大司教と通じているのなら、自分は本来ここにいないはずだ、ということもわかっているだろう。扉の向こうからは困惑と戸惑いが漏れ出してきそうだった。いい加減扉をこじ開けようかと思った時、中から声がした。
「入りたまえ」
さすが商館を仕切るだけあって、しっかりした声だった。
「失礼します」
扉を開け、中に入る。
壁一面に巨大な世界地図が飾られているのは、宿泊していた部屋と同じだ。違うのは、その反対側の壁に無数の羊皮紙が積み上げられていたり、あるいは丸めて置かれていたりすることだった。そこに記されているのは、膨大な数と種類の品々の取引や、眩暈がするほど入り乱れた特権、利権の数々だろう。人が善く生きるための指針が記された聖典は大した厚みではないが、大商会が儲けるために必要な文字はこんなにも凄まじい量らしい。
ステファンは、その部屋の一番奥で、大きな机に座っていた。
「まさか、本当にあなただとは……ハイランド様が現れたという報告も、ならば本当……え?」
自分の横をすり抜けるように部屋に入ってきたミューリを見た時は、小僧以上の驚きようだった。
「神の奇跡を信じますか?」
狼のミューリを側に従え、そう言った。ステファンは口をぱくぱくと動かすばかりで、声にならない。牢にいるはずの人間が、大きな狼を従えて自分の執務室にいる。
それが奇跡以外のなにに見えるだろうか?
「御安心を。私は神の教えに背く者を罰しに来たのではありません」
神の教えに忠実であれば、噓をつくことは許されない。
だから噓はついていない。
単に、隣でミューリが牙を剝いて低く唸っているだけだ。
「ですが、神の正しい教えを広めたいと願っています」
そう言った直後だった。
「ウ、ウィンフィール王国は異端と認定されたんだ! お前たちが作っていた聖典の翻訳も、禁書になったんだぞ! どちらが神の教えの許に正しいのか、一目瞭然だろう!」
叫ぶのは、疾しいところを自覚しているからかもしれない。
「町の人々はそのことを?」
ステファンは一瞬言葉に詰まったが、そこは商人だ。すぐにやり返す。
「ああ知っているとも! だからあんな大騒ぎになっているんだ! ウィンフィール王国に倣えと叫んでいる! 信じられん! 連中にはその意味がわからないのだ! 彼らには教皇様の偉大さと、教会の素晴らしさが理解できないのだ!」
喚き立てるステファンの言葉は空疎で、自分に必死に言い聞かせているようにも聞こえた。もしかしたら、ステファンはある種の賭けに出ていたのかもしれない。商会の情報網で勅許の存在を知り、ハイランドを見捨て、大司教に深く与することを選んだ。だが、予想に反し、町の人々は教皇の勅許状に怯まなかった。
ハイランドの考えは正しかった。人々は、教会の横暴にはいい加減うんざりなのだ。
しかし、ステファンはなお諦めていないらしい。大司教が勝ち、これまでどおりの関係が続くと祈っている。
「ところで、あなたは大司教様と同郷だとお聞きしましたが」
喚き立てていたステファンが、ぴたりと静かになった。
ミューリが部屋に入ってきた時よりも、よほど愕然としていた。
「教会との取引も随分多い御様子」
「そ、それが……それが、なんだ。町の人間ならば、み、み、み、皆、知っていることだ」
滑稽なほど動揺していた。ステファンは馬鹿ではない。自らその可能性を察していたようだ。
教会が激しく攻め立てられれば、教会と深い取引にあるところへ飛び火する可能性もあると。
「皆、知っているでしょうが、見たことはないかもしれませんよね」
「……な、に? なにを?」
たまには書物の外を見たらいい、とハイランドに言われたのは、そのとおりだった。
「こちらの商館は、教会に集まった寄付金を計量し、多分ですが、小銭不足の町に輸出していますよね」
ミューリが数えていた小銭は、そのためのものだろう。
「あるいは、十分の一税として集められたものも」
「お、あ、あ、あなたは、なにを──」
「もしかしたら、適正な商いなのかもしれません。ですが、もしも本当に、心の底からそう思うのでしたら、いかがでしょう。町の人々に見てもらっては?」
「え……」
「貨幣がぎっしり詰まった木箱がずらりと並ぶ様が、清貧を説く教会の教えと合致しているのかどうか」
「あ……」
「町の人々が日々の生活で必要な小銭に窮しているのに、教会はこんなにも大量の貨幣を他所の町に売って利益を得ていると知れば、人々はどうして教会が民衆の味方だと信じられますか? ただでさえ、大司教様の食卓は豪勢だと評判なのに?」
聖典の翻訳と同じだ。誰もが直接目の当たりにすれば、その意味をすぐに理解できる。
「節制です、ステファンさん。確かに教会は多くのものを失うのかもしれません。ですが、それは元々取りすぎていたのです。教会の振る舞いの多くは、到底正当化できません。ステファンさん」
その名を改めて呼んで、ひとつ咳払いをした。
「聖典の翻訳版をお読みになられたのでは?」
ステファンの顎から、脂汗がしたたり落ちた。
しかし、思考を放棄している顔ではない。必死に計算をしているのだ。そして、ステファンは教皇からの勅許状の情報を得た際、一度同様の計算をして、ハイランドを売った。自分たちが牢から抜け出したことで状況は変化している。それでも、決め手に欠けているのは確かであり、ハイランドはそれ故に死を覚悟していた。
だから、自分は危険を承知でこの場にミューリを連れてきたのだ。
「天秤で熱心に損得を計るのも結構ですが」
ミューリが察したのか、すっくと四足で立つ。
女性の前で取り繕うのは心底苦手だが、神の前で見栄を張るのは慣れている。
大芝居を打った。
「私のような者がなぜ、北の地を支配するデバウ商会の、偉大なる大番頭様から厚遇されていると思いますか?」
自分は、町で見かければ、よくいる旅の聖職者としか思われないだろう。だが、その側には銀色の狼を従え、しかも、幽閉されたはずの牢から抜け出てきた。
詳しく事情を知らない者が見れば、想像せざるを得ないはず。デバウ商会の大番頭がウィンフィールに肩入れし、こんな若造を厚遇せよと命じるその理由を。
商会の壁には、剣と天秤を持った天使の絵が飾られていた。
神の教えは、まやかしではない。
「ステファンさん」
二回りは年上のステファンが、弾かれたように背筋を伸ばす。
最後の審判に立ち会った人間は、こんな顔をするのかもしれない。
「大司教を、説得してくれますね?」
しかし、見上げたことに、まだ躊躇った。そしてふと気づく。ステファンと大司教は同郷の者。損得ずくの話ではないのかもしれない。
「我々は教会を滅ぼそうというわけではありません。それに、大司教様は問題が数あれど、聖務には熱心な方だと聞いています。引き続きこの町の聖務は任されると思いますし、人々もそう望むでしょう」
洗礼や結婚の祝福の際に泣けるような人物なのだ。ハイランドに確認したわけではないが、まず間違いないだろう。ステファンは引き結んだ唇をぶるぶるとふるわせた後、糸が切れたように脱力した。一瞬、気絶したのかと思った。
「……わかり、ました」
やはり、大司教の身を案じていたのだ。ステファンだって、すべてを金で数えるような、血も涙もない人ではない。