第二幕 ③

「旅の人でしょ? アティフの町は初めて? 今晩の宿は決まってる? こんなところでうろうろしてたら、たちの悪い宿の客引きに連れてかれちゃうよ」

「え、え? あの──」


 一気にまくしたてられたのもあったが、うでに思いきりむすめの胸が当たっていた。肉と魚と港の活気で見事に育った、張りのある胸だ。


「うちの宿なら清潔安心。げしたばかりのどうしゆに、のみしらみもいない立派なぬのを張ったベッドもあって、女の子もより取り見取り。なあに、お客さんみたいな司祭様でもだいじよう。女の子はみなけいけんな神の子羊だから、神様もお目こぼししてくださるって。なんなら、一晩だけけつこんして、翌日にはこんしてくれればいいからさ」

「そ、それは、あの」


 金を取ってむすめをあてがうたぐいの宿だ、とすぐにわかった。しようあらくて有名な船乗りたちと、貿易で大金をかせぐ金持ちがつどう港町なら、そういう宿もいくらでもあるのだろう。むすめことさらうでに胸をし当ててきて、耳元でささやくように顔を近づけてくる。なんのこうをたきめているのか、焼き立てのパンのようなあまにおいがふわりとかおってきた。とてもではないが、客引きのむすめの顔をまともに見られなかった。


「ふふ、真っ赤になっちゃって可愛かわいいんだあ。ねえ、お兄さん、どこから来たの? 船で南からわたってきたのかな。宿で旅の話を聞かせてよ」


 むすめはそんなことを言って、うでを引っ張って歩き出そうとする。いえ、私は司祭ではありませんし、宿も別のところにとうりゆうする予定です、と言葉がむなしく頭の中だけでこだまする。

 それでもなんとかみとどまろうとしていたら、今度は逆から手を引かれた。


「ほらお兄さん、うちの宿はこっち……って、あら?」


 つかまえた羊が歩き出さないので、むすめげんそうにいた。


「なあんだ、こぶつき?」


 見れば、むすめとは反対側のうでくミューリが、すごい目つきでむすめにらんでいた。


「けど、あんた見ない顔だね。どこのなわりのむすめだい?」


 むすめの顔が客向けのものから、けんのんなものに変わる。なわり、というからには同業だと思われているのだろう。ミューリの服装は、誠実なパン屋のむすめにはとても見えない。


「い、いえ、こちらは私のあるじむすめで、わけがあって共に旅を」


 ややこしいことになる前にそう言うと、むすめはこちらとミューリをたっぷり三回見比べてから、ようやくうでをほどいてくれた。


「お兄さん、おうにおいがたっぷりするってことは、ニョッヒラでお楽しみの帰りか。そういうことね」


 訳知り顔にうなずいていて、ちがいなくかんちがいしているだろうが、ていせいするのもめんどうだ。


「じゃあさ、宿はいいから、ちょっとりようがえしてくれない?」

りようがえ?」

「川を下ってきたなら、細かい銅貨とか持ってない?」


 客引きのむすめがそんなことを言い出して少々面食らった。


「おりが用意できなくて困ってんのよねえ。もちろん手数料分のお礼はするよ。っぺたに口づけでも、ひざまくらでも……」


 と、またすり寄ってきて、ミューリがではなくうなった。


じようだんだよ。でも、ちょっとでいいから替えてくれないかな。困ってるのは本当」


 大方、こうやって右も左もわからない旅人相手に話を持ちかけ、不利なこうかん比率をしつけてぜにを巻き上げているのだろう。


「すみません。私たちもりようがえ商にこれから行くつもりだったのです」


 そう告げると、むすめこうでいするでもなかった。


「そっかあ。なら、へきの外でりようがえはしないほうがいいよ。ござもいてないようなのはもぐりだからね。ものすごい手数料ふんだくられるから気をつけな。お兄さん、いかにもそうで……まあでも、小さいお目付け役がいるか」


 むすめはからりと笑い、ミューリに小さく手をると、さっさときびすを返していた。もうまったくこちらに興味を持っていない様子できょろきょろすると、通りがかった別の若い男に自分からぶつかりに行った。近くの農村から出てきたのか、やさしそうな青年だった。

 そこからのやり取りはさっきと同じで、相手がなおあやまるやいなや、うでに胸をてて耳元に顔を近づけている。はたから見ると、そうな青年がかちんこちんに固まっているのがよくわかった。

 あまりめられたやり口ではなかろうが、そのたくましいしようこんと才覚には感服する。


「まったくもう」


 そこに、冷たくするどい声がひびく。


「兄様は、やっぱり私がいないとだめじゃない」


 見れば、あきれたミューリの顔がそこにあった。視線を再度青年に向けると、しどろもどろな言い訳など聞く耳を持たないむすめにがっちりうでつかまれ、そのまま連れて行かれていた。弱き者は、られる運命にある。


「それに、でれでれしちゃって」

「で、でれでれなどしていません」


 あわてて言い返したが、ミューリはけいべつするような目つきのまま、ふんと鼻を鳴らした。


「あんなの、ちょっとでかいだけじゃない」

「え?」


 聞き返すと、ミューリはうでから体をはなし、代わりに手をつかんできた。小さな手であり、ミューリはたけかたはばこし回りも、色々なところが小さい。体をはなしたのは、うでに当たる部分を比べられるのはくつじよく的だ、ということだろう。もちろん、てきはしなかったし、気づかないりもした。

 代わりに、こう言っておいた。


「ただ、助かりました。お礼を言っておきます」


 ミューリはこちらをげんそうにじっと見上げた後、看板をひっくり返すようにがおになっていた。

 ぼんやり立っていたら、またぞろものねらう者たちからきばを向けられかねない。さっさと歩き出すと、ミューリは港の様子をながめてひととおり満足したのか、こんなことを言った。


「それで兄様。兄様って、結局この町でなにするの? 街角でお説教したり?」

「そんなことはしません。基本的にはハイランド様のお手伝いです」

「なんだっけ。『我々の神の……』」


 やはりぬすきしていたらしいが、いまさらかくす理由もない。


「『我々の神の書』」

「それってなんなの?」

「聖典のぞくほんやく版を作るという計画です」

「ああ、なるほど」


 ミューリはそう言いつつ、まったくわかっていない顔をしていた。

 あきれた目を向けると、にひひと笑い返される。


「聖典は教会文字で書かれています。いにしえの時代、預言者からの言葉をしたためたはいいものの、教会が世界にあまねく広まったために、原典を読むことのできない聖職者が大勢出てしまいました。そこで、神が人々にさずけてくれたのが教会文字と言われています」

「ふーん。いにしえってどれくらい? 母様の子供のころよりも?」


 思わず周りをわたしてしまったが、まさかに聞く者もいないか、とだつりよくした。


「それはどうでしょう。もしかしたら、それくらいかもしれません」

「へ~」


 みようなところで感心していたが、本題はちがうのでせきばらいをして話をもどす。


「とにかく、聖典はその教会文字で書かれていますが、だん使われている文字ではありません。ぞくと呼ばれるだん使われている文字すら、読み書きできる人は限られます」


 ミューリがいやそうな顔をしているのは、時にはあらなわしばりつけられ、無理やり読み書きを教えられたことを思い出したからだろう。

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