人生は旅であり、旅は出会いと別れの連続なのだから。
「その……ハイランド様の話では、デバウ商会のステファンさんが私たちを引き受けにくるということでした。その時に、どうにか掛け合うしかないでしょう」
「自信は?」
冷たく聞いてくるが、熱い涙と共に縋られるよりかはましなのかもしれない。
「ありません。デバウ商会は商人の集まりです。こちらから渡せるものがなければ、交渉には応じてくれないでしょう」
「あの金髪を助けろ、でないと死んでやるって言うのは?」
「私もそのくらいしか思いつきませんが、できますか? 舌を嚙んで死ぬというのは、迷信だと聞いたことがあります」
短剣の類も持ってきていない。
「……そもそも、あの金髪のためにそんなことしたくない」
「ステファンさんも我々がハイランド様を助けたいと思っている、と簡単に想像できるでしょう。頑強に抵抗しても、麻袋に詰め込まれてニョッヒラまで運ばれるのが関の山だと思います。それで義理を果たしたと言うでしょう。どうにか、どうにか交渉に持ち込まないと」
デバウ商会は利潤を追求する組織だ。信仰や良心に訴えても無意味なのは目に見えている。
逆に、損得の話になれば食いついてくるのはわかっている。彼らはそのことにだけは、正直だった。
しかし、もちろん自分には儲け話も、財産もなにもない。
打つ手があるようには思えなかった。
「神よ……」
首から提げている教会の紋章を握りしめながら、うめくように言った。ミューリが無表情にこちらを見つめていたが、ここで神に悪態をつくようでは信仰のなんたるかを語れるはずもない。
大きく息を吸い直し、もう一度頭の中を洗いざらい検討しようとした時だった。
「あの金髪を助けるだけなら、助けられるよ」
無表情のまま、ミューリが言った。
「……それ、は?」
ミューリはため息をつき、もそもそと胸元をまさぐると、紐に繫がれた小袋を取り出した。
母親のホロから渡されたという、麦の詰まった袋だった。
「これがあれば、いざという時には兄様を助けられるって言ったでしょ?」
「まさか……」
ミューリの母親のホロは、麦に宿る狼の化身であり、少女と巨大な狼の姿を自由に行き来できる。だが、ミューリは狼に化けられなかったはず。
驚きの目を向けていると、ミューリはものすごく嫌そうに言った。
「すごい練習したんだから……うまくできないと、母様、本気で怒るし」
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす、と故事にもある。
狼でも同じなのかもしれない。
「けど、それもこれも兄様を守りたかったからで、あの金髪のためじゃない。いい? これは、兄様の夢のためにやるんだよ。兄様みたいなのは、夢破れたらきっと見てられないくらい落ち込んで憔悴するんだから。そんな陰気くさい奴がニョッヒラみたいな狭い村にいられたら困るの。それなら夢を追いかけて、遠い場所でへらへらしてくれてたほうがましなの。わかる?」
あからさまに恩着せがましく言ってくるミューリの顔は、必死に自分に言い聞かせているようにしか見えない。多分、夢見がちなミューリのことだから、奥の手はこんなことに使いたくなかったはずだ。もっと、自分たちが絶体絶命の危機に陥り、竜を相手に戦う騎士が囚われの姫を救い出すその瞬間に駆けつけるような、そんな場面で使うことを想像していたに違いない。
それでも、自分の手の中に道具があり、扉を開けられるとなれば、力を貸してくれるのだ。たとえその先に、自分の望まぬ結果が待っているのだとしても。
ミューリが自分のことを好いてくれていたのだと実感するのに、これ以上のことはない。
気丈に力を込め、なにかを堪えているようなミューリの赤い目を見つめ返し、言った。
「わかってます。ミューリ。本当に……本当に、ありがとう」
ミューリはなおも苦しげな顔をしていたが、ぷいっとそっぽを向いた。
「惚れ直しても……いいんだけど?」
ちらりと横目に見るその様は、本気なのか冗談なのかわからない。多分両方なのだし、冗談にするしかなかった。
「見直しはしました。あなたは我儘ばかりですが、人助けもできる優しい子なんだと」
「なにそれ!」
ミューリはわかりやすく怒り、わかりやすく悲しんでいた。しかし、耳と尻尾は出てこない。
自分の中で割りきってしまったのだろうとわかった。
自分もそうしなければならない。
「でも、戒めを解いて屋敷から連れ出したその後はどうするの? 皆で走って逃げるの? 私は母様みたいに人を乗せて走れないよ」
どうやら人を丸吞みにするような、巨大な狼になれるわけではないらしい。最良なのは海路でウィンフィール王国に逃げ込むことだが、船を調達するのは難しい。海峡を渡れるような船となると、動かすのにたくさんの人の力がいる。
悪魔憑きや、あるいは精霊と呼ばれる類の存在が世の中には思いのほかいるが、彼らが人の世に必死に適合しようとし、息を潜めて暮らしているのには理由がある。人の作り出した世は複雑で、もはや多少の腕力ではどうにもならないことが多すぎるからだ。
「できれば船で、ウィンフィール王国に渡りたいのですが」
「だったら、あの旦那様……じゃなかった、ステファンって人の尻にでも嚙みつく? きっと船を仕立てることくらいできるよ」
小僧たちはステファンのことを旦那様と呼ぶのだろう。
「いえ……脅して船を仕立てても、大司教や教皇吏に気づかれないはずがありませんし、気づかれればまずいことになります。ステファンさんにはなんの罪もありませんし、へたをすればデバウ商会の本体にまで問題が波及してしまうかもしれません。私たちを連れて来た馬車がこの屋敷にありますし、それで逃げましょう。ハイランド様の伝手があれば、どこかの町から船で王国に渡れるはずです。あなたのことは、ニョッヒラに手紙を出して、ホロさんかロレンスさんに迎えに来てもらいましょう」
「……わかった。じゃあ、とにかくここに囚われてる、あの金髪と仲間を助ければいいんだよね。おあつらえ向きに、日も暮れたことだし」
鉄格子の張られた木窓の向こうを見れば、ぼんやりと明るい町の中心と、影絵のように背の高い建物の輪郭が見える。
「お願いします」
「うん」
ミューリはホロから譲り受けたという小袋の口を開け、中から麦を取り出して口に含む。
苦い丸薬でも飲み込むかのように嚥下してから、ふとこちらを見た。
「兄様」
「なんですか?」
「……あっち向いてて」
恥ずかしそうだった。裸を見られるのはよくても、獣に変わるところは見られたくないらしい。もちろん否というわけもなく、後ろを向いて、律儀に目も隠した。
そして、ミューリが借り物の服を着たままであったことを思い出して、慌てて振り向いた時には、すでにそこに銀色の狼がいた。
『……いいよって言ってないんだけど。毛づくろいしたかったのに……』
お洒落にはうるさいミューリの赤い目が、じろりと睨んでくる。確かにホロよりかは小さいが、それでも森で見かける狼よりも一回りは大きい。後ろ足で立ち上がれば、簡単にこちらの背は越えてしまう。
「服を着たまま……と言おうとしたんですが」
『破いちゃったね』
ミューリの周りには、服が無残に散らばっている。
ホロから受け取ったという麦袋も落ちていたので、拾って胸元にしまっておく。
『けど、兄様が怖がらなくてよかった』
「ホロさんの狼姿を何度も見たことがありますし」
『知ってる。母様の尻尾が大好きだったって』