
仕返しというわけではないが、最大限とぼけて聞き返すと、ミューリの尻尾の毛が逆立った。
「部屋で知らない人と会ってたでしょ!」
「盗み聞きしてたのですか……」
「戻ってきたら話をしてたから外にいただけ!」
そうは言うが、きっとミューリは獣の耳をそばだてていたはず。
「そんなことより! 兄様はやっぱり遠くの国で聖職者になろうとしてるんじゃない! 噓つき!」
狼の血を引くせいか、人よりも少し目立つ犬歯を剝き出しにしながら、ミューリは喉の奥で唸り声を上げている。尻尾の毛も、使い古したブラシのように逆立っていた。
湯屋の主人であるロレンスとホロには、旅の目的を伝えてあった。しかし、ミューリに説明しても理解できないだろうし、ややこしいことになりそうだったので少し遠方に手伝いに行ってくる、程度の説明しかしていなかった。
「大体、兄様はあの金髪に騙されてるんだよ!」
ハイランドは王家の血を引くのにふさわしい、目が覚めるような実に見事な金髪だ。
ミューリはなぜかそれをやたらと敵視している。灰に銀粉を混ぜたような不思議な色合いの髪の毛に愛着を持っているので、敵対視しているのかもしれない。
「騙してなんかいません。ハイランド様のやろうとしていることは、とても大事なことです」
「いいや、騙してるね。兄様はお人好しだからすぐ人に丸め込まれちゃうんだよ!」
お人好しの部分は、褒め言葉として受け取っておく。
「では、どう騙していると思うんですか?」
そう言って、ミューリの作ってくれたパンをかじる。火の玉みたいなミューリには、頭ごなしに言ってもこちらが根負けしてしまう。説得も同様なので、とにかく喋らせて喋らせて、疲れてわけがわからなくなったところを捻じ伏せるしかない。
先週一週間の猛攻も、そうやってしのいできた。
そして、ミューリもその戦略に薄々勘付いているのかもしれない。こちらを睨みつけながら手にしていたパンをがつがつと食べる様は、体力を蓄えているようにしか見えなかった。
「あぐっ、はぐっ……んぐ。騙してるよ。だっておかしいでしょ。あの金髪は王国の偉い人なんでしょ? そんな人が、どうして兄様を頼りにするわけ?」
自分は生来控えめな性格だと自覚しているし、謙虚さを誇りにしているところもある。その観点から言うとミューリの指摘は甘んじて受け入れるべきなのだが、譲れない個所だって当然ある。
「私はこれでもニョッヒラにやってくる学識者や高位の聖職者のお客様がたから、高い評価をいただいています。ミューリが思うよりも、私は……」
自画自賛はどうしても照れ臭いのだが、言うしかない。
「私は、それなりの人物なのですよ」
「はっ」
すると、ミューリは半目でこちらを見て鼻を鳴らす。兄様、兄様、と無邪気に尻尾を振って慕ってくる妹の目ではない。
それは酒に飲まれて大言壮語している客を見るような、男には大変厳しい踊り子と同じ目だ。
「あのね、兄様。私だって知ってるんだからね。聖職者は一応偉い人なんだよ。偉い人っていうのは威厳があって、立派な人のことなんだよ。兄様のような人とは違うんだから」
一度も山奥の村から出たことのない、子供の言い方そのままだった。
「はあ……。いいですか、ミューリ。聖典にはこんな記述があります。神からお言葉を賜る預言者が、生家のある村に帰った時のことです。預言者の親戚は、預言者に向かってこう言うのです。お前は神から言葉を賜れると言って憚らないそうだが、そんな大げさなことを言うのはやめなさい。お前が普通の子であることは昔から知っている、と。そして、預言者は弟子たちにこう言いました。物を手に取って目に近づけて見たまえ。近ければ近いほど、その正しい形は見えなくなる」
こうしてみると、聖典は実に含蓄がある。そんなことをしみじみと思っていた時だった。
「近くで見るからこそ、わかることだってあるじゃない」
「……たとえば、なんですか?」
ため息交じりに聞きかえす。
ミューリの目が、冷たく光った。
「ヘレンさんたち踊り子さんにからかわれたら、兄様はすぐ顔を赤くしてしどろもどろになるじゃない」
「えっ」
予想もしなかった方向から、氷の短剣が飛んできた。