牙だらけの口ではにかんでも、ミューリはミューリ。可愛い妹に変わりはない。
そして、ミューリの大きな口吻に手を添え、いざ、顔を近づけようとした時だった。
『あ、でも、その、兄様……』
「なんですか?」
『えっと……恥ずかしいから、目を閉じて欲しい。手も、どきどきしすぎるから……離して、欲しい』
上目づかいに、耳と尻尾を下げている。ミューリは年頃の女の子なのだ。
それに、改めてそう言われると、こちらも急に恥ずかしくなる。
咳払いをして、口吻から手を離し、目を閉じた。
「これでいいですか?」
「うん」
ミューリが再び少女の姿に戻れて、ニョッヒラでこれまでどおりに暮らせるのであれば、神の御座が遠のいたって構わない。それに、これは禁欲の誓いを破るような行為ではない。欲に負けたせいではなく、人を助けるためのことなのだから。それに、かつては預言者も悪魔に取り憑かれた者を助けるために、額や手に口づけをしたではないか。ならば、これだって……と思ったところで、疑問符がついた。
額や、手に口づけ? ならば口同士である必然性はあるのだろうか? 確かに王子の口づけで姫の呪いが解ける物語は数多あるが、大体ミューリのそれは呪いなのだろうか?
なにかおかしい気がした。そもそも、ミューリは最初になんと言った?
人に戻る方法は、ある。
その発言を思い返し、気がついた。
物語のそれが解決方法だとは、一言も言っていない!
「あっ」
目を開けたら、目の前に人の姿に戻ったミューリの顔があった。髪の毛が触れてばれないようにと手で押さえ、手足が触れてもばれるからと、歪な姿勢で顔を突き出している。
視線が合ったミューリは、誤魔化すように笑った直後、ばっと飛びかかってきた。そこを、すんでのところで横に躱す。後ろで、ごん、と頭を床にぶつける音がした。
「痛ったーい……」
思い返せば、目を閉じた確認の時の声が、いつものミューリのものだった。
そもそも、狼になるためにホロと練習したと言うのだから、戻れて当たり前なのだ。
「あーあ、失敗しちゃった」
悪びれもしないし、裸を隠そうともしない。
なにから怒ればいいのかすらわからない。
とにかく立ち上がり、こう言った。
「ミューリ!」
ミューリは首をすくめて頭をかばうようにしたが、腕の下では笑っていた。
「兄様がやったのと同じことしただけじゃない」
噓を言ったわけではなく、相手が勝手に解釈しただけ。
正論なだけに、言い返せない。
「う、ぐっ……」
「でも、兄様がどんな時でも私の味方してくれるってのは、噓じゃなかったんだね。泣きそうになっちゃった」
満面の笑みでそう言われたら、それ以上怒ることもできない。
自分の決意の意味を理解してもらえることほど、嬉しいことはないのだから。
「ていうか兄様、広場からなんか歓声が聞こえるよ?」
「あ、え? こら、ミューリ!」
ミューリは立ち上がり、見慣れた尻尾を揺らして木窓に駆けより、思いきりよく開ける。
広場からの灯りがここまで届くのか、ミューリのすらりとした肢体がぽっと浮かび上がる。
「こっちはうまくいったんじゃないかな、ねえ、兄さ、ば?」
頭の上から外套をかぶせた。
「耳、尻尾っ。それから、あなたは女の子なんですよ、もう少し慎みを持ちなさい!」
外套の下から顔を出したミューリは、面倒臭そうに羽織る。
怒りの余りか、それとも連日の疲れもあってか、眩暈がしてくる。
「もう、兄様怒ってばっかり」
「一体誰のせいだと……」
「あ、やっぱりうまくいったみたいだよ。金髪の声がする」
こちらの小言など意に介さず、木窓から身を乗り出し、獣の耳をぴんと立てている。
ただ、こんな騒ぎもこれで最後だ。ミューリはニョッヒラに帰り、自分はハイランドと共にウィンフィール王国に行く。辛気臭い別れにならず、かえって良かったかもしれない。
「ねえねえ、兄様、今ならあいつにおっきな恩が売れるんじゃないかな」
そんなことまで言っている。
そして、そんな必要はない。ハイランドは高潔な人物だ。うまくいって本当によかった。
「ねえ、兄様……兄様?」
うまくいって……。
「兄様、ちょっと、大丈夫?」
体力が尽きてふらついたところを、ミューリが抱き止めてくれた。悪戯ばかりのお転婆少女だが、いざという時には頼りになる。
意識が遠のいていく中でも不安はなく、湯に浸かるような心地良さがあった。
散々甘やかしてきたのだから、最後くらいは甘えてもいいはずだ。
そんなことを思いながら、仄かな硫黄の匂いに誘われ、ミューリの腕の中で、最後の緊張を解いたのだった。