窮地に立たされている今、これ以上困ることなどなにがあるというのか。ハイランドは人質に取られ、教皇は聖典の翻訳を禁書とし、自分たちは牢にいる。このままでは神の教えは歪められたままになり、ニョッヒラに生きて帰れるかでさえ怪しいのだ。
だが、対峙するミューリはおよそ噓を言っているようには見えなかった。ミューリは確信している。頭を抱えていた腕を下ろし、肩が動くほど大きく息をしながら、こちらをゆるぎなく睨みつけている。全部お前のせいだ、と言わんばかりの怒りを込めて睨みつけている。
執務室で散々味わったものに似た沈黙が流れる。
それを牙で引き裂いたのは、ミューリだ。
「私は、兄様を、困らせたくない」
ゆっくり吐き出さないと、釣られてなにが喉の奥から出てくるかわからない。ミューリの喋り方は、それほどに堅い。
「だけど、私にだって……譲りたくないことが、ある」
普段から謙虚とは言えないミューリが、あえてそう宣言するのだから絶対にそうなのだろう。
しかし、このまま睨み合いを続けているわけにもいかない。なにがなんでもハイランドを助けなければならない。自分の夢のためにも、ハイランドのためにも、そして、神の教えを待っている人々のためにも。
大きく息を吸って、言った。
「聞きましょう」
付け加えたのは、ミューリに対する兄としての自負でもある言葉だ。
「たとえ困ったとしても、解決してみせます」
ざわざわざわ、とミューリの髪の毛が揺れる。
ミューリは声を出す直前、口の動きだけで、馬鹿、と言った気がした。
「あの金髪を助けたら、兄様は聖職者になるんでしょ?」
「そうです。あなたは前もそれで怒っていましたが、それのなにが……まさか」
と、気がついた。
「まさか、私が聖職者になることで、悪魔憑きと呼ばれる人々の敵に回るとでも?」
聖典の中には、預言者が悪魔と戦う話が何度も出てくる。自分はミューリに言ったではないか。なにがあろうとも、絶対にミューリの味方であると。
「私はそこまで融通が利かないわけではありません。それに、そもそもこの世はすべて神のお作りになられた被造物だと考えれば、生きとし生けるものすべてが神の愛の──」
「違う。全然、違う。そんなことどうだっていい。だって、だって、兄様が聖職者になったら」
ミューリはむくれ、目尻に涙を浮かべ、ついに耳と尻尾を露わにして、言った。
「……っできなくなるじゃない」
「え?」
「結婚! できなくなるじゃない!」
その叫びに、頭の中を全部吹き飛ばされた。
「……っ……えっ?」
呆気に取られたまま、尋ね返した。
「私が? ……誰と?」
その時のミューリの顔を、なんと表現したら良いのか、言葉が見つからなかった。
多分、ミューリもどうしたらいいのかわからなかったのだろう。
そして、ミューリのほうが冷静だった。格子の扉の向こう側の様子を窺ってから、ごしごし手で顔を擦ると、その熱の分だけ不機嫌そうな顔になって言った。
「ほら、だから言いたくなかったのに!」
今度は頭を抱えるのではなく、膝を抱えてそっぽを向く。唇を尖らせて、頰を膨らませて、尻尾がばしばしと床を叩いている。とはいえ、顔が真っ赤なのは怒っているのもあるだろうが、それ以上に恥ずかしいのだということくらいは気がついた、。それから、自分の、底抜けの間抜け具合にも。
「あの……」
「なにっ」
かんかんに燃え盛った石のように熱くなっている。
言葉を選ばないとと思っても、どうするのがいいのか皆目見当もつかなかった。
「ほ、ほん……いえ、その、いつ、から?」
本当に? と聞いたら喉笛を嚙みちぎられるかもしれない、と本能が教えてくれた。
すんでのところで、言い換えた。
「……知らない」
知るか馬鹿、と膝頭に口をくっつけながら付け加えた気がした。
ミューリが自分を慕ってくれていることは、当然わかっている。時折父親のロレンスが愚痴るくらい、懐いている。そんなミューリを可愛いと思うし、大切にしてきたのはそのとおりだ。それでも、そういう目で見たことは一度もなかった。
ただ、そう考えれば多くのことが腑に落ちた。禁欲の誓いをいじり、からかってくるのも、あの臭い木樽の中で我慢して、隠れて用意していたとっておきの服を見せたのも、そもそも、旅についていきたいと言い張ったのも、そうなのだ。ならばハイランドを敵視するはずだと思った。ハイランドは、外の世界からやってきて、自分を遠い世界に連れ去ってしまう存在なのだから。
そして、ミューリの警告どおりになった。自分の夢から言えば、想いに応えることは絶対にできない。同時に、ミューリを傷つけたくなかった。二つの事実に挟まれて、身動きができなかった。
大儀だなんだと言っていた自分が恥ずかしくなる。いざ目の前で個人的な問題が起こったら、それを大事の前の小事と切って捨てることなど到底できなかった。ミューリがハイランドの大義に対し、自分の恋心だけで立ち向かっていた気持ちが理解できた。それははっきりと、釣り合うものなのだ。
では、その釣り合った天秤をどちらに傾けるべきなのだろうか、という問題に立ち返った時、その手がかりすら自分の中にはなかった。神学の問いかけには、針の頭の上で天使が何人踊れるか、などという気が遠くなるほど形而上的なものもある。なのに、誰かが誰かを好きだという至極ありふれた問題は、その問いよりもさらに難しかった。世界の半分の半分しか見ていない、というミューリの指摘は恐ろしいまでに正しかった。
ただ、わかったところでどうにもならない。せいぜい思いつくのは、そんな情けない自分なのだから、他にもっと素晴らしい人を見つけたらどうだろうか、と伝えることくらいだ。
それがどれほど情けないことかは、いくら自分でも、わかる。
「はあ」
そして、そんな胸中の煩悶を見透かしたかのように、ミューリが大きなため息をついた。
年の頃が半分くらいの女の子に、横目でじろりと睨まれる。
「もういいよ。兄様が私のことなんて野山を駆けまわる貂かなにか程度にしか思ってないって知ってたもの」
可愛らしいが、すばしっこく、食料庫に忍び込んではあれこれ漁る貂は、確かにミューリに似ているところがある。
「でも、今言わないとずっと気づかれないままだっただろうし、よかったのかも。あの金髪を助けられたとしても、どうせ兄様は私を置き去りにしてウィンフィール王国に行くんでしょ? 戦になって危ないからとかなんとか言って」
ミューリはせっせと頭を撫でて耳を隠し、尻尾もしまって立ち上がる。
ごまかしようもない。普通に考えて、ウィンフィール王国には連れて行けない。戦になれば海峡は封鎖されるだろうし、負ければどんなひどい目に遭うか想像もできない。
「そう、ですね」
賢いミューリはこちらを横目に見て、ふんと鼻を鳴らした。
「私は兄様が好きだったの! 馬鹿」
その一言だけは、年相応に幼く、可愛らしかった。
「で? どうするんだっけ?」
ミューリは寝つきも良ければ切り替えも早い。あるいは、このまま立ち止まっていても、なんの結論も出ないとわかりきっていたのだろう。自分がミューリを赤ん坊の頃から知っているように、向こうも生まれてからずっと、こちらを見ていたのだ。
しかし、ミューリとの間にはなにか薄い膜のようなものができてしまった気がした。
その声も、仕草も、体温でさえも、本当に大事なものはその薄い膜に遮られているような気がした。
それを悲しいと思うのは身勝手な話だ。