「そのせいで、聖典を読めるのは一部の人だけです。それでも教会に行けば聖職者が聖典に書かれた教えを解説してくれるので、ずるずるとこの状況が続いていました。ですが、やっぱりそれは良くないということになったのです。教会の聖職者だけが聖典を読み、一方的に神の教えの正しさを説くのではなく、聖典をたくさんの人が直接読んで、正しいことはなにかと各々にも判断してもらおうという、そういう計画です」
「それで、『我々の神の書』?」
「そうです。素晴らしい名前でしょう?」
ミューリは綺麗な瞳でこちらをまじまじ見つめてから、言った。
「兄様は私を子供扱いするけど、兄様も十分子供みたいだよ」
「は?」
聞き返すこちらには、意地悪そうに笑うだけ。
とはいえ、確かに『我々の神の書』の話はついつい鼻の穴が膨らんでしまうような、冒険と挑戦の要素がたっぷり詰まっているものだった。
「じゃあ、兄様は本を作るんだ」
「ありていに言えば」
しかし、聖典の翻訳は言うは易し、行うは難しだろう。聖典は曖昧な物言いやたとえ話に満ちていて、高名な神学者でも人によって解釈が様々だ。しかも日常ではまず使わない特殊な単語もたくさんあって、翻訳は一筋縄ではいかないだろう。
それに、この計画が強い信仰心によってのみ進められているわけではない現実もわかっている。これは教皇と対立し、その対立が長期化しているウィンフィール王国が、間違っているのは教皇のほうだ、と主張して相手の足元から切り崩していく作戦にほかならない。なにせ聖典を片手に清貧を説く司教の後ろには、巨大な鐘楼を備えた荘厳な聖堂があったりするのだから、やっていることと言っていることが違うのは誰の目にも明らかだ。しかし、聖典を直接読めないために、人々はその間違いを指摘することが難しかったり、できなかったりしてきた。
当然、教会側はこの計画に猛反対するのが目に見えている。聖典を俗語版に翻訳しないことで、聖典に触れられる者の数を制限し、無知な民衆は無知なままにしておきたいはず。『我々の神の書』の計画は、教会側にとってかなり頭の痛い問題になるだろう。
また、ウィンフィール王国側には、この計画に取り掛かる切実で実用的な理由もあった。現在国内にある教会すべてが教皇の命令によって扉を閉ざしているので、人々は自分たちの力で誕生の洗礼や、結婚の立会いや、埋葬の際の祈りなどを捧げなければならなかった。
この『我々の神の書』の計画を考案したハイランドは、やはり慧眼としか思えない。デバウ商会が王国に与しようと決めたのは、おそらくハイランドの聡明さゆえだろう。
ただ、それは追い詰められた者たちの苦肉の策とも言えた。聖務停止はおそろしい手段だ。大事な人の臨終の最中、天国に行けるように祈りを捧げて欲しいと願っても、聖職者はそれをしてはならない。人生の大事な節目となる幸せな結婚式に、神の祝福を与えてもらうこともできない。そもそも、結婚の儀は教会が司ることなので、正式な結婚式を挙げることすらできないのだ。教皇は、それらすべてを、税欲しさに台無しにしている。人の一生をなんだと思っているのだろう? 神の愛は無償であり、神の教えとは税を取るためのものではない。
やはり間違っているのは教皇だ、と思う。そこにはなんの正しさもない。そして、こんな横暴を認めていては、自分たちが世界を正しいと思う、その正しさの根源である神そのものの権威が疑われてしまう。
「兄様」
と、ぐるぐると頭の中で自己問答していたら、ミューリに袖を引かれた。
「顔が怖い」
「……。考え事をしていました。なんですか?」
「港はここで終わっちゃうよ? 目的地はどこ? あっちの坂の上の町?」
港の周りは、そこいらの町よりよほど発展していて、大きな建物もたくさんある。倉庫を兼ねた商会や、船宿だ。その奥にも建物はずっと続いていて、路地の向こうにはさっきの娘が客引きをしているような怪しげな店もわんさかあるのだろう。娘が言ったとおり、ござを敷いておらず、立ったまま道の隅で両替をしている者たちもいた。鍛冶屋や木工職人の工房もあるので、この港がすでにひとつの町とも言える。
しかし、港から石畳の舗道が続く坂の上には、ここからでもその大きさがわかる市壁が見えている。その市壁のあちこちにたくさんの足場が組まれているので、今なお拡張中のようだ。
デバウ商会の商館も、あるとしたらそちらだろう。
「町に行きましょう」
「やった!」
「やった?」
怪訝な顔で見るとミューリはそっぽを向くが、なにを考えているかはわかる。
「買い食いはしませんよ」
「え~……兄様が毒牙にかかりそうなところを助けてあげたじゃない」
「あ、あれは……自分でも断れました」
咳払いをすると、ミューリは生意気に肩をすくめている。
「第一、路銀も無限にあるわけではありません」
「私が酒場で踊れば稼げると思うよ?」
睨みつけると、肩の次に首をすくめて一歩離れる。本当に稼げてしまいそうなのがまた困る。
「贅沢は敵です」
「節制は人生を楽しむ敵だと思うな」
睨んでも、今度は笑顔を返された。
港から町の市壁に続く道沿いには、すでにぎっしりと露店が並んでいる。
預言者が神から与えられた試練の道には、一歩ごとに悪魔の誘惑があったそうだ。
神よ我を守りたまえ。
気を引き締め、禁欲を誓ったのだった。
アティフは賑やかな町だが、それはニョッヒラとは全く違う。
誰も彼もが大声を張り上げ、全力で走っているような賑やかさだ。
「おら、どけどけ!」
「こんなところに木箱を積み上げたのは誰だ!」
「ニシンだよ! ニシン! 塩漬けにされてない生のニシンだ!」
「旅の兄さん! 護身用に短剣をひとつどうだい! これなら牛も捌けるっていう逸品だ!」
自分も外の世界は知っているつもりだったが、それはもう十年以上昔の話であることを実感した。あまりの喧騒に、眩暈がしそうだ。
「ミューリ、大丈夫ですか?」
人ごみにもみくちゃにされ、辺りはものすごい人いきれと、魚の臭い、道端で捌かれている羊や豚の血の臭い、それらを油で揚げる匂いや炭火の煙で満ち満ちていた。
心配して声をかければ、ミューリはちょうどウナギの揚げ物を食べ終わったところだった。
「ふぇ?」
聞き返しつつ、鶏の詰まった籠を満載した荷車をひょいと避け、くるりとまわりながら通りすがりの犬の頭を撫でている。あっという間に町の騒ぎに慣れてしまったらしい。
「わ! 次はあれ食べたいな」
と、指を指したのは、肉をたっぷり詰めたパイを並べている店だった。
「……河口で獲れるウナギの揚げ物、豚の血の腸詰、牛の胃袋の煮物、それから?」
「ちっちゃい蟹の揚げ物は塩が利いていておいしかった。生ニシンの塩焼きも想像以上においしかった。ニシンも捨てたもんじゃないね」
ミューリの懇願に負けた自分が情けなかった。
「大食は七つの大罪のひとつです。大体、いくらかかったと思っているんですか。ニョッヒラから持ってきた小銭も全部なくなってしまいましたし……」