第四幕 ⑪

「では早く人を出すか、あなたが大司教を説得しに行ってください。町の兵がハイランド様を傷つけるようなことになれば、神がおなげきになるでしょう!」


 ステファンはから飛び上がるように立ち上がった。

 そして、かべに背中をこすりつけるくらいミューリを遠巻きにしてとびらにすがりついたステファンの背中に、こう付け加えるのを忘れない。


「我々の存在は内密に。神は常に我々を見ております」


 泣きそうな顔でいたステファンは、がくがくと何度もうなずき、部屋から飛び出していった。半開きのままのとびらの向こうから、ぜつきようするように人を呼ぶステファンの声がする。

 大司教も、町の大きなうしだてのステファンが意をひるがえしたとなれば、聞かざるを得ないだろう。

 ましてや、神の教えよりも人の世のわたり方によってその座にいたのならば、この出来事を、大きな世の新しい流れだと見るはずだ。

 というのは、希望的観測だろうか。

 静まり返った部屋で、どうにも不安だった。


「……だいじようだと思いますか?」


 ミューリは赤い目を、ステファンが出ていったとびらから、こちらに向ける。


『兄様が悪者になっちゃったんじゃないかというほうが不安』


 だいじよう、ということだろう。


『でも、心配なら教会に行く? いざとなったらくわえてげられるかも』


 本当はそうしたいが、ハイランドが望まないだろうし、実際的な問題もある。

 ステファンはなんとかせたが、大衆にミューリのことを説明するゆうはない。ハイランドはやはりたんの者で、あやしげなオオカミの力を借りてげたとみなされたらどうしようもない。

 だから、自分にできることをすることに決めた。


いのりましょう」


 なにより、あの場におもむいたのはハイランドの高潔なる意志の結果なのだ。平民は尊重せざるを得まい。そんなげんしゆくな気持ちだったのに、ミューリは返事をせず、後ろ足で首筋をいていた。

 のんな様子は、オオカミというより犬に見える。


『それより、今のうちに服を取りに行っておこうかな』

「え? ああ、そうですね」


 やきもきするより、ミューリのそんなたいぜんとしたいが正しいのかもしれない。できる限りのことはやったのだから。

 そして、人がいないと確信できているのか、ミューリは相変わらず躊躇ためらいなくろうを歩き、すべるように階段を上り、自分たちの部屋に向かった。

 インクと羊皮紙のにおいにむかえられ、朝までここにいたのにとても久しぶりに帰ってくることができたような気がした。自分はやはり切った張ったの世界より、たとえ世界の四分の一であったとしても、こういうところのほうがしようっている。

 しようしていたら、ミューリが部屋のすみたたんである服の前で、ちょこんとこしを下ろしていることに気がついた。


「どうしました?」

『……うん』


 ミューリは尻尾しつぽをぱたりとゆかせ、こちらを見ないままに言った。


『服、このまま捨てちゃおうかなって』

「え」


 その服は派手だし、神の教えの基準から言えば、れんでさえある。しかし、ミューリにはよく似合っていたのも事実。そう思ったのだが、ミューリはその服を自分に見せたくて張りきって用意していたらしいことを思い出す。さびしそうな後ろ姿は、自分のせいでもあるのだ。


『あ、けど、兄様のせいじゃないよ』


 こちらの胸中をかしたかのように、ミューリがいて言った。


『そうじゃなくてね……この姿だと、着られないから』

「え?」

『麦を見せた時、いざという時にはって言ったでしょ? それには理由があるの』


 ミューリはこちらに向き直り、前足をきちんとそろえてすわる。

 目だけが、せられていた。


『私は母様とちがう。母様は耳と尻尾しつぽをしまうのは苦労するけれど、オオカミになるのは簡単。私は逆。だからね、いざという時だけなの』

「まさか……」


 オオカミになるのは簡単でも、もどれないのだろうか。それが示す意味を理解し、血の気が引いた。

 オオカミの姿のままでは、ニョッヒラにもどっても湯屋にはいられない。いな、それどころか人のいる場所であればどこにもいられないだろう。

 ミューリは自分のために、なんという決断をしたのだろう!


「ど、どうにか、どうにかならないのですか!」


 ると、銀色のオオカミは苦しそうに目を細め、頭を下げてしまう。

 こちらが苦しめば苦しむほど、ミューリもまた苦しむかのように。


『兄様、そんな顔しないで? 私は、最後に父様と母様が話してくれたようなぼうけんができて、うれしかったよ』


 その言葉に胸が痛んだ。ミューリは心やさしいむすめなのだ。こちらにそうとさとらせず、自分のために動いてくれていた。自分の夢にばかり気を取られ、まったく注意をはらっていなかった。

 自分はミューリのおもいに応えなかったというのに、ミューリはせいはらってくれた。その前では、謝罪や自己けんでさえ、単なる自己満足にすぎない。

 自分の感情を表現する言葉がなく、ただその首にうでを回すことしかできなかった。


『兄様……』


 ミューリは静かに、つぶやいた。


『でも、あのね? 本当は、人にもどる方法は、あるの』


 顔を上げ、ミューリの顔を真正面から見た。


「なんですか! 教えてください!」

『でも、私は兄様がこれ以上苦しむのを見たくない』

「ミューリ! 私は今以上に苦しむことなど想像もできません!」


 ミューリは目を閉じ、ぞろりときばく。困ったように笑っていた。


『その気持ちだけでうれしいよ』

「ミューリ!」


 その名を呼ぶと、すうしゆんちんもくの後、ミューリは目を開けて、こちらを見た。


『本当に、いいの?』

「もちろんです」


 ミューリはなおも迷ったように目をせ、ゆっくりと、上げた。


「あの時の約束を思い出してください」


 自分はミューリの味方なのだ。それは絶対のことであり、神への願いよりも固い。

 ミューリは自分のために、望まぬ結果の待つとびらを開けてくれた。

 ならば今度は自分がそうする番だ。どれだけ苦しむことでも、受け入れる。

 ミューリの赤い目が、じっと見つめてくる。ミューリが幼いころ、自分が人とはちがうことを知って、泣きじゃくっていたあの時の目で。

 そして、その赤い目は、ねむりに落ちるように閉じられた。


『物語に、よくあるでしょう?』

「物、語?」

『うん。たくさんの昔話……それこそ、兄様の村のお話だって、きっと昔は大きなかえるがいたんだって言ってたでしょう? それと同じで、たくさんの物語には、かつて本当だったこともたくさんある』


 それはそのとおりだった。なによりも、ミューリの母親のホロにまつわる話こそが典型だ。


『だから……ほら……』


 ミューリは目を開けると、顔をせた。しょげるような、上目づかいでこちらを見る。


『おひめ様ののろいを解く時、王子様がするでしょ?』

「それは……」


 どんなことか、わからないはずもない。それは神聖なこうでありながら、禁欲のちかいとは両立しないものだった。

 ミューリは、すぐに顔をそむける。


『ううん、兄様には聖職者になる夢があるんだもの。やっぱり、そんなことをさせられない』

「ミューリ」


 その顔をまっすぐに見た。毛むくじゃらで、大きくて、口はきばだらけだが、そこにいるのは生まれてからずっと慣れ親しんでいる、ミューリなのだ。

 ミューリを人にもどせるのであれば、神の前でごこが悪くなっても構わなかった。


「それで、あなたはもどれるんですね?」

『……うん、でも──』

「わかりました」

『兄様?』


 ここで躊躇ためらったら、ミューリはきっと自分の言うことを信じてくれなくなる。それどころか、この先だれの言うことも信じられなくなるかもしれない。どうせ口だけなのでしょ? と冷たい目をして人を疑うミューリの姿など、想像もしたくなかった。この世には信じる価値のあるものがあり、確かなものがあることを疑ってしくなかった。それこそが、人の生をらしい物に保つ、黄金のかすがいなのだから。

 なるほど、ハイランドが死をかくして教会に向かったのは、こんな心境だったのだろうと思った。しんこうには、行動がともなわなければならない。

 ミューリはこちらを見て、決意を察してくれた。


『兄様……ありがとう』

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