「では早く人を出すか、あなたが大司教を説得しに行ってください。町の兵がハイランド様を傷つけるようなことになれば、神がお嘆きになるでしょう!」
ステファンは椅子から飛び上がるように立ち上がった。
そして、壁に背中を擦りつけるくらいミューリを遠巻きにして扉にすがりついたステファンの背中に、こう付け加えるのを忘れない。
「我々の存在は内密に。神は常に我々を見ております」
泣きそうな顔で振り向いたステファンは、がくがくと何度もうなずき、部屋から飛び出していった。半開きのままの扉の向こうから、絶叫するように人を呼ぶステファンの声がする。
大司教も、町の大きな後ろ盾のステファンが意を翻したとなれば、聞かざるを得ないだろう。
ましてや、神の教えよりも人の世の渡り方によってその座に就いたのならば、この出来事を、大きな世の新しい流れだと見るはずだ。
というのは、希望的観測だろうか。
静まり返った部屋で、どうにも不安だった。
「……大丈夫だと思いますか?」
ミューリは赤い目を、ステファンが出ていった扉から、こちらに向ける。
『兄様が悪者になっちゃったんじゃないかというほうが不安』
大丈夫、ということだろう。
『でも、心配なら教会に行く? いざとなったら咥えて逃げられるかも』
本当はそうしたいが、ハイランドが望まないだろうし、実際的な問題もある。
ステファンはなんとか誤魔化せたが、大衆にミューリのことを説明する余裕はない。ハイランドはやはり異端の者で、怪しげな狼の力を借りて逃げたとみなされたらどうしようもない。
だから、自分にできることをすることに決めた。
「祈りましょう」
なにより、あの場に赴いたのはハイランドの高潔なる意志の結果なのだ。平民は尊重せざるを得まい。そんな厳粛な気持ちだったのに、ミューリは返事をせず、後ろ足で首筋を搔いていた。
吞気な様子は、狼というより犬に見える。
『それより、今のうちに服を取りに行っておこうかな』
「え? ああ、そうですね」
やきもきするより、ミューリのそんな泰然とした振る舞いが正しいのかもしれない。できる限りのことはやったのだから。
そして、人がいないと確信できているのか、ミューリは相変わらず躊躇いなく廊下を歩き、滑るように階段を上り、自分たちの部屋に向かった。
インクと羊皮紙の匂いに出迎えられ、朝までここにいたのにとても久しぶりに帰ってくることができたような気がした。自分はやはり切った張ったの世界より、たとえ世界の四分の一であったとしても、こういうところのほうが性に合っている。
苦笑していたら、ミューリが部屋の隅に畳んである服の前で、ちょこんと腰を下ろしていることに気がついた。
「どうしました?」
『……うん』
ミューリは尻尾をぱたりと床に伏せ、こちらを見ないままに言った。
『服、このまま捨てちゃおうかなって』
「え」
その服は派手だし、神の教えの基準から言えば、破廉恥でさえある。しかし、ミューリにはよく似合っていたのも事実。そう思ったのだが、ミューリはその服を自分に見せたくて張りきって用意していたらしいことを思い出す。寂しそうな後ろ姿は、自分のせいでもあるのだ。
『あ、けど、兄様のせいじゃないよ』
こちらの胸中を見透かしたかのように、ミューリが振り向いて言った。
『そうじゃなくてね……この姿だと、着られないから』
「え?」
『麦を見せた時、いざという時にはって言ったでしょ? それには理由があるの』
ミューリはこちらに向き直り、前足をきちんと揃えて座る。
目だけが、伏せられていた。
『私は母様と違う。母様は耳と尻尾をしまうのは苦労するけれど、狼になるのは簡単。私は逆。だからね、いざという時だけなの』
「まさか……」
狼になるのは簡単でも、戻れないのだろうか。それが示す意味を理解し、血の気が引いた。
狼の姿のままでは、ニョッヒラに戻っても湯屋にはいられない。否、それどころか人のいる場所であればどこにもいられないだろう。
ミューリは自分のために、なんという決断をしたのだろう!
「ど、どうにか、どうにかならないのですか!」
駆け寄ると、銀色の狼は苦しそうに目を細め、頭を下げてしまう。
こちらが苦しめば苦しむほど、ミューリもまた苦しむかのように。
『兄様、そんな顔しないで? 私は、最後に父様と母様が話してくれたような冒険ができて、嬉しかったよ』
その言葉に胸が痛んだ。ミューリは心優しい娘なのだ。こちらにそうと悟らせず、自分のために動いてくれていた。自分の夢にばかり気を取られ、まったく注意を払っていなかった。
自分はミューリの想いに応えなかったというのに、ミューリは犠牲を払ってくれた。その前では、謝罪や自己嫌悪でさえ、単なる自己満足にすぎない。
自分の感情を表現する言葉がなく、ただその首に腕を回すことしかできなかった。
『兄様……』
ミューリは静かに、呟いた。
『でも、あのね? 本当は、人に戻る方法は、あるの』
顔を上げ、ミューリの顔を真正面から見た。
「なんですか! 教えてください!」
『でも、私は兄様がこれ以上苦しむのを見たくない』
「ミューリ! 私は今以上に苦しむことなど想像もできません!」
ミューリは目を閉じ、ぞろりと牙を剝く。困ったように笑っていた。
『その気持ちだけで嬉しいよ』
「ミューリ!」
その名を呼ぶと、数瞬の沈黙の後、ミューリは目を開けて、こちらを見た。
『本当に、いいの?』
「もちろんです」
ミューリはなおも迷ったように目を伏せ、ゆっくりと、上げた。
「あの時の約束を思い出してください」
自分はミューリの味方なのだ。それは絶対のことであり、神への願いよりも固い。
ミューリは自分のために、望まぬ結果の待つ扉を開けてくれた。
ならば今度は自分がそうする番だ。どれだけ苦しむことでも、受け入れる。
ミューリの赤い目が、じっと見つめてくる。ミューリが幼い頃、自分が人とは違うことを知って、泣きじゃくっていたあの時の目で。
そして、その赤い目は、眠りに落ちるように閉じられた。
『物語に、よくあるでしょう?』
「物、語?」
『うん。たくさんの昔話……それこそ、兄様の村のお話だって、きっと昔は大きな蛙がいたんだって言ってたでしょう? それと同じで、たくさんの物語には、かつて本当だったこともたくさんある』
それはそのとおりだった。なによりも、ミューリの母親のホロにまつわる話こそが典型だ。
『だから……ほら……』
ミューリは目を開けると、顔を伏せた。しょげるような、上目づかいでこちらを見る。
『お姫様の呪いを解く時、王子様がするでしょ?』
「それは……」
どんなことか、わからないはずもない。それは神聖な行為でありながら、禁欲の誓いとは両立しないものだった。
ミューリは、すぐに顔を背ける。
『ううん、兄様には聖職者になる夢があるんだもの。やっぱり、そんなことをさせられない』
「ミューリ」
その顔をまっすぐに見た。毛むくじゃらで、大きくて、口は牙だらけだが、そこにいるのは生まれてからずっと慣れ親しんでいる、ミューリなのだ。
ミューリを人に戻せるのであれば、神の前で居心地が悪くなっても構わなかった。
「それで、あなたは戻れるんですね?」
『……うん、でも──』
「わかりました」
『兄様?』
ここで躊躇ったら、ミューリはきっと自分の言うことを信じてくれなくなる。それどころか、この先誰の言うことも信じられなくなるかもしれない。どうせ口だけなのでしょ? と冷たい目をして人を疑うミューリの姿など、想像もしたくなかった。この世には信じる価値のあるものがあり、確かなものがあることを疑って欲しくなかった。それこそが、人の生を素晴らしい物に保つ、黄金のかすがいなのだから。
なるほど、ハイランドが死を覚悟して教会に向かったのは、こんな心境だったのだろうと思った。信仰には、行動が伴わなければならない。
ミューリはこちらを見て、決意を察してくれた。
『兄様……ありがとう』