第四幕 ⑨

 ただ、すぐに返事を返せない。頭の中で思考がえたぎり、息もできなかった。


「寄付……天使と、てんびん……デバウ、商会」


 頭の中で、どんどん一枚の絵ができていく。

 デバウ商会は教会と実利でつながり、それゆえに教会を支えているという。もしもその取引が、おそろしく外聞の悪いものだとしたらどうだろう? 本来的にはただの取引であったのだとしても、見せようによっては違ったふうに見えるのだ。ミューリが言ったように、天使の絵ですら、ごうよくあくのように見せることができる。

 ステファンにそのことをすれば、顔を真っ青にするにちがいない。このふんであれば、町の人々のいかりのほこさきが向き、すべての取引を失い、それどころか暴徒からちにされるかもしれない。それでもなお大司教を支えようとするだろうか?

 そして、もしもデバウ商会の支えを取り除くことができれば、大司教もくずれるのではないか。たとえ教皇ちよつきよを持ってきていても、羊皮紙でけんを防げるわけではない。しかも、教皇のおわす御座からここまでは、おそろしいまでのきよがある。自分がつじこうしゆだいにぶら下がるまでに助けに来てもらえなければ、教皇のけんなどなんの意味もない。

 けんてんびんの天使の絵が、三度、別の意味を帯びてくる。

 命か、利益か。

 やってみるべきだ。

 ハイランドはああ言ってくれたが、ハイランドを見殺しにすることなんてできない。あきらめの悪さでは、聖職者は商人をもしのぐことを思い出す。なぜなら、自分たちはだれも見たことのない神様に会うために、しようがいを苦行についやすことだっていとわない連中なのだから。


『兄様』


 名を呼ばれてそちらを見れば、赤い目があきれるように細められている。


こわい顔してる』

「ちょっと、考え事を」

『兄様のあわてる顔もだけど、おこったような顔も、好きだよ』


 オオカミの顔で言われてなお、ややずかしい。それに、すぐに思い当たる。


「ミューリ、あなたはもしかして、私をわざとおこらせてたんですか?」


 ミューリは尻尾しつぽでこちらの後頭部をたたくだけで、返事をしなかった。


「まったく……ですが、あなたのそのわがままなところもたまには役に立つようです」

『へえ?』

「買い食いがなければ、気がつかないままだったかもしれませんから。なるほど、たまには本から顔を上げて町にすべきですね」


 ぽかんとした様子に、オオカミの顔も表情が豊かなのだと知る。


「それに、あなたが見聞きしてきた町のことです。旅は一人よりも二人、というのは本当のようです。私が世界の半分の半分しか見えていなければなおさらだ」


 立ち上がり、言った。


「ハイランド様を助けるために、まだできることがあります。私たちの理想のために、まだ戦うことができる」

『え~……』


 と、残念そうに言いながらも、馬がいやそうに顔をそむけるくらい、毛に活力をみなぎらせている。


「時間がありません。ホロさんのように人を乗せられないと言いましたが、あれは本当ですか?」


 ミューリは目を細めて、にやりと笑ったのだった。



 冷たい空気が、刃のように耳をけずっていく。対して、きようじんな銀の毛皮にれているしよあせをかくほどに熱い。ミューリの背中にしがみついて、田園地帯をあっという間に抜け、うらびれた住宅のすきの路地に速度を殺さずにんでいた。木箱、いぬせんたくもの、仕事に使うのだろう荷車などがふさぐ道を、ありえないほどの勢いでけていく。角を曲がる時などは大きくんで、かべを走っていたような気がしたが、深く考えないことにした。ミューリならばだいじよう、と信じられたからだ。

 ようやく速度が落ちると、デバウ商会の商館までもう一区画、というところまで来ていた。広場までも遠くなく、ものすごいけんそうが地鳴りとらいめいのようにとどろいてくる。人々が広場でさわいでいる間は、ハイランドも無事だろう。

 背中から降りると、ミューリは大きく口を開け、湯けむりよりも白い息をいていた。


だいじようですか?」

『もっと走っていたいくらい』

「……ここからニョッヒラは、ちょうどいいきよなのでは?」


 ぎらりときばを向けられると、なかなかはくりよくがある。


「あなたはこの辺りで身をかくしていてください」

『へえ』


 当然、それはなおな返事などではない。そういうこと言うんだ、と冷たく赤い目がこちらをえている。


じようだんですよ」


 ミューリは鼻先でいてくる。


『兄様、なんか悪そうなふん。なにかたくらんでる?』

「いいえ。ただ、ステファンさんが悪いことをしているんだ、と思わせるにはどうしたらいいのかと考えていました」

『どうするの?』


 その問いに、どこから見ても聖職者に見える旅のがいとうを手ではらった。


「あなたやハイランド様が教えてくれましたよ。堂々とそう宣言したら、そう見えるんだって」

『うん?』


 小首をかしげるミューリに、計画を耳打ちする。

 ミューリはたちまちきばき、尻尾しつぽった。


「どう思いますか?」

な兄様に、ぴったりなうそだと思う』


 いいや、うそではない。

 相手が勝手にかんちがいしてくれるようにうだけ。

 そう思い、ふとミューリに毒されているような気がしてきたのだが、悪い気はしなかった。



 デバウ商会の裏口をたたくと、誰何すいかされた。


「お世話になっているトート・コルです」


 とびらのぞき窓が開けられ、見おぼえるのある顔が現れた。ルイスだ。ルイスは険しい顔でのぞき窓からこちらを見ていたが、一転、ほっとしたものになった。おおさわぎの広場にほど近いので、さわぎに乗じたぬすみか、あるいはちなどをけいかいしているのだろう。


「おかえりなさいませ。御無事でなによりです」


 自分たちがらえられ、ゆうへいされ、そこをしてきたことなど、ルイスはあずかり知らないだろう。すぐにとびらを開けてくれた。

 そして、うやうやしく頭を下げてむかれたその直後、後に続いたそれを見て、こおりついていた。


「ステファン氏は?」


 声をかけると、変な姿勢のまま固まったルイスは、目だけを動かしてこちらを見る。少しでも動いたら食い殺されると思ったのかもしれない。


「こちらなら、だいじようです」


 やわらかくほほんで、オオカミ姿のミューリの頭をでる。ミューリはぐるぐるとのどおくおそろしいうなり声を上げつつ、犬のように尻尾しつぽって頭を下げている。

 そのみような様子に、ルイスは完全に飲まれていた。


「し、しつ室に……」

「ありがとう」


 礼を言って歩き出すと、ルイスはへたりんでいた。


『そんなにこわい?』


 やや傷ついた感じだったが、しやべるな、と頭をいておいた。

 広い商会内は、静まり返っていた。目と鼻の先でおおさわぎがひろげられているからそう感じるのか、教会との深い取引関係にあることを思い出されないように息をひそめているのか。


「さて、ここですね」


 昨日までは人でごった返していたしつ室の前のろうも、かんさんとしたものだ。とびらりようわきには石で作られたしよくだいを置くためのくぼみがあり、ぜいたくみつろうともされている。

 深呼吸をしてから、とびらをノックした。


「ステファンさん」


 しかし、返事がない。ミューリを見やると、ふんと鼻を鳴らされる。部屋の中にはいるらしい。


「ステファンさん、私です。トート・コルです」

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