なんとなく恥ずかしくて、咳払いをしてしまう。
「それに、聖職者は元々狼を恐れません。古の聖人ヒエロンは、凶暴な狼の足に刺さっていた棘を抜いたことで暴れる狼を沈め、以来、牧畜と狩りの守護聖人になりました。絵に描かれる時は、いつも狼と一緒です」
『兄様はその理屈っぽさが玉に瑕だね』
ばふ、と尻尾で顔を叩かれた。
『商会にある私の服はどうしよう』
「げほっ……服、ですか? 後で手紙を出しておきますよ」
『まあ、もういいんだけど。見せたい相手はいなくなっちゃうし』
恨みがましい目つきを向けられ、恐縮するしかない。
『冗談だよ。兄様が悪いわけじゃないもの』
では誰が悪かったのだろう?
その問いを跳ね返すかのように、ミューリは体をぶるぶるさせた。
そして、憂さ晴らしのように格子戸に嚙みつく。
『ぐうぅぅぅ……』
地を這うような独特のうめき声と共に木の軋む音がして、柔らかいチーズさながらに格子戸がひしゃげていく。
『ふんっ』
最後に首を横に振ると、めき、とも、ばき、とも聞こえる音を立てて、蝶番がはじけ飛んで格子戸が外れた。ミューリは前足で口についた木片を取ってから、ちらりとこちらを見る。
『褒めてくれないの?』
「すごいです」
『それだけ?』
そう言って、大きな体をのっしのっしと近づけてきて、ごわごわの首筋の毛を擦りつけてる。撫でろ、ということなのだろう。見た目は恐ろしい狼でも、中身はいつものミューリのまま。それに、大きいとは言っても現実的な大きさなので、町を連れて歩ける気がしないでもない。一瞬、ミューリを側に控えさせ、聖典を片手に説教する自分の姿を思い描いてしまう。
そんな空想をかき消すように、わしわしと手で毛を搔いた。
「綺麗な毛並みですね」
なんの気なしに言ったら、ミューリは赤い目をこちらに向けて、牙を剝く。
嬉しそうに笑ったのだとわかった。
「残りもお願いします」
『任せてよ』
尻尾を一振りすると、大きな体にも拘らず、足音ひとつ立てずに流れるように廊下に出る。日が落ちて廊下が暗いので、その様子に余計に現実味がない。
ミューリは床の匂いを嗅ぎ、迷いもなく歩いていく。
そして、突然走ったかと思うと廊下の先の角を曲がり、直後に悲鳴が一瞬だけ聞こえた。
すぐに静かになり、ミューリが戻ってくると、その口には鍵束を咥えていた。
「……相手は?」
『おいしかったよ』
思わず口元に血が付いていないか見てしまう。
『出会いがしらに顔を舐めただけ。さっきの音を聞きつけて確認しに来たみたい』
いきなり暗闇でこんな狼と出くわして顔を舐められたら、屈強な傭兵だって気を失うだろう。
『屋敷の中には、ほとんど兵の人がいないね。どこ行ったんだろう』
顔を上げて、大きな鼻をひくひくとさせる。
『あの金髪は上の部屋かな』
地下だと言われず、ほっとした。なんとなくだが、拷問は地下で行われる印象がある。
「では、そちらに」
頭を低くし、静かに、素早く進むミューリの後を追いかける。迷いなく進むので本当に大丈夫なのかとはらはらしたが、確かに廊下には誰もおらず、屋敷内は静かだ。階段を上っていると、悲鳴ともうめき声とも聞こえるくぐもった声が頭上から聞こえ、また静かになる。階段を上りきると、廊下で兵が白目を剝いて倒れていた。側に火がついたままの蠟燭と手持ちの燭台が転がっていたので、蠟燭を燭台に立て直して持っていくことにした。
ミューリはすでに廊下の先、とある一室の前で腰を下ろしている。
明かりに照らされると、尚更置物のように見えた。
──ここですか?
囁くように言って、扉を指差す。肯定なのか、尻尾が大きく持ち上げられて、ぱたりと下ろされる。扉に耳を当てると、中から人の声が聞こえてきた。尋問されているのだろう。
──扉をノックするので、出てきたところをお願いします。
ミューリは返事の代わりにすっくと四足で立ち、いつでも飛びかかれるように前傾姿勢になる。そして、ノックをしようとしたが、ふとその手を止めた。ミューリが、怪訝そうにこちらを見上げてくる。
──ハイランド様があなたを見て驚くかもしれません。
ミューリは、じっと次の言葉を待つ。
──ですが、あなたの名誉は必ず私が守ります。
赤い瞳がゆっくりと閉じられ、再び前傾姿勢になる。
大きく息を吸って、扉をノックした。
「大変です! 御報告が!」
さらにノックし、急の報を装った。数瞬、躊躇うような雰囲気が扉の向こうで感じられたが、もう一度扉をノックすると人が椅子から立ち上がる音がした。そして、扉の閂が外されたその瞬間、こちらから力の限りに扉を開けた。
「っ!」
すべては一瞬のことで、煙のようにミューリが部屋に入り込んだかと思うと、すでにその兵士はミューリの大きな掌の下だった。
「ハイランド様」
ミューリの脇をすり抜けて部屋に入ると、茫然としていたハイランドがびくりと我に返っていた。
「コ、コル?」
「御無事で。助けに参りました」
中心に簡素なテーブルがあるだけの、殺風景な部屋だった。ハイランドは縛られていることもなく、テーブルにはひとつの甕と、二つのコップが置かれていた。
「私は、幻を見ているのか?」
ミューリは扉の脇におとなしく鎮座している。蠟燭の灯りのせいで影が濃く、精巧な絵のようにも見える。
「神が我々に遣わされたのです」
堂々と言えば、それが真実になる。ハイランドも、そうなのか、とばかりにうなずいて、呆けたように椅子から立ち上がっていた。しかし、そこは勇敢で聡明な人物だ。驚きが去ればミューリのことを恐れることもなくじっと見つめ、なにかに気がついていた。
「その赤い目……」
ひやりとしたが、ハイランドは頭を振った。
「いや、問うまい。我がウィンフィール王国も、建国の際は黄金の羊に導かれたのだ」
牧羊が盛んなウィンフィール王国には、全身を黄金の毛に覆われた巨大な羊の伝説がある。
その羊にかつての旅で出会ったことがあると言ったら、ハイランドは笑うだろうか。
「それに、私はろくでなしどもに囲まれて育ったからね。目を見れば大抵のことがわかる」
ハイランドは恐れもなくミューリに近づき手を伸ばした。
「良い目だ」
ミューリは少し照れるように頭を下げ、ハイランドが毛皮に触れるのを許していた。
「さて、奇跡が我が身に起きた。使命を果たせと神が仰せだ」
「鍵はあります。お仲間を連れて町から出ましょう。それから、どこかの町で船を仕立て……」
と、言葉の途中で口を閉じたのは、ハイランドの表情のせいだった。
奇跡が起き、逃げられる、という喜びに満ちた顔ではない。
悲壮な決意に彩られていた。
「私はこの町を出られない。君たちと、部下で逃げてくれ。私の家に尽くしてくれた気の良い者たちばかりだ」
「それは、あの、ハイランド様、なぜですか」
「さっきの部屋からここまで来る間に、何人の兵とすれ違った?」