彼らも当然、ハイランドと運命を共にしたいと願い出たが、ハイランドは一蹴していた。護衛の数人以外残すつもりはないようだった。おそらく、なにを言っても絶対に聞かない、と彼らにもわかっていたのだろう。
自分たちを運んできた荷馬車が厩に残っていたので、やや狭いが御者台も使えば全員が分乗できた。御者台に座る者は、気絶させ縛り上げた町の兵士の服を拝借し、変装していた。そうすれば、この時間に市壁を抜けようとしても見咎められはしないだろう、ということだろう。しかしすでに市壁に向かったミューリが、今頃見張りの者たちを蹴散らしているはずだった。
丘の頂点に位置する町の中心部は、いよいよ真っ赤に輝いている。
蠟燭も、燃え尽きる瞬間が最も明るいという。時間はない。
「では、ハイランド様……またお会いできる日を……」
「ああ、楽しみにしている」
ハイランドは厩の前で、部下たちが乗る馬車を笑顔で見送った。
そして、厩に繫がれていた馬を一頭引き連れ、屋敷の入り口に連れてくる。
「君も行くんだ」
否と言える理由がないことが、あまりにも辛かった。
「聖典の翻訳版は君の頭に入っているはずだ。教皇側の連中をぜひ苛立たせてくれ」
ペンとインクさえあれば、いくらでも翻訳版は再現できる。ハイランドの意志を繫ぐことはできる。
「さあ」
ハイランドはこちらの手を摑み、無理やりに手綱を握らせると、踵を返した。町の兵士の服を着込んだ護衛の者たちといくつか言葉を交わし、一人だけひらりと馬に飛び乗った。こちらを少しも振り返らない。ハイランドが馬の腹を蹴ると、護衛たちと共に駆けていく。
なんの余韻もなく、あっさりと道の向こうに消えた。
自分がぐらつかないための、ハイランドの最後の気遣いだろう。
『兄様』
ぬっと銀色の獣が陰から現れ、驚いた馬が逃げようとする。手綱を引っ張られて、我に返った。
市壁で一仕事を終えてきたミューリが、大きな鼻を顔に摺り寄せ、首を擦りつけてくる。それでも動かずにいたら、ミューリはおもむろに言った。
『私たちもニョッヒラに帰ろう?』
見やれば、ミューリの赤い目は悲しそうだった。
ハイランドを助ける術は、どこにもないのだとその目が言っていた。
神はその忠実な僕に手を差し伸べてはくれないのだ。
「私は……なぜ、こうも無力なのでしょうか」
胸元の教会の紋章を握りしめ、手のひらに食い込むほど力を込め、溢れ出そうになる涙を堪えた。自分には紙の上の知識しかなく、ミューリのような力も、ハイランドのような崇高さも、かつて目の当たりにした大冒険の主役である、ホロやロレンスたちのような才もなかった。
ただの一人の、理想的な世界を思い描く夢追い人でしかなかった。
「なぜ、なぜ……!」
うめき、嗚咽を漏らした瞬間だった。
ものすごい衝撃を腹にくらい、天と地がひっくり返った。
突然のことに痛みすら感じず、目を見開いていると、視界に牙だらけの口が現れた。
『兄様は神様になりたいわけ?』
自分のことを見下ろすミューリが、涙でぼやけていた。
『ハイランドは、兄様にもきちんと感謝してたよ。兄様は居心地悪そうだったけど、あいつが兄様のことをやたら褒めてたのは、あれ、本気だったと思うな。翻訳の作業に夢中だった時も、あいつはちょくちょく私に兄様の様子を聞いてきたもの。それで、自分も頑張らなきゃって笑ってたし、兄様みたいな人と出会えたのは、神の思し召しだって言ってた』
全然知らなかった。
『だから、兄様は、兄様が私に語ってくれたことを、きちんとやれてたよ。この世で支えとなるものを見つけられない人に、それをもたらしてた。それって、立派な聖職者じゃない?』
ハイランドの名を初めてまともに呼んだミューリは、鼻先でこちらの頰を小突く。自分自身の言葉を、こちらの頭に無理にでもねじ込むかのように。
『それに、無力なのは兄様だけじゃない。母様はね、私に言ったことがあるよ。大きな牙と爪があろうとも、どうしようもないことがたくさんある。だから、大切な誰かを見つけろって。あいつは見つけたんだよ』
右前脚の掌が、どすんと胸を押し潰す。
「ぐふっ!?」
『私はその誰かから、振られたけど』
ぐりぐりとねじ込むように押され、本気で息ができない。ミューリの前脚を摑むと、ようやくどけてくれた。
『ニョッヒラは外の世界より単純だし、温かいお湯もあるよ』
ニョッヒラで生まれ育ったミューリが言うと、あまりにも説得力があった。
『兄様』
その最後の一言は、優しい口調ではなかった。
そして、その言葉に応えなければ、ミューリを傷つけることになるともわかっていた。ミューリのような素晴らしい娘の恋心を振った男は、せめて立派な人物でなければならない。
起き上がり、服についた土を払う。その際、手に握っていた教会の紋章の紐がちぎれていたことに、ようやく気がついた。
『……』
ミューリの視線を感じ、苦笑する。
「捨てませんよ」
『なんだ、残念』
神の教えを捨てれば、禁欲の誓いも守る必要がなくなる。
とはいえ、教会の紋章を投げ捨てたら、きっとミューリは怒るか悲しむかするだろう。
「戻りましょう。私には、あなたを守って無事にニョッヒラに返す義務がある」
『へ~、私を守るの?』
ミューリは嬉しそうにこちらの腰の辺りを大きな鼻で突いてくる。
それをいなしながら、紋章をしまうために服をまさぐり、出てきた財布を手に取った。
「貨幣と一緒にしまったら、罰が当たりそうですが……」
『そんなことないでしょ。むしろ喜ぶと思うな』
「あなたはまたそんなことを……」
『ええ? だって、教会はたくさんお金集めてるでしょ? 手伝いで教会の中にも入ったけど、寄付箱には小銭がぎっしりだったよ。商会にも天秤持ってる天使の絵があったし』
デバウ商会の連絡員に出会った時も、片手に聖典、片手に天秤だなどと言われた。デバウ商会の面々が気に入っている題材なのかもしれない。
「前にも言いましたが、あの天秤は公平を表すものです。剣は正義ですね」
『ふーん? 私は、町の人から税金を搾り取るための装備かと思った』
剣で脅し、天秤で貨幣を計る。とんでもない不敬だと思ったが、理解できてしまうのが困りもの。同じ一枚の絵でも、色々に解釈ができるものだ。
それに、教会の寄付箱にたっぷりのお金が詰まっている様は、確かに見た目は良くないかもしれない。だが、教会はそのお金を使い、様々な慈善をなしたり、聖務をなしたりしているはずなのだ。集まったお金は、再び町に還流されているはず。だから、見た目だけで判断しては……と思って、ふと気づいた。
集めたお金を町に還流?
なにか、どこかでそれに反する話を聞いた気がした。
『兄様?』
また立ち止まって考え込んでしまっていたのか、ミューリの声で我に返る。
そして、思い出した。天秤だ。
「両替商……」
『え?』
ひとつのことに気がつくと、一斉にあらゆることが繫がり出す。そもそも、自分がニョッヒラを飛び出したのも、教皇が金に汚いことが許せなかったからだった。
ぐらりと視界が揺れ、気がついたらミューリが下敷きになってくれていた。
『兄様? ごめん、さっきどこか打ったの?』
脇腹で受け止めてくれたらしく、尻尾と首の毛の両方で心配そうに挟まれる。