第四幕 ⑧

 かれらも当然、ハイランドと運命を共にしたいと願い出たが、ハイランドはいつしゆうしていた。護衛の数人以外残すつもりはないようだった。おそらく、なにを言っても絶対に聞かない、と彼らにもわかっていたのだろう。

 自分たちを運んできた荷馬車がうまやに残っていたので、ややせまいがぎよしや台も使えば全員が分乗できた。ぎよしや台にすわる者は、気絶させしばげた町の兵士の服を拝借し、変装していた。そうすれば、この時間にへきけようとしてもとがめられはしないだろう、ということだろう。しかしすでにへきに向かったミューリが、いまごろ見張りの者たちをらしているはずだった。

 おかの頂点に位置する町の中心部は、いよいよ真っ赤にかがやいている。

 ろうそくも、きるしゆんかんが最も明るいという。時間はない。


「では、ハイランド様……またお会いできる日を……」

「ああ、楽しみにしている」


 ハイランドはうまやの前で、部下たちが乗る馬車をがおで見送った。

 そして、うまやつながれていた馬を一頭引き連れ、しきの入り口に連れてくる。


「君も行くんだ」


 いなと言える理由がないことが、あまりにもつらかった。


「聖典のほんやく版は君の頭に入っているはずだ。教皇側の連中をぜひいらたせてくれ」


 ペンとインクさえあれば、いくらでもほんやく版は再現できる。ハイランドの意志をつなぐことはできる。


「さあ」


 ハイランドはこちらの手をつかみ、無理やりにづなにぎらせると、きびすかえした。町の兵士の服をんだ護衛の者たちといくつか言葉をわし、一人だけひらりと馬に飛び乗った。こちらを少しもかえらない。ハイランドが馬の腹をると、護衛たちと共にけていく。

 なんのいんもなく、あっさりと道の向こうに消えた。

 自分がぐらつかないための、ハイランドの最後のづかいだろう。


『兄様』


 ぬっと銀色のけものかげから現れ、おどろいた馬がげようとする。づなを引っ張られて、我に返った。

 へきで一仕事を終えてきたミューリが、大きな鼻を顔にり寄せ、首をなすりつけてくる。それでも動かずにいたら、ミューリはおもむろに言った。


『私たちもニョッヒラに帰ろう?』


 見やれば、ミューリの赤い目は悲しそうだった。

 ハイランドを助ける術は、どこにもないのだとその目が言っていた。

 神はその忠実なしもべに手をべてはくれないのだ。


「私は……なぜ、こうも無力なのでしょうか」


 むなもとの教会のもんしようにぎりしめ、手のひらにむほど力をめ、あふそうになるなみだこらえた。自分には紙の上の知識しかなく、ミューリのような力も、ハイランドのようなすうこうさも、かつて目の当たりにした大ぼうけんの主役である、ホロやロレンスたちのような才もなかった。

 ただの一人の、理想的な世界をおもえがく夢追い人でしかなかった。


「なぜ、なぜ……!」


 うめき、えつらしたしゆんかんだった。

 ものすごいしようげきを腹にくらい、天と地がひっくり返った。

 とつぜんのことに痛みすら感じず、目を見開いていると、視界にきばだらけの口が現れた。


『兄様は神様になりたいわけ?』


 自分のことを見下ろすミューリが、なみだでぼやけていた。


『ハイランドは、兄様にもきちんと感謝してたよ。兄様は居心地悪そうだったけど、あいつが兄様のことをやたらめてたのは、あれ、本気だったと思うな。ほんやくの作業に夢中だった時も、あいつはちょくちょく私に兄様の様子を聞いてきたもの。それで、自分もがんらなきゃって笑ってたし、兄様みたいな人と出会えたのは、神のおぼしだって言ってた』


 全然知らなかった。


『だから、兄様は、兄様が私に語ってくれたことを、きちんとやれてたよ。この世で支えとなるものを見つけられない人に、それをもたらしてた。それって、立派な聖職者じゃない?』


 ハイランドの名を初めてまともに呼んだミューリは、鼻先でこちらのほおく。自分自身の言葉を、こちらの頭に無理にでもねじむかのように。


『それに、無力なのは兄様だけじゃない。母様はね、私に言ったことがあるよ。大きなきばつめがあろうとも、どうしようもないことがたくさんある。だから、大切なだれかを見つけろって。あいつは見つけたんだよ』


 右前あしてのひらが、どすんと胸をし潰す。


「ぐふっ!?」

『私はそのだれかから、られたけど』


 ぐりぐりとねじむようにされ、本気で息ができない。ミューリの前脚をつかむと、ようやくどけてくれた。


『ニョッヒラは外の世界より単純だし、温かいお湯もあるよ』


 ニョッヒラで生まれ育ったミューリが言うと、あまりにも説得力があった。


『兄様』


 その最後の一言は、やさしい口調ではなかった。

 そして、その言葉に応えなければ、ミューリを傷つけることになるともわかっていた。ミューリのようならしいむすめこいごころった男は、せめて立派な人物でなければならない。

 起き上がり、服についた土をはらう。その際、手ににぎっていた教会のもんしようひもがちぎれていたことに、ようやく気がついた。


『……』


 ミューリの視線を感じ、しようする。


「捨てませんよ」

『なんだ、残念』


 神の教えを捨てれば、禁欲のちかいも守る必要がなくなる。

 とはいえ、教会のもんしようを投げ捨てたら、きっとミューリはおこるか悲しむかするだろう。


もどりましょう。私には、あなたを守って無事にニョッヒラに返す義務がある」

『へ~、私を守るの?』


 ミューリはうれしそうにこちらのこしの辺りを大きな鼻でいてくる。

 それをいなしながら、もんしようをしまうために服をまさぐり、出てきたさいを手に取った。


へいいつしよにしまったら、ばちが当たりそうですが……」

『そんなことないでしょ。むしろ喜ぶと思うな』

「あなたはまたそんなことを……」

『ええ? だって、教会はたくさんお金集めてるでしょ? 手伝いで教会の中にも入ったけど、寄付箱にはぜにがぎっしりだったよ。商会にもてんびん持ってる天使の絵があったし』


 デバウ商会のれんらく員に出会った時も、片手に聖典、片手にてんびんだなどと言われた。デバウ商会の面々が気に入っている題材なのかもしれない。


「前にも言いましたが、あのてんびんは公平を表すものです。けんは正義ですね」

『ふーん? 私は、町の人から税金をしぼるための装備かと思った』


 けんおどし、てんびんへいを計る。とんでもない不敬だと思ったが、理解できてしまうのが困りもの。同じ一枚の絵でも、色々にかいしやくができるものだ。

 それに、教会の寄付箱にたっぷりのお金がまっている様は、確かに見た目は良くないかもしれない。だが、教会はそのお金を使い、様々なぜんをなしたり、聖務をなしたりしているはずなのだ。集まったお金は、再び町にかんりゆうされているはず。だから、見た目だけで判断しては……と思って、ふと気づいた。

 集めたお金を町にかんりゆう

 なにか、どこかでそれに反する話を聞いた気がした。


『兄様?』


 また立ち止まってかんがんでしまっていたのか、ミューリの声で我に返る。

 そして、思い出した。てんびんだ。


りようがえ商……」

『え?』


 ひとつのことに気がつくと、いつせいにあらゆることがつながり出す。そもそも、自分がニョッヒラを飛び出したのも、教皇が金にきたないことが許せなかったからだった。

 ぐらりと視界がれ、気がついたらミューリがしたきになってくれていた。


『兄様? ごめん、さっきどこか打ったの?』


 わきばらで受け止めてくれたらしく、尻尾しつぽと首の毛の両方で心配そうにはさまれる。

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