「あれ、見てて本当に情けないったらないんだよね。兄様は聖典を詳しく知ってるらしいけど、聖典には女の子との付き合い方って載ってないの?」
胸に短剣をねじ込まれ、ぐりぐりとえぐられる。
息もできないでいるところに、ミューリはパンの残りをかじり、やれやれと咀嚼する。
「お客のおじい様がたは、その点、女の子の扱いは手慣れてるし、でれでれするのもわかっててやってる感じがして、むしろちょっと格好いいもの。あれが偉い人っていうものなんじゃないかな」
神学のことになれば博覧強記の者たちも、ニョッヒラの湯に浸かっている間は半裸の踊り子に鼻の下を伸ばす年寄りでしかない。しかも、面と向かっては指摘できないが、独身を貫かなければならないはずの彼らに、一体どれだけの『甥』や『姪』がいるかわかったものではない。
だから、禁欲を貫いている自分は彼らよりもよりいっそうの高みに到達できるに違いないと、密かに思っていた。しかし、ミューリの評価は全く逆だったようだ。
「母様も父様によく言ってるよ」
ミューリはそれから、んんっと咳払いをして、母親のホロの口真似をした。
「ぬしは世界のすべてを理解したような気になっておるようじゃが、女のことがわからんのでは、世の半分しか見えておらぬ。なぜなら、この世には男と女しかいないのだから! ってね」
あまりに胸が痛くて眩暈までしてきたところに、ミューリからとどめの一撃が振り下ろされる。
「そもそも、兄様って私以外の女の子と手を繫いだことすらないんじゃないの?」
それくらい……と反論しようとして、真っ先に思い浮かんだのがミューリの母親のホロだった。そして、ホロはミューリだけでなく、自分にとっても母親のようなもの。ホロと手を繫いだことがあると反論すれば、ミューリは笑い転げるどころか、不安そうな顔になってこちらのことを心配してくるかもしれない。
しかし、言われっぱなしではならなかった。自分がやろうとしていることは小娘には理解できないのだ、と自らを奮い立たせた。
「た、たとえそうであっても、私はハイランド様の、ひいてはウィンフィール王国の立場が正しいと思うので、その役に立つためにこの旅を決意したのです。それに異性に疎いことはむしろ望むところです。禁欲の誓いは信仰心を高めてくれるのですから!」
この矜持はどうせ理解されまい、と開き直っていた。実際、禁欲の誓いは物笑いの種になるし、守っている聖職者だってほとんどいない。
しかしそれでもいい。自分の信仰に殉ずることができなくて、どうして前に進むことができるだろう?
「ですから」
と、ミューリに言おうとした矢先のことだった。ミューリは手早くパンの残りを口に詰め込むと、指を舐めながら口を挟む。
「だから、私が兄様の側にいないとだめだと思うの」
「え……は?」
「母様も心配してたよ。兄様はものすごくしっかりしているようで、とかく女の子には弱いから、変なのに引っかからないかって。用事を終えてニョッヒラに帰ってきた時に、得意満面、変な女を連れて帰ってきたら目も当てられないって」
「……」
「母様は父様が誰かにたぶらかされないか心配だからニョッヒラから動けない。だから私が、お目付け役として一緒にいてあげるってこと」
ミューリはにこーっと笑って、そう言った。
その笑みがひどく怖く、なんだろうと思ったら、母親のホロにそっくりだった。商人としては一流で、十年前には北の地を一変させるような大騒動で活躍をしたロレンスを、子供扱いして楽しむ賢狼ホロはよくこんな笑顔を見せていた。
ミューリの尻尾がぱったぱったと揺れていて、逃げ惑う獲物を前にした狼のようだ。
ごくりと固唾を吞んでいると、ミューリはすすっとこちらに近寄ってくる。
「それにね、私も兄様のことが心配なんだから。本当だよ?」
頭ひとつ分以上の身長差があるので、ミューリは並んで立つとこちらの胸ほどしかない。
そこから、上目づかいに見つめてくる。
頭の中で組み立てようとした言葉がばらばらと崩れるほどの魔力だったが、なんとか現実に留まることができた。ミューリの口元には、間抜けにもパンとチーズの欠片がくっついていたからだ。
「……まず口を拭いなさい」
「え? あっ」
ミューリは慌ててごしごしと袖で拭う。それからちらりとこちらを見た時には、悪戯がばれたことを誤魔化すような、そんな作り笑顔だった。
「変な方向にばかり成長して……」
がっくりとうなだれると、ミューリは背伸びをしてこちらの頭を撫でてくる。
「よしよし。兄様のことよろしくねって母様に言われたからね。私に任せてよ」
「……」
年の頃は半分。その産声を聞いて、おしめも散々替えてきた。冬場に霜焼けになると言って同じ毛布の中に潜り込んできたかと思えば、夜中に寝小便を垂れて泣きじゃくるのをなだめながら後始末をしてやったことも数知れない。
そんなミューリが、いつの間にかこんなことになっていた。
もっとも、母親たるホロが女の武器の超一流の使い手なので、血は争えないというやつか。
ロレンスと共に、じっくり語り合いたかった。
「じゃあ、私も旅に同行するってことでいいよね?」
なにがじゃあなのかわからなかったが、ホロを味方につけている時点でかないっこない。
それに、ミューリもきちんと弁えるところは弁えている。
「もちろん兄様の邪魔はしないよ。神様のお話については、私はさっぱりだもの」
それはそれで問題なのだが、古代の精霊の血を引くミューリなら、本当にいるのかどうか定かではない神を軽視する権利はあるかもしれない。
「ただ、迂闊な兄様が見落としている真実をびしっと指摘してあげるから」
その自信は一体なんなのだと確かめたい気もするが、それが森の覇者である狼の血を引く者なのだろう。
「あ、それで、兄様さ」
「……なんですか?」
ひどく疲れたように聞き返したら、ミューリはもじもじしながら、そっと一点を指差した。
「もう、そのパン、食べないの?」
指差された食べかけのパンを見て、ため息をつく。
「どうぞ」
ミューリに差し出すと、ミューリは大きなパンを食べたばかりなのに、嬉しそうにかぶりつく。そんな様を見ていると、諦めたような笑いがこみ上げてくる。
そして、笑ったほうが負けなのだ。
「ほうひはほ?」
どうしたの? とパンを口いっぱいに頰張りながら聞いてくるミューリの頭を撫でて、椅子を指差した。
「座って食べなさい」
ミューリはおとなしく従って、ちょこんと腰を下ろす。
こういうところだけ素直なのがまたずるい。なにもかも、わかっている。
「神よ、我に力を与えたまえ……」
自分の永遠の伴侶の名を唱えながら、ため息をついたのだった。