ただ、すぐに返事を返せない。頭の中で思考が煮えたぎり、息もできなかった。
「寄付……天使と、天秤……デバウ、商会」
頭の中で、どんどん一枚の絵ができていく。
デバウ商会は教会と実利で繫がり、それ故に教会を支えているという。もしもその取引が、恐ろしく外聞の悪いものだとしたらどうだろう? 本来的にはただの取引であったのだとしても、見せようによっては違ったふうに見えるのだ。ミューリが言ったように、天使の絵ですら、強欲な悪魔のように見せることができる。
ステファンにそのことを示唆すれば、顔を真っ青にするに違いない。この雰囲気であれば、町の人々の怒りの矛先が向き、すべての取引を失い、それどころか暴徒から焼き討ちにされるかもしれない。それでもなお大司教を支えようとするだろうか?
そして、もしもデバウ商会の支えを取り除くことができれば、大司教も崩れるのではないか。たとえ教皇吏が勅許を持ってきていても、羊皮紙で剣を防げるわけではない。しかも、教皇のおわす御座からここまでは、恐ろしいまでの距離がある。自分が辻の絞首台にぶら下がるまでに助けに来てもらえなければ、教皇の権威などなんの意味もない。
剣と天秤の天使の絵が、三度、別の意味を帯びてくる。
命か、利益か。
やってみるべきだ。
ハイランドはああ言ってくれたが、ハイランドを見殺しにすることなんてできない。諦めの悪さでは、聖職者は商人をもしのぐことを思い出す。なぜなら、自分たちは誰も見たことのない神様に会うために、生涯を苦行に費やすことだって厭わない連中なのだから。
『兄様』
名を呼ばれてそちらを見れば、赤い目が呆れるように細められている。
『怖い顔してる』
「ちょっと、考え事を」
『兄様の慌てる顔もだけど、怒ったような顔も、好きだよ』
狼の顔で言われてなお、やや恥ずかしい。それに、すぐに思い当たる。
「ミューリ、あなたはもしかして、私をわざと怒らせてたんですか?」
ミューリは尻尾でこちらの後頭部を叩くだけで、返事をしなかった。
「まったく……ですが、あなたのその我儘なところもたまには役に立つようです」
『へえ?』
「買い食いがなければ、気がつかないままだったかもしれませんから。なるほど、たまには本から顔を上げて町に繰り出すべきですね」
ぽかんとした様子に、狼の顔も表情が豊かなのだと知る。
「それに、あなたが見聞きしてきた町のことです。旅は一人よりも二人、というのは本当のようです。私が世界の半分の半分しか見えていなければ尚更だ」
立ち上がり、言った。
「ハイランド様を助けるために、まだできることがあります。私たちの理想のために、まだ戦うことができる」
『え~……』
と、残念そうに言いながらも、馬が嫌そうに顔を背けるくらい、毛に活力をみなぎらせている。
「時間がありません。ホロさんのように人を乗せられないと言いましたが、あれは本当ですか?」
ミューリは目を細めて、にやりと笑ったのだった。
冷たい空気が、刃のように耳を削っていく。対して、強靭な銀の毛皮に触れている個所は汗をかくほどに熱い。ミューリの背中にしがみついて、田園地帯をあっという間に抜け、うらびれた住宅の隙間の路地に速度を殺さずに飛び込んでいた。木箱、野良犬、洗濯もの、仕事に使うのだろう荷車などが塞ぐ道を、ありえないほどの勢いで駆け抜けていく。角を曲がる時などは大きく跳んで、壁を走っていたような気がしたが、深く考えないことにした。ミューリならば大丈夫、と信じられたからだ。
ようやく速度が落ちると、デバウ商会の商館までもう一区画、というところまで来ていた。広場までも遠くなく、ものすごい喧騒が地鳴りと雷鳴のように轟いてくる。人々が広場で騒いでいる間は、ハイランドも無事だろう。
背中から降りると、ミューリは大きく口を開け、湯けむりよりも白い息を吐いていた。
「大丈夫ですか?」
『もっと走っていたいくらい』
「……ここからニョッヒラは、ちょうどいい距離なのでは?」
ぎらりと牙を向けられると、なかなか迫力がある。
「あなたはこの辺りで身を隠していてください」
『へえ』
当然、それは素直な返事などではない。そういうこと言うんだ、と冷たく赤い目がこちらを見据えている。
「冗談ですよ」
ミューリは鼻先で小突いてくる。
『兄様、なんか悪そうな雰囲気。なにか企んでる?』
「いいえ。ただ、ステファンさんが悪いことをしているんだ、と思わせるにはどうしたらいいのかと考えていました」
『どうするの?』
その問いに、どこから見ても聖職者に見える旅の外套を手で払った。
「あなたやハイランド様が教えてくれましたよ。堂々とそう宣言したら、そう見えるんだって」
『うん?』
小首を傾げるミューリに、計画を耳打ちする。
ミューリはたちまち牙を剝き、尻尾を振った。
「どう思いますか?」
『真面目な兄様に、ぴったりな噓だと思う』
いいや、噓ではない。
相手が勝手に勘違いしてくれるように振る舞うだけ。
そう思い、ふとミューリに毒されているような気がしてきたのだが、悪い気はしなかった。
デバウ商会の裏口を叩くと、誰何された。
「お世話になっているトート・コルです」
扉の覗き窓が開けられ、見おぼえるのある顔が現れた。ルイスだ。ルイスは険しい顔で覗き窓からこちらを見ていたが、一転、ほっとしたものになった。大騒ぎの広場にほど近いので、騒ぎに乗じた盗みか、あるいは焼き討ちなどを警戒しているのだろう。
「おかえりなさいませ。御無事でなによりです」
自分たちが捕らえられ、幽閉され、そこを逃げ出してきたことなど、ルイスはあずかり知らないだろう。すぐに扉を開けてくれた。
そして、恭しく頭を下げて迎え入れたその直後、後に続いたそれを見て、凍りついていた。
「ステファン氏は?」
声をかけると、変な姿勢のまま固まったルイスは、目だけを動かしてこちらを見る。少しでも動いたら食い殺されると思ったのかもしれない。
「こちらなら、大丈夫です」
柔らかく微笑んで、狼姿のミューリの頭を撫でる。ミューリはぐるぐると喉の奥で恐ろしい唸り声を上げつつ、犬のように尻尾を振って頭を下げている。
その奇妙な様子に、ルイスは完全に飲まれていた。
「し、執務室に……」
「ありがとう」
礼を言って歩き出すと、ルイスはへたり込んでいた。
『そんなに怖い?』
やや傷ついた感じだったが、喋るな、と頭を小突いておいた。
広い商会内は、静まり返っていた。目と鼻の先で大騒ぎが繰り広げられているからそう感じるのか、教会との深い取引関係にあることを思い出されないように息を潜めているのか。
「さて、ここですね」
昨日までは人でごった返していた執務室の前の廊下も、閑散としたものだ。扉の両脇には石で作られた燭台を置くための窪みがあり、贅沢な蜜蠟が灯されている。
深呼吸をしてから、扉をノックした。
「ステファンさん」
しかし、返事がない。ミューリを見やると、ふんと鼻を鳴らされる。部屋の中にはいるらしい。
「ステファンさん、私です。トート・コルです」