第四幕 ⑩

 大司教と通じているのなら、自分は本来ここにいないはずだ、ということもわかっているだろう。とびらの向こうからはこんわくまどいがれ出してきそうだった。いい加減とびらをこじ開けようかと思った時、中から声がした。


「入りたまえ」


 さすが商館を仕切るだけあって、しっかりした声だった。


「失礼します」


 とびらを開け、中に入る。

 かべ一面にきよだいな世界地図がかざられているのは、宿しゆくはくしていた部屋と同じだ。ちがうのは、その反対側のかべに無数の羊皮紙が積み上げられていたり、あるいは丸めて置かれていたりすることだった。そこに記されているのは、ぼうだいな数と種類の品々の取引や、眩暈めまいがするほど入り乱れた特権、利権の数々だろう。人が善く生きるための指針が記された聖典は大した厚みではないが、大商会がもうけるために必要な文字はこんなにもすさまじい量らしい。

 ステファンは、その部屋の一番おくで、大きな机にすわっていた。


「まさか、本当にあなただとは……ハイランド様が現れたという報告も、ならば本当……え?」


 自分の横をすりけるように部屋に入ってきたミューリを見た時は、ぞう以上のおどろきようだった。


「神のせきを信じますか?」


 オオカミのミューリを側に従え、そう言った。ステファンは口をぱくぱくと動かすばかりで、声にならない。ろうにいるはずの人間が、大きなオオカミを従えて自分のしつ室にいる。

 それがせき以外のなにに見えるだろうか?


「御安心を。私は神の教えにそむく者をばつしに来たのではありません」


 神の教えに忠実であれば、うそをつくことは許されない。

 だからうそはついていない。

 単に、となりでミューリがきばいて低くうなっているだけだ。


「ですが、神の正しい教えを広めたいと願っています」


 そう言った直後だった。


「ウ、ウィンフィール王国はたんにんていされたんだ! お前たちが作っていた聖典のほんやくも、禁書になったんだぞ! どちらが神の教えのもとに正しいのか、いちもくりようぜんだろう!」


 さけぶのは、やましいところを自覚しているからかもしれない。


「町の人々はそのことを?」


 ステファンはいつしゆん言葉にまったが、そこは商人だ。すぐにやり返す。


「ああ知っているとも! だからあんなおおさわぎになっているんだ! ウィンフィール王国にならえとさけんでいる! 信じられん! 連中にはその意味がわからないのだ! かれらには教皇様のだいさと、教会のらしさが理解できないのだ!」


 わめてるステファンの言葉はくうで、自分に必死に言い聞かせているようにも聞こえた。もしかしたら、ステファンはある種のけに出ていたのかもしれない。商会の情報もうちよつきよの存在を知り、ハイランドを見捨て、大司教に深くくみすることを選んだ。だが、予想に反し、町の人々は教皇のちよつきよ状にひるまなかった。

 ハイランドの考えは正しかった。人々は、教会の横暴にはいい加減うんざりなのだ。

 しかし、ステファンはなおあきらめていないらしい。大司教が勝ち、これまでどおりの関係が続くといのっている。


「ところで、あなたは大司教様と同郷だとお聞きしましたが」


 わめてていたステファンが、ぴたりと静かになった。

 ミューリが部屋に入ってきた時よりも、よほどがくぜんとしていた。


「教会との取引もずいぶん多い御様子」

「そ、それが……それが、なんだ。町の人間ならば、み、み、み、みな、知っていることだ」


 こつけいなほどどうようしていた。ステファンは鹿ではない。自らその可能性を察していたようだ。

 教会が激しくめ立てられれば、教会と深い取引にあるところへ飛び火する可能性もあると。


みな、知っているでしょうが、見たことはないかもしれませんよね」

「……な、に? なにを?」


 たまには書物の外を見たらいい、とハイランドに言われたのは、そのとおりだった。


「こちらの商館は、教会に集まった寄付金を計量し、多分ですが、ぜに不足の町に輸出していますよね」


 ミューリが数えていたぜには、そのためのものだろう。


「あるいは、十分の一税として集められたものも」

「お、あ、あ、あなたは、なにを──」

「もしかしたら、適正なあきないなのかもしれません。ですが、もしも本当に、心の底からそう思うのでしたら、いかがでしょう。町の人々に見てもらっては?」

「え……」

へいがぎっしりまった木箱がずらりと並ぶ様が、せいひんを説く教会の教えとがつしているのかどうか」

「あ……」

「町の人々が日々の生活で必要なぜにきゆうしているのに、教会はこんなにも大量のへいの町に売って利益を得ていると知れば、人々はどうして教会が民衆の味方だと信じられますか? ただでさえ、大司教様のしよくたくごうせいだと評判なのに?」


 聖典のほんやくと同じだ。だれもが直接目の当たりにすれば、その意味をすぐに理解できる。


「節制です、ステファンさん。確かに教会は多くのものを失うのかもしれません。ですが、それは元々取りすぎていたのです。教会のいの多くは、とうてい正当化できません。ステファンさん」


 その名を改めて呼んで、ひとつせきばらいをした。


「聖典のほんやく版をお読みになられたのでは?」


 ステファンのあごから、あぶらあせがしたたり落ちた。

 しかし、思考をほうしている顔ではない。必死に計算をしているのだ。そして、ステファンは教皇からのちよつきよ状の情報を得た際、一度同様の計算をして、ハイランドを売った。自分たちがろうからしたことでじようきようは変化している。それでも、決め手に欠けているのは確かであり、ハイランドはそれゆえに死をかくしていた。

 だから、自分は危険を承知でこの場にミューリを連れてきたのだ。


てんびんで熱心に損得を計るのも結構ですが」


 ミューリが察したのか、すっくと四足で立つ。

 女性の前でつくろうのは心底苦手だが、神の前でを張るのは慣れている。

 おおしばを打った。


「私のような者がなぜ、北の地を支配するデバウ商会の、だいなる大番頭様からこうぐうされていると思いますか?」


 自分は、町で見かければ、よくいる旅の聖職者としか思われないだろう。だが、その側には銀色のオオカミを従え、しかも、ゆうへいされたはずのろうからてきた。

 くわしく事情を知らない者が見れば、想像せざるを得ないはず。デバウ商会の大番頭がウィンフィールにかたれし、こんな若造をこうぐうせよと命じるその理由を。

 商会のかべには、けんてんびんを持った天使の絵がかざられていた。

 神の教えは、まやかしではない。


「ステファンさん」


 二回りは年上のステファンが、はじかれたように背筋をばす。

 最後のしんぱんに立ち会った人間は、こんな顔をするのかもしれない。


「大司教を、説得してくれますね?」


 しかし、見上げたことに、まだ躊躇ためらった。そしてふと気づく。ステファンと大司教は同郷の者。損得ずくの話ではないのかもしれない。


「我々は教会をほろぼそうというわけではありません。それに、大司教様は問題が数あれど、聖務には熱心な方だと聞いています。引き続きこの町の聖務は任されると思いますし、人々もそう望むでしょう」


 洗礼やけつこんの祝福の際に泣けるような人物なのだ。ハイランドにかくにんしたわけではないが、まずちがいないだろう。ステファンは引き結んだくちびるをぶるぶるとふるわせた後、糸が切れたようにだつりよくした。いつしゆん、気絶したのかと思った。


「……わかり、ました」


 やはり、大司教の身を案じていたのだ。ステファンだって、すべてを金で数えるような、血もなみだもない人ではない。

刊行シリーズ

新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙XIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Xの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IXの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙VIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙Vの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IVの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙IIの書影
新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙の書影