「旅の人でしょ? アティフの町は初めて? 今晩の宿は決まってる? こんなところでうろうろしてたら、たちの悪い宿の客引きに連れてかれちゃうよ」
「え、え? あの──」
一気にまくしたてられたのもあったが、腕に思いきり娘の胸が当たっていた。肉と魚と港の活気で見事に育った、張りのある胸だ。
「うちの宿なら清潔安心。荷揚げしたばかりの葡萄酒に、蚤も虱もいない立派な亜麻布を張ったベッドもあって、女の子もより取り見取り。なあに、お客さんみたいな司祭様でも大丈夫。女の子は皆敬虔な神の子羊だから、神様もお目こぼししてくださるって。なんなら、一晩だけ結婚して、翌日には離婚してくれればいいからさ」
「そ、それは、あの」
金を取って娘をあてがう類の宿だ、とすぐにわかった。気性が荒くて有名な船乗りたちと、貿易で大金を稼ぐ金持ちが集う港町なら、そういう宿もいくらでもあるのだろう。娘は殊更腕に胸を押し当ててきて、耳元で囁くように顔を近づけてくる。なんの香をたき込めているのか、焼き立てのパンのような甘い匂いがふわりと香ってきた。とてもではないが、客引きの娘の顔をまともに見られなかった。
「ふふ、真っ赤になっちゃって可愛いんだあ。ねえ、お兄さん、どこから来たの? 船で南から渡ってきたのかな。宿で旅の話を聞かせてよ」
娘はそんなことを言って、腕を引っ張って歩き出そうとする。いえ、私は司祭ではありませんし、宿も別のところに逗留する予定です、と言葉がむなしく頭の中だけでこだまする。
それでもなんとか踏みとどまろうとしていたら、今度は逆から手を引かれた。
「ほらお兄さん、うちの宿はこっち……って、あら?」
捕まえた羊が歩き出さないので、娘は怪訝そうに振り向いた。
「なあんだ、こぶつき?」
見れば、娘とは反対側の腕を抱くミューリが、凄い目つきで娘を睨んでいた。
「けど、あんた見ない顔だね。どこの縄張りの娘だい?」
娘の顔が客向けのものから、剣吞なものに変わる。縄張り、というからには同業だと思われているのだろう。ミューリの服装は、誠実なパン屋の娘にはとても見えない。
「い、いえ、こちらは私の主の娘で、わけがあって共に旅を」
ややこしいことになる前にそう言うと、娘はこちらとミューリをたっぷり三回見比べてから、ようやく腕をほどいてくれた。
「お兄さん、硫黄の匂いがたっぷりするってことは、ニョッヒラでお楽しみの帰りか。そういうことね」
訳知り顔にうなずいていて、間違いなく勘違いしているだろうが、訂正するのも面倒だ。
「じゃあさ、宿はいいから、ちょっと両替してくれない?」
「両替?」
「川を下ってきたなら、細かい銅貨とか持ってない?」
客引きの娘がそんなことを言い出して少々面食らった。
「お釣りが用意できなくて困ってんのよねえ。もちろん手数料分のお礼はするよ。頰っぺたに口づけでも、膝枕でも……」
と、またすり寄ってきて、ミューリが比喩ではなく唸った。
「冗談だよ。でも、ちょっとでいいから替えてくれないかな。困ってるのは本当」
大方、こうやって右も左もわからない旅人相手に話を持ちかけ、不利な交換比率を押しつけて小銭を巻き上げているのだろう。
「すみません。私たちも両替商にこれから行くつもりだったのです」
そう告げると、娘は拘泥するでもなかった。
「そっかあ。なら、市壁の外で両替はしないほうがいいよ。ござも敷いてないようなのはもぐりだからね。ものすごい手数料ふんだくられるから気をつけな。お兄さん、いかにも真面目そうで……まあでも、小さいお目付け役がいるか」
娘はからりと笑い、ミューリに小さく手を振ると、さっさと踵を返していた。もうまったくこちらに興味を持っていない様子できょろきょろすると、通りがかった別の若い男に自分からぶつかりに行った。近くの農村から出てきたのか、真面目で優しそうな青年だった。
そこからのやり取りはさっきと同じで、相手が素直に謝るやいなや、腕に胸を押し当てて耳元に顔を近づけている。傍から見ると、真面目そうな青年がかちんこちんに固まっているのがよくわかった。
あまり褒められたやり口ではなかろうが、そのたくましい商魂と才覚には感服する。
「まったくもう」
そこに、冷たく鋭い声が響く。
「兄様は、やっぱり私がいないとだめじゃない」
見れば、呆れたミューリの顔がそこにあった。視線を再度青年に向けると、しどろもどろな言い訳など聞く耳を持たない娘にがっちり腕を摑まれ、そのまま連れて行かれていた。弱き者は、狩られる運命にある。
「それに、でれでれしちゃって」
「で、でれでれなどしていません」
慌てて言い返したが、ミューリは軽蔑するような目つきのまま、ふんと鼻を鳴らした。
「あんなの、ちょっとでかいだけじゃない」
「え?」
聞き返すと、ミューリは腕から体を離し、代わりに手を摑んできた。小さな手であり、ミューリは背丈も肩幅も腰回りも、色々なところが小さい。体を離したのは、腕に当たる部分を比べられるのは屈辱的だ、ということだろう。もちろん、指摘はしなかったし、気づかない振りもした。
代わりに、こう言っておいた。
「ただ、助かりました。お礼を言っておきます」
ミューリはこちらを不機嫌そうにじっと見上げた後、看板をひっくり返すように笑顔になっていた。
ぼんやり立っていたら、またぞろ獲物を狙う者たちから牙を向けられかねない。さっさと歩き出すと、ミューリは港の様子を眺めてひととおり満足したのか、こんなことを言った。
「それで兄様。兄様って、結局この町でなにするの? 街角でお説教したり?」
「そんなことはしません。基本的にはハイランド様のお手伝いです」
「なんだっけ。『我々の神の……』」
やはり盗み聞きしていたらしいが、今更隠す理由もない。
「『我々の神の書』」
「それってなんなの?」
「聖典の俗語翻訳版を作るという計画です」
「ああ、なるほど」
ミューリはそう言いつつ、まったくわかっていない顔をしていた。
呆れた目を向けると、にひひと笑い返される。
「聖典は教会文字で書かれています。古の時代、預言者からの言葉をしたためたはいいものの、教会が世界にあまねく広まったために、原典を読むことのできない聖職者が大勢出てしまいました。そこで、神が人々に授けてくれたのが教会文字と言われています」
「ふーん。古ってどれくらい? 母様の子供の頃よりも?」
思わず周りを見渡してしまったが、まさか真面目に聞く者もいないか、と脱力した。
「それはどうでしょう。もしかしたら、それくらいかもしれません」
「へ~」
妙なところで感心していたが、本題は違うので咳払いをして話を戻す。
「とにかく、聖典はその教会文字で書かれていますが、普段使われている文字ではありません。俗語と呼ばれる普段使われている文字すら、読み書きできる人は限られます」
ミューリが嫌そうな顔をしているのは、時には荒縄で椅子に縛りつけられ、無理やり読み書きを教えられたことを思い出したからだろう。