突然の質問に面喰らったが、ハイランドは自分の知らないなにかを知っているらしい。
「屋敷内に兵がいないのは、皆が町の中心部に向かっているからだ。デバウ商会の者もまだ来ていないだろう? それどころではないからだ。そこで転がっている者からは、町の者たちのために、ウィンフィール王国の賛同者の名前を出せと言われたよ」
振り向くと、ミューリも扉の脇で気絶している兵をちらりと見る。
「町では、翻訳版の聖典を手に、教会を非難する人々が大挙して広場に繰り出しているそうだ。説得して回った職人組合や商業組合の者たちが、予定どおりに立ち上がってくれたのだろう。配下の気の荒い職人たちの焚きつけ方には、やや苦々しいものもあったが、あの赤々とした火は、その怒りの火だ」
この部屋からでも見える。丘の上の町は、くっきりと燃え上がっている。
同時に、犬に司祭服を着せて冒瀆するようなことを、ハイランドが画策していなかったことにほっとした。自分の見立てに誤りはない。ハイランドこそ、人の上に立ち、正しさを導く人物だ。
「人数的には町の人々のほうが多いから、当初は優勢に進むだろう。しかし、勢いだけで騒ぐ者たちは統制された兵たちに絶対に勝てない。膠着し、特にこれといった展開もないとわかると、息切れが起きる。明日の仕事があるから、という理由だけで蜂起を途中で切り上げる農民や日雇い人夫を過去に何度も見てきた。その緊張の緩みに兵の主力が投入されれば、一気に崩れる。何人かが見せしめに捕らえられ、明日には辻にぶら下がる。お決まりの流れだ」
ハイランドは貴族であり、領地を抱える身。民衆の蜂起とその結末がどうなるのかは、よく知っているのだろう。
「多くが酒と雰囲気に煽られて騒ぐ者たちだが、それでも少なくない数の人々が、本気で抗議しているはずだ。大義は我々にある。人々はまっすぐに、純粋に信じられる神の教えを切に求めている。だが、今の騒ぎが制圧され、隣人が辻の処刑台の上で朽ち果てていくのを見れば、こう思うだろう。ハイランドさえ、ウィンフィール王国の奴らさえ来なければ、と」
そして、これまでどおりの生活が続く。なにも変わらず、少しずつ悪弊が降り積もり続けるような毎日が。
「人々はおそらく、教会にまだ私がいて、大司教とやり合っていると信じている。その一助足らんとして拳を突き上げている。その場に私がおらず、とっくに逃げ出していたと知らされたら、一体誰がこの後、我々の言うことを信じるだろう?」
「ですが」
「いいか、私が行けば、大司教や教皇吏は、民衆は私に唆されたと言うことができる。大司教も町の者相手には、苛烈な措置は極力避けたがっているはずだ。これからも町の名士であり続けたいと願っているはずだからな。だから、私だ」
ハイランドは、言った。
「私があの場に赴き、大司教を糾弾しなければならない。この騒ぎの首謀者は私だと見せなければならない。せっかく助けてもらって、悪いのだが」
最後に冗談めかして、そんな言葉を付け加えた。もちろん、欠片も笑えない。
「次は殺されますよ」
教皇側はすでに異端の勅許を出し、宣戦布告をしている。ハイランドが民衆の先頭に立てば、もはや灰色の決着はあり得ない。大司教がハイランドの要求を受け入れて教皇と対立するか。さもなくば、ハイランドを殺し、教皇側は断固譲歩しないと世間に知らしめるかしかない。
ハイランドが現れれば、民衆の怒りは行くところまで行かなければ収まらないだろう。
「私が説得で勝てるとは思わないのかな?」
ハイランドは笑っているが、なにも言葉を返せない。ただ、首を横に振ることしかできなかった。その果敢な行動力を、考えを収める方に向けられないものかと祈るように。
「確かに、教皇吏が来た今、もう一つ、二つ、なにか後押しが欲しいところだが……なに、このまま拷問でも受けて、苦しみ続けるよりかはだいぶましさ。少なくとも、私は私の命の始末を自分の意志でつけられる。その後のことも、兄弟は嫌な奴らばかりだが、好機を生かす腕だけは信用できる。さぞ大袈裟に哀しみ、追悼し、私の死を利用してくれるはずだ」
なんの気負いもなく言ってのける。ハイランドがどんな生活をしてきて、どんな想いで聖典を開いていたのかと思うと、胸が痛んだ。
そして、ハイランドはそんな自分の顔を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「さあ、事は早く進めよう。どうせ、教会前ではすでに私が逃げたと言い触らされているだろう」
「なら、私も──」
思わず身を乗り出して言ったところに、ハイランドは長い腕でこちらの胸を押した。
余りに不意のことで、よろめき、後ろ向きに倒れ、柔らかくも力強い毛皮にぶつかった。
受け止めてくれたミューリが、こちらの肩越しにハイランドに唸る。
「神の遣いにきちんと聞いたのか? 行ってもいいかと」
ミューリの大きな赤い目が、じろりとこちらを見る。
「その狼ごと来てくれたとしても、大変な騒ぎに拍車がかかるだけだろう。次はそこの兵士のようにうまく気絶させるだけでは済まない。人を殺す覚悟と、殺させる覚悟が必要だ。それでも自分の身を守れるかは、五分五分だろう。コル、私は君が血で汚れるのを望まないし」
その綺麗な毛皮が汚れるのも忍びない、と言った。
ミューリはなにも言わず、じっとしている。ハイランドを静かに、見つめている。
自分にはなんの発言も望まれていないと、痛いほどわかった。
そして、ハイランドは困ったように笑う。
「コル、苦しませてすまない」
「そんなこと……そ、そうです、今こそデバウ商会のステファンさんに頼み、ハイランド様の手伝いをするようにと──」
「コル」
まるで自分がミューリを諭す時のようだった。
「残念だが、デバウ商会のステファンは大司教の味方だった。大司教が勅許状のことを事前に知っていたのは、デバウ商会の快速船が情報をもたらしたからだと、そこで寝ている者が教えてくれた。だから、助けは期待するな、と凄んできたよ」
脳裏をよぎったのは、ミューリが昨日港で見たという、トンボのような船の話だ。日が暮れかけたところに、無理やり港に入ってきて、働いている者たちは難儀したと言っていた。
「おそらく、大司教となんらかの密約があって、特権かなにかを享受しているのだろう。町のほとんどの者が敵対しているのに、唯一協力するからには、なにか実利が絡んでいるはず。だから、協力はあり得ない。むしろ、配下の人員を使って各組合の長に騒ぎを沈めろと圧をかけていたっておかしくない。教会に味方するべき建前を並べ立て、言うことを聞かなければこの先取引をしなくなるぞ、と言われれば職人たちは弱い。せいぜい、君たちを見逃してくれるのが関の山ではなかろうか。ああ、それから。馬鹿なことは考えないように。彼らは君たちがどこから来たのかを知っている。下手に動いて、ニョッヒラに災いが及んでもいいのか?」
「っ……」
言い終えると、ハイランドは深呼吸をして、ミューリに微笑みかけた。
「この、今時珍しい純粋な神の僕を、頼んだよ」
『ヴォフ』
いかにも狼らしくミューリが吠えると、ハイランドは嬉しそうにした。
「君たちに出会えた幸運を、神に感謝する」
屈託のない、優しげな笑顔だった。
ミューリをあまり人目に晒すのはまずいので、自分とハイランドで手分けして屋敷の部屋を回り、ハイランドのお供たちを解放した。集めてみると、その少なさに改めて気がつく。
ハイランドがお供を連れてぞろぞろ歩く性格ではないにしても、信用できる人物がそもそも少ないのだ。