第一幕 ⑩

「あれ、見てて本当に情けないったらないんだよね。兄様は聖典をくわしく知ってるらしいけど、聖典には女の子との付き合い方ってってないの?」


 胸にたんけんをねじまれ、ぐりぐりとえぐられる。

 息もできないでいるところに、ミューリはパンの残りをかじり、やれやれとしやくする。


「お客のおじい様がたは、その点、女の子のあつかいは手慣れてるし、でれでれするのもわかっててやってる感じがして、むしろちょっと格好いいもの。あれがえらい人っていうものなんじゃないかな」


 神学のことになれば博覧強記の者たちも、ニョッヒラの湯にかっている間ははんおどに鼻の下をばす年寄りでしかない。しかも、面と向かってはてきできないが、独身をつらぬかなければならないはずのかれらに、一体どれだけの『おい』や『めい』がいるかわかったものではない。

 だから、禁欲をつらぬいている自分はかれらよりもよりいっそうの高みにとうたつできるにちがいないと、ひそかに思っていた。しかし、ミューリの評価は全く逆だったようだ。


「母様も父様によく言ってるよ」


 ミューリはそれから、んんっとせきばらいをして、母親のホロのくちをした。


「ぬしは世界のすべてを理解したような気になっておるようじゃが、女のことがわからんのでは、世の半分しか見えておらぬ。なぜなら、この世には男と女しかいないのだから! ってね」


 あまりに胸が痛くて眩暈めまいまでしてきたところに、ミューリからとどめのいちげきり下ろされる。


「そもそも、兄様って私以外の女の子と手をつないだことすらないんじゃないの?」


 それくらい……と反論しようとして、真っ先におもかんだのがミューリの母親のホロだった。そして、ホロはミューリだけでなく、自分にとっても母親のようなもの。ホロと手をつないだことがあると反論すれば、ミューリは笑い転げるどころか、不安そうな顔になってこちらのことを心配してくるかもしれない。

 しかし、言われっぱなしではならなかった。自分がやろうとしていることはむすめには理解できないのだ、と自らを奮い立たせた。


「た、たとえそうであっても、私はハイランド様の、ひいてはウィンフィール王国の立場が正しいと思うので、その役に立つためにこの旅を決意したのです。それに異性にうといことはむしろ望むところです。禁欲のちかいはしんこう心を高めてくれるのですから!」


 このきようはどうせ理解されまい、と開き直っていた。実際、禁欲のちかいは物笑いの種になるし、守っている聖職者だってほとんどいない。

 しかしそれでもいい。自分のしんこうじゆんずることができなくて、どうして前に進むことができるだろう?


「ですから」


 と、ミューリに言おうとした矢先のことだった。ミューリは手早くパンの残りを口にむと、指をめながら口をはさむ。


「だから、私が兄様の側にいないとだめだと思うの」

「え……は?」

「母様も心配してたよ。兄様はものすごくしっかりしているようで、とかく女の子には弱いから、変なのに引っかからないかって。用事を終えてニョッヒラに帰ってきた時に、得意満面、変な女を連れて帰ってきたら目も当てられないって」

「……」

「母様は父様がだれかにたぶらかされないか心配だからニョッヒラから動けない。だから私が、お目付け役としていつしよにいてあげるってこと」


 ミューリはにこーっと笑って、そう言った。

 そのみがひどくこわく、なんだろうと思ったら、母親のホロにそっくりだった。商人としては一流で、十年前には北の地を一変させるようなだいそうどうかつやくをしたロレンスを、どもあつかいして楽しむけんろうホロはよくこんながおを見せていた。

 ミューリの尻尾しつぽがぱったぱったとれていて、まどものを前にしたオオカミのようだ。

 ごくりとかたんでいると、ミューリはすすっとこちらに近寄ってくる。


「それにね、私も兄様のことが心配なんだから。本当だよ?」


 頭ひとつ分以上の身長差があるので、ミューリは並んで立つとこちらの胸ほどしかない。

 そこから、上目づかいに見つめてくる。

 頭の中で組み立てようとした言葉がばらばらとくずれるほどのりよくだったが、なんとか現実に留まることができた。ミューリの口元には、けにもパンとチーズの欠片かけらがくっついていたからだ。


「……まず口をぬぐいなさい」

「え? あっ」


 ミューリはあわててごしごしとそでぬぐう。それからちらりとこちらを見た時には、悪戯いたずらがばれたことをすような、そんな作りがおだった。


「変な方向にばかり成長して……」


 がっくりとうなだれると、ミューリはびをしてこちらの頭をでてくる。


「よしよし。兄様のことよろしくねって母様に言われたからね。私に任せてよ」

「……」


 年のころは半分。そのうぶごえを聞いて、おしめも散々替えてきた。冬場にしもけになると言って同じ毛布の中にもぐんできたかと思えば、夜中にしよう便べんを垂れて泣きじゃくるのをなだめながら後始末をしてやったことも数知れない。

 そんなミューリが、いつの間にかこんなことになっていた。

 もっとも、母親たるホロが女の武器のちよう一流の使い手なので、血は争えないというやつか。

 ロレンスと共に、じっくり語り合いたかった。


「じゃあ、私も旅に同行するってことでいいよね?」


 なにがじゃあなのかわからなかったが、ホロを味方につけている時点でかないっこない。

 それに、ミューリもきちんとわきまえるところはわきまえている。


「もちろん兄様のじやはしないよ。神様のお話については、私はさっぱりだもの」


 それはそれで問題なのだが、古代のせいれいの血を引くミューリなら、本当にいるのかどうかさだかではない神を軽視する権利はあるかもしれない。


「ただ、かつな兄様が見落としている真実をびしっとてきしてあげるから」


 その自信は一体なんなのだと確かめたい気もするが、それが森のしやであるオオカミの血を引く者なのだろう。


「あ、それで、兄様さ」

「……なんですか?」


 ひどくつかれたように聞き返したら、ミューリはもじもじしながら、そっと一点を指差した。


「もう、そのパン、食べないの?」


 指差された食べかけのパンを見て、ため息をつく。


「どうぞ」


 ミューリに差し出すと、ミューリは大きなパンを食べたばかりなのに、うれしそうにかぶりつく。そんな様を見ていると、あきらめたような笑いがこみ上げてくる。

 そして、笑ったほうが負けなのだ。


「ほうひはほ?」


 どうしたの? とパンを口いっぱいにほおりながら聞いてくるミューリの頭をでて、を指差した。


すわって食べなさい」


 ミューリはおとなしく従って、ちょこんとこしを下ろす。

 こういうところだけなおなのがまたずるい。なにもかも、わかっている。


「神よ、我に力をあたえたまえ……」


 自分の永遠のはんりよの名を唱えながら、ため息をついたのだった。

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