それからロレンスたちへの返事をしたためつつ、昨晩の残り物で朝食を済ます。書いた手紙は宿の主人に託し、準備を終えて河原に向かう。焚き火をしていたので、まだ湿っていたミューリの髪をそこで乾かさせた。すれ違う船頭やらには、井戸に落ちたのかと笑われていた。
アティフまで下る船に乗せてもらえるよう交渉すると、途中の町に納品する薪やら鶏やらを積み込んでいた船が応じてくれた。わずかな隙間に旅人を乗せるような、船頭の小遣い稼ぎなので快適な乗り心地とは程遠い。
それでも太陽が昇ってくれば体は温まるし、隣ではせっせと羽の手入れをする小鳥のように髪の毛を梳っていたミューリが、飽きたのか転寝をしていたので吞気なものだった。
湯屋では今頃こんなことをして、ああしている頃だろうな、とその場にいるかのように想像できる。十年以上も繰り返していた日常から離れるというのは、こういうことらしい。しかも、ミューリにはなだめる意味もあって湯屋に戻ると口約束をしていたが、戻らない可能性のほうがとても高い。ロレンスもホロも、それを理解して送り出してくれた。良い人たちに巡り合ったと、感謝の言葉しかない。
そうこうしているうちにも、船は川を下って行く。流れは緩やかに、川幅は広くなっていく。不本意ながら二人連れになった旅は大過なく二日目が終わり、三日目も同様だ。
ちなみにミューリは三日目の朝も髪の毛を洗おうとしていたが、若干学習して、宿の炊事場で湯を沸かせばいいと思いついたらしい。しかし、そのためには薪と炭の代金が必要だと知って愕然としていた。湯のために金を払う、という発想がそもそもないのだろう。
結局また氷の浮いている井戸の水で洗っていたが、洗い方を工夫したのか多少震えているくらいで済んでいた。次にどうなるか少し楽しみであった。
やがて河原からは石が少なくなり、草地が多くなってきた。遠くには微かに山が見えているが、そこまではなだらかな平原が続いている。ドラン平原に入ったようだ。見ていると眠くなる景色だが、山育ちのミューリには珍しくて仕方がないらしい。熱心に景色を見つめては、川沿いの街道を行く旅人に手を振っていた。
そして、そのなだらかな景色の向こうについに、小高い丘の上に作られたアティフの町と、有名なアティフの関所が見えてきた。
「……っ……っ……っ!」
船の上で急に立ち上がろうとするミューリを引き留めるのも一苦労なら、耳と尻尾が出てこないかひやひやものだ。興奮で声なき叫び声を上げるミューリの、痛いくらいに摑んでくる手をやんわりとほどくのも大変だった。
「兄様! 町! 大きい! 川! 本当に! 鎖!」
興奮しすぎて言葉を忘れてしまったかのようだ。
ただ、船頭が言ったとおりのものが、想像していた以上の迫力でぶら下がっていたのにはやはり驚いた。金庫を縛りつける程度の鎖ではなく、その輪っかのひとつひとつが、ミューリなら腕を通せそうなほどに大きい。それがずらりと繫がり、頭上に垂れ下がっている。
「せ、船頭さん! これ本当に落ちてこないの?」
いくらか落ち着きを取り戻したミューリの問いに、鼻の下にひげを蓄えた撫で肩の船頭はにこりともせずに言う。
「年に一度は落ちて、船が巻き込まれて沈む。今年はまだ落ちてきてないから、そろそろ危ないな。あんたら泳げるのか?」
ミューリは顔をひきつらせてこちらにしがみつき、鎖を見上げていた。
「すぐに信じるので、からかわないでやってください」
「えっ」
ミューリが驚き、船頭は笑っていた。
「鎖の輪っかのところに、渡り鳥がつくった巣の跡がたくさん残っているでしょう」
指差すと、ちょうど鎖が真上に来ていたので、ミューリは口をぽかんと開けて見上げていた。
「毎年沈んで川の水で洗われているなら、ああはなりません」
「鎖は落ちてこないが、糞はしょっちゅう落ちてくる。上向いて口を開けていると危険だよ」
船頭の忠告に、ミューリは慌てて口をつぐんでいた。
それから自分たちの乗る船は他のたくさんの船に連なって、桟橋を目指した。船が多すぎて順番待ちになっている。どの船もここで積み荷を下ろし、代わりにニシンの干物と塩漬けを山ほど積んで戻るらしい。ようやく桟橋に着くと、ミューリはそこに積み上げられている魚を見て、今度はげんなりしていた。
「魚と一緒じゃなくて良かったあ。もう塩漬けの魚なんて見たくもない」
ニシンはいくらでもとれるために、格安の食料だ。冬の間は海沿いから山奥まで、すべての家の食卓に並び続けて人々の悲鳴を誘う。毎年冬の時期にお世話になる魚は、ここから陸揚げされてきたものかもしれない。
「まあ、臭いがすでに凄いけど……」
狼の血が半分流れていて、鼻が良いから辛いのかもしれない。普通の人の自分でさえ、港のあちこちに積み上げられている樽から漂う魚の臭いがはっきりとわかる。
とはいえ、おいしそうだな、程度にしか思わないのだが。
「今晩は魚の塩焼きにしましょうか。塩漬けとは全く違うおいしさですよ」
「え~……肉がいいなあ……」
旅の食事に関しては不満たらたらのミューリだったが、桟橋から人ごみをかき分けて港に降り立つと、急に静かになった。
「どうしました?」
見やると、空を見上げて口をぽかんと開けている。視線の先には、海鳥がびっしりと止まっている石造りの要塞があった。この町は、ミューリが生まれて初めて目にする、ニョッヒラの外の町だ。
「ミューリ、ここで立ち止まっていると邪魔になります」
手を引いたらようやく動き出したが、たちまち別のなにかに目を奪われていた。
「兄様、見て、あの人、すごい犬の群れを連れてる!」
指差した方向には、木樽を運ぶ荷役の後ろをぞろぞろとついていく、犬の群れがいた。
「あれって、犬飼いの人?」
「犬飼い?」
「世の中には、山羊飼いとか羊飼いってのがいるんでしょ?」
確かにその理屈だと、どこかに犬飼いもいるのかもしれない。
「犬飼いについては知りませんが、あの木樽の中身は、塩漬けニシンかなにかでしょう。犬たちはこぼれる塩を狙っているんですよ」
「へえ~」
感心するミューリの頭上では海鳥がやかましく旋回し、積み上げられた木箱の上では猫が丸まっている。港の騒ぎはなにもかもが珍しいらしく、ミューリは一歩進むごとにあれはなに、これはなに、と忙しかった。そして、説明を受けるたびに目をキラキラさせて、こちらの話を熱心に聞いていた。その様に、最近はつとに生意気になってしまっていたが、昔の素直で可愛らしいミューリを思い出してほっとした。
しかし、いちいち相手にしていては全く進まないし、町に入るための準備もある。まずは両替商を見つけて、町で買い物するための小銭を確保しなければならない。いい加減にその腕を引っ張って先に進もうと思った時のことだ。ミューリを捕まえるために前を見ていなかったせいで、誰かにぶつかってしまった。
「あ、失礼」
慌てて謝ると、相手は頭巾を巻いた若い娘だった。背が比較的高く、威勢良くまくった袖からはすらりと長い腕が伸びている。前掛けをしているので、どこかの船宿の娘だろう。海の塩気のせいで色が抜けた髪の毛とお揃いの栗色の目が、とても綺麗だった。
その娘が、こちらと目が合ってにっこり微笑んだ。と思いきや、ぱっと腕に抱きついてきた。
「とんでもない。お兄さんみたいな格好いい人なら大歓迎だよ」
「え?」