第二幕 ④

「そのせいで、聖典を読めるのは一部の人だけです。それでも教会に行けば聖職者が聖典に書かれた教えを解説してくれるので、ずるずるとこのじようきようが続いていました。ですが、やっぱりそれは良くないということになったのです。教会の聖職者だけが聖典を読み、一方的に神の教えの正しさを説くのではなく、聖典をたくさんの人が直接読んで、正しいことはなにかとおのおのにも判断してもらおうという、そういう計画です」

「それで、『我々の神の書』?」

「そうです。らしい名前でしょう?」


 ミューリはれいひとみでこちらをまじまじ見つめてから、言った。


「兄様は私をどもあつかいするけど、兄様も十分子供みたいだよ」

「は?」


 聞き返すこちらには、意地悪そうに笑うだけ。

 とはいえ、確かに『我々の神の書』の話はついつい鼻の穴がふくらんでしまうような、ぼうけんちようせんの要素がたっぷりまっているものだった。


「じゃあ、兄様は本を作るんだ」

「ありていに言えば」


 しかし、聖典のほんやくは言うは易し、行うは難しだろう。聖典はあいまいな物言いやたとえ話に満ちていて、高名な神学者でも人によってかいしやくが様々だ。しかも日常ではまず使わないとくしゆな単語もたくさんあって、ほんやくひとすじなわではいかないだろう。

 それに、この計画が強いしんこう心によってのみ進められているわけではない現実もわかっている。これは教皇と対立し、その対立が長期化しているウィンフィール王国が、ちがっているのは教皇のほうだ、と主張して相手の足元からくずしていく作戦にほかならない。なにせ聖典を片手にせいひんを説く司教の後ろには、きよだいしようろうを備えたそうごんな聖堂があったりするのだから、やっていることと言っていることがちがうのはだれの目にも明らかだ。しかし、聖典を直接読めないために、人々はそのちがいをてきすることが難しかったり、できなかったりしてきた。

 当然、教会側はこの計画にもうはんたいするのが目に見えている。聖典をぞく版にほんやくしないことで、聖典にれられる者の数を制限し、無知な民衆は無知なままにしておきたいはず。『我々の神の書』の計画は、教会側にとってかなり頭の痛い問題になるだろう。

 また、ウィンフィール王国側には、この計画にかる切実で実用的な理由もあった。現在国内にある教会すべてが教皇の命令によってとびらを閉ざしているので、人々は自分たちの力で誕生の洗礼や、けつこんの立会いや、まいそうの際のいのりなどをささげなければならなかった。

 この『我々の神の書』の計画を考案したハイランドは、やはりけいがんとしか思えない。デバウ商会が王国にくみしようと決めたのは、おそらくハイランドのそうめいさゆえだろう。

 ただ、それはめられた者たちの苦肉の策とも言えた。聖務停止はおそろしい手段だ。大事な人の臨終のなか、天国に行けるようにいのりをささげてしいと願っても、聖職者はそれをしてはならない。人生の大事な節目となる幸せなけつこんしきに、神の祝福をあたえてもらうこともできない。そもそも、けつこんは教会がつかさどることなので、正式なけつこんしきを挙げることすらできないのだ。教皇は、それらすべてを、税しさに台無しにしている。人の一生をなんだと思っているのだろう? 神の愛はしようであり、神の教えとは税を取るためのものではない。

 やはりちがっているのは教皇だ、と思う。そこにはなんの正しさもない。そして、こんな横暴を認めていては、自分たちが世界を正しいと思う、その正しさの根源である神そのもののけんが疑われてしまう。


「兄様」


 と、ぐるぐると頭の中で自己問答していたら、ミューリにそでを引かれた。


「顔がこわい」

「……。考え事をしていました。なんですか?」

「港はここで終わっちゃうよ? 目的地はどこ? あっちの坂の上の町?」


 港の周りは、そこいらの町よりよほど発展していて、大きな建物もたくさんある。倉庫をねた商会や、船宿だ。そのおくにも建物はずっと続いていて、路地の向こうにはさっきのむすめが客引きをしているようなあやしげな店もわんさかあるのだろう。むすめが言ったとおり、ござをいておらず、立ったまま道のすみりようがえをしている者たちもいた。や木工職人のこうぼうもあるので、この港がすでにひとつの町とも言える。

 しかし、港からいしだたみどうが続く坂の上には、ここからでもその大きさがわかるへきが見えている。そのへきのあちこちにたくさんの足場が組まれているので、今なお拡張中のようだ。

 デバウ商会の商館も、あるとしたらそちらだろう。


「町に行きましょう」

「やった!」

「やった?」


 げんな顔で見るとミューリはそっぽを向くが、なにを考えているかはわかる。


「買い食いはしませんよ」

「え~……兄様がどくにかかりそうなところを助けてあげたじゃない」

「あ、あれは……自分でも断れました」


 せきばらいをすると、ミューリは生意気にかたをすくめている。


「第一、路銀も無限にあるわけではありません」

「私が酒場でおどればかせげると思うよ?」


 にらみつけると、かたの次に首をすくめて一歩はなれる。本当にかせげてしまいそうなのがまた困る。


ぜいたくは敵です」

「節制は人生を楽しむ敵だと思うな」


 にらんでも、今度はがおを返された。

 港から町のへきに続く道沿いには、すでにぎっしりとてんが並んでいる。

 預言者が神からあたえられた試練の道には、一歩ごとにあくゆうわくがあったそうだ。

 神よ我を守りたまえ。

 気をめ、禁欲をちかったのだった。



 アティフはにぎやかな町だが、それはニョッヒラとは全くちがう。

 だれかれもが大声を張り上げ、全力で走っているようなにぎやかさだ。


「おら、どけどけ!」

「こんなところに木箱を積み上げたのはだれだ!」

「ニシンだよ! ニシン! しおけにされてない生のニシンだ!」

「旅の兄さん! 護身用にたんけんをひとつどうだい! これなら牛もさばけるっていういつぴんだ!」


 自分も外の世界は知っているつもりだったが、それはもう十年以上昔の話であることを実感した。あまりのけんそうに、眩暈めまいがしそうだ。


「ミューリ、だいじようですか?」


 人ごみにもみくちゃにされ、辺りはものすごい人いきれと、魚のにおい、みちばたさばかれている羊やぶたの血のにおい、それらを油でげるにおいや炭火のけむりで満ち満ちていた。

 心配して声をかければ、ミューリはちょうどウナギのものを食べ終わったところだった。


「ふぇ?」


 聞き返しつつ、にわとりまったかごまんさいした荷車をひょいとけ、くるりとまわりながら通りすがりの犬の頭をでている。あっという間に町のさわぎに慣れてしまったらしい。


「わ! 次はあれ食べたいな」


 と、指を指したのは、肉をたっぷりめたパイを並べている店だった。


「……河口でれるウナギのものぶたの血のちようづめ、牛のぶくろもの、それから?」

「ちっちゃいかにものは塩がいていておいしかった。生ニシンの塩焼きも想像以上においしかった。ニシンも捨てたもんじゃないね」


 ミューリのこんがんに負けた自分が情けなかった。


「大食は七つの大罪のひとつです。大体、いくらかかったと思っているんですか。ニョッヒラから持ってきたぜにも全部なくなってしまいましたし……」

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