第二幕 ②

 それからロレンスたちへの返事をしたためつつ、昨晩の残り物で朝食を済ます。書いた手紙は宿の主人にたくし、準備を終えて河原に向かう。をしていたので、まだ湿しめっていたミューリのかみをそこでかわかさせた。すれちがう船頭やらには、に落ちたのかと笑われていた。

 アティフまで下る船に乗せてもらえるようこうしようすると、ちゆうの町に納品するたきぎやらにわとりやらをんでいた船が応じてくれた。わずかなすきに旅人を乗せるような、船頭のづかかせぎなので快適な乗りごことはほどとおい。

 それでも太陽がのぼってくれば体は温まるし、となりではせっせと羽の手入れをする小鳥のようにかみくしけずっていたミューリが、きたのかうたたをしていたのでのんなものだった。

 湯屋ではいまごろこんなことをして、ああしているころだろうな、とその場にいるかのように想像できる。十年以上もかえしていた日常からはなれるというのは、こういうことらしい。しかも、ミューリにはなだめる意味もあって湯屋にもどると口約束をしていたが、もどらない可能性のほうがとても高い。ロレンスもホロも、それを理解して送り出してくれた。良い人たちにめぐったと、感謝の言葉しかない。

 そうこうしているうちにも、船は川を下って行く。流れはゆるやかに、かわはばは広くなっていく。不本意ながら二人連れになった旅は大過なく二日目が終わり、三日目も同様だ。

 ちなみにミューリは三日目の朝もかみを洗おうとしていたが、じやつかん学習して、宿のすい場で湯をかせばいいと思いついたらしい。しかし、そのためにはたきぎと炭の代金が必要だと知ってがくぜんとしていた。湯のために金をはらう、という発想がそもそもないのだろう。

 結局また氷のいているの水で洗っていたが、洗い方をふうしたのか多少ふるえているくらいで済んでいた。次にどうなるか少し楽しみであった。

 やがて河原からは石が少なくなり、草地が多くなってきた。遠くにはかすかに山が見えているが、そこまではなだらかな平原が続いている。ドラン平原に入ったようだ。見ているとねむくなる景色だが、山育ちのミューリにはめずらしくて仕方がないらしい。熱心に景色を見つめては、川沿いのかいどうを行く旅人に手をっていた。

 そして、そのなだらかな景色の向こうについに、小高いおかの上に作られたアティフの町と、有名なアティフの関所が見えてきた。


「……っ……っ……っ!」


 船の上で急に立ち上がろうとするミューリを引き留めるのも一苦労なら、耳と尻尾しつぽが出てこないかひやひやものだ。興奮で声なきさけごえを上げるミューリの、痛いくらいにつかんでくる手をやんわりとほどくのも大変だった。


「兄様! 町! 大きい! 川! 本当に! くさり!」


 興奮しすぎて言葉を忘れてしまったかのようだ。

 ただ、船頭が言ったとおりのものが、想像していた以上のはくりよくでぶら下がっていたのにはやはりおどろいた。金庫をしばりつける程度のくさりではなく、その輪っかのひとつひとつが、ミューリならうでを通せそうなほどに大きい。それがずらりとつながり、頭上に垂れ下がっている。


「せ、船頭さん! これ本当に落ちてこないの?」


 いくらか落ち着きをもどしたミューリの問いに、鼻の下にひげをたくわえたがたの船頭はにこりともせずに言う。


「年に一度は落ちて、船がまれてしずむ。今年はまだ落ちてきてないから、そろそろ危ないな。あんたら泳げるのか?」


 ミューリは顔をひきつらせてこちらにしがみつき、くさりを見上げていた。


「すぐに信じるので、からかわないでやってください」

「えっ」


 ミューリがおどろき、船頭は笑っていた。


くさりの輪っかのところに、わたどりがつくった巣のあとがたくさん残っているでしょう」


 指差すと、ちょうどくさりが真上に来ていたので、ミューリは口をぽかんと開けて見上げていた。


「毎年しずんで川の水で洗われているなら、ああはなりません」

くさりは落ちてこないが、ふんはしょっちゅう落ちてくる。上向いて口を開けていると危険だよ」


 船頭の忠告に、ミューリはあわてて口をつぐんでいた。

 それから自分たちの乗る船は他のたくさんの船に連なって、さんばしを目指した。船が多すぎて順番待ちになっている。どの船もここで積み荷を下ろし、代わりにニシンのものしおけを山ほど積んでもどるらしい。ようやくさんばしに着くと、ミューリはそこに積み上げられている魚を見て、今度はげんなりしていた。


「魚といつしよじゃなくて良かったあ。もうしおけの魚なんて見たくもない」


 ニシンはいくらでもとれるために、格安の食料だ。冬の間は海沿いからやまおくまで、すべての家のしよくたくに並び続けて人々の悲鳴をさそう。毎年冬の時期にお世話になる魚は、ここからりくげされてきたものかもしれない。


「まあ、においがすでにすごいけど……」


 オオカミの血が半分流れていて、鼻が良いからつらいのかもしれない。つうの人の自分でさえ、港のあちこちに積み上げられているたるからただよう魚のにおいがはっきりとわかる。

 とはいえ、おいしそうだな、程度にしか思わないのだが。


「今晩は魚の塩焼きにしましょうか。しおけとは全くちがうおいしさですよ」

「え~……肉がいいなあ……」


 旅の食事に関しては不満たらたらのミューリだったが、さんばしから人ごみをかき分けて港に降り立つと、急に静かになった。


「どうしました?」


 見やると、空を見上げて口をぽかんと開けている。視線の先には、海鳥がびっしりと止まっている石造りのようさいがあった。この町は、ミューリが生まれて初めて目にする、ニョッヒラの外の町だ。


「ミューリ、ここで立ち止まっているとじやになります」


 手を引いたらようやく動き出したが、たちまち別のなにかに目をうばわれていた。


「兄様、見て、あの人、すごい犬の群れを連れてる!」


 指差した方向には、木だるを運ぶ荷役の後ろをぞろぞろとついていく、犬の群れがいた。


「あれって、犬飼いの人?」

「犬飼い?」

「世の中には、飼いとか羊飼いってのがいるんでしょ?」


 確かにそのくつだと、どこかに犬飼いもいるのかもしれない。


「犬飼いについては知りませんが、あの木だるの中身は、しおけニシンかなにかでしょう。犬たちはこぼれる塩をねらっているんですよ」

「へえ~」


 感心するミューリの頭上では海鳥がやかましくせんかいし、積み上げられた木箱の上ではねこが丸まっている。港のさわぎはなにもかもがめずらしいらしく、ミューリは一歩進むごとにあれはなに、これはなに、といそがしかった。そして、説明を受けるたびに目をキラキラさせて、こちらの話を熱心に聞いていた。その様に、最近はつとに生意気になってしまっていたが、昔のなお可愛かわいらしいミューリを思い出してほっとした。

 しかし、いちいち相手にしていては全く進まないし、町に入るための準備もある。まずはりようがえ商を見つけて、町で買い物するためのぜにを確保しなければならない。いい加減にそのうでを引っ張って先に進もうと思った時のことだ。ミューリをつかまえるために前を見ていなかったせいで、だれかにぶつかってしまった。


「あ、失礼」


 あわててあやまると、相手はきんを巻いた若いむすめだった。背がかくてき高く、せい良くまくったそでからはすらりと長いうでが伸びている。まえけをしているので、どこかの船宿のむすめだろう。海の塩気のせいで色がけたかみとおそろいのくりいろの目が、とてもれいだった。

 そのむすめが、こちらと目が合ってにっこりほほんだ。と思いきや、ぱっとうできついてきた。


「とんでもない。お兄さんみたいな格好いい人ならだいかんげいだよ」

「え?」

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影