第四幕 ④

 きゆうに立たされている今、これ以上困ることなどなにがあるというのか。ハイランドはひとじちに取られ、教皇は聖典のほんやくを禁書とし、自分たちはろうにいる。このままでは神の教えはゆがめられたままになり、ニョッヒラに生きて帰れるかでさえあやしいのだ。

 だが、たいするミューリはおよそうそを言っているようには見えなかった。ミューリは確信している。頭をかかえていたうでを下ろし、かたが動くほど大きく息をしながら、こちらをゆるぎなくにらみつけている。全部お前のせいだ、と言わんばかりのいかりをめてにらみつけている。

 しつ室で散々味わったものに似たちんもくが流れる。

 それをきばいたのは、ミューリだ。


「私は、兄様を、困らせたくない」


 ゆっくりき出さないと、られてなにがのどおくから出てくるかわからない。ミューリのしやべり方は、それほどにかたい。


「だけど、私にだって……ゆずりたくないことが、ある」


 だんからけんきよとは言えないミューリが、あえてそう宣言するのだから絶対にそうなのだろう。

 しかし、このままにらいを続けているわけにもいかない。なにがなんでもハイランドを助けなければならない。自分の夢のためにも、ハイランドのためにも、そして、神の教えを待っている人々のためにも。

 大きく息を吸って、言った。


「聞きましょう」


 付け加えたのは、ミューリに対する兄としての自負でもある言葉だ。


「たとえ困ったとしても、解決してみせます」


 ざわざわざわ、とミューリのかみれる。

 ミューリは声を出す直前、口の動きだけで、鹿、と言った気がした。


「あのきんぱつを助けたら、兄様は聖職者になるんでしょ?」

「そうです。あなたは前もそれでおこっていましたが、それのなにが……まさか」


 と、気がついた。


「まさか、私が聖職者になることで、あくきと呼ばれる人々の敵に回るとでも?」


 聖典の中には、預言者があくと戦う話が何度も出てくる。自分はミューリに言ったではないか。なにがあろうとも、絶対にミューリの味方であると。


「私はそこまでゆうづうかないわけではありません。それに、そもそもこの世はすべて神のお作りになられた造物だと考えれば、生きとし生けるものすべてが神の愛の──」

ちがう。全然、ちがう。そんなことどうだっていい。だって、だって、兄様が聖職者になったら」


 ミューリはむくれ、じりなみだかべ、ついに耳と尻尾しつぽあらわにして、言った。


「……っできなくなるじゃない」

「え?」

けつこん! できなくなるじゃない!」


 そのさけびに、頭の中を全部ばされた。


「……っ……えっ?」


 あつられたまま、たずね返した。


「私が? ……だれと?」


 その時のミューリの顔を、なんと表現したら良いのか、言葉が見つからなかった。

 多分、ミューリもどうしたらいいのかわからなかったのだろう。

 そして、ミューリのほうが冷静だった。こうとびらの向こう側の様子をうかがってから、ごしごし手で顔をこすると、その熱の分だけげんそうな顔になって言った。


「ほら、だから言いたくなかったのに!」


 今度は頭をかかえるのではなく、ひざかかえてそっぽを向く。くちびるとがらせて、ほおふくらませて、尻尾しつぽがばしばしとゆかたたいている。とはいえ、顔が真っ赤なのはおこっているのもあるだろうが、それ以上にずかしいのだということくらいは気がついた、。それから、自分の、そこけのけ具合にも。


「あの……」

「なにっ」


 かんかんにさかった石のように熱くなっている。

 言葉を選ばないとと思っても、どうするのがいいのかかいもく見当もつかなかった。


「ほ、ほん……いえ、その、いつ、から?」


 本当に? と聞いたらのどぶえみちぎられるかもしれない、と本能が教えてくれた。

 すんでのところで、えた。


「……知らない」


 知るか鹿、とひざがしらに口をくっつけながら付け加えた気がした。

 ミューリが自分をしたってくれていることは、当然わかっている。時折父親のロレンスがるくらい、なついている。そんなミューリを可愛かわいいと思うし、大切にしてきたのはそのとおりだ。それでも、そういう目で見たことは一度もなかった。

 ただ、そう考えれば多くのことがに落ちた。禁欲のちかいをいじり、からかってくるのも、あのくさい木だるの中でまんして、かくれて用意していたとっておきの服を見せたのも、そもそも、旅についていきたいと言い張ったのも、そうなのだ。ならばハイランドを敵視するはずだと思った。ハイランドは、外の世界からやってきて、自分を遠い世界に連れ去ってしまう存在なのだから。

 そして、ミューリの警告どおりになった。自分の夢から言えば、おもいに応えることは絶対にできない。同時に、ミューリを傷つけたくなかった。二つの事実にはさまれて、身動きができなかった。

 たいだなんだと言っていた自分がずかしくなる。いざ目の前で個人的な問題が起こったら、それを大事の前の小事と切って捨てることなどとうていできなかった。ミューリがハイランドの大義に対し、自分のこいごころだけで立ち向かっていた気持ちが理解できた。それははっきりと、り合うものなのだ。

 では、そのり合ったてんびんをどちらにかたむけるべきなのだろうか、という問題に立ち返った時、その手がかりすら自分の中にはなかった。神学の問いかけには、針の頭の上で天使が何人おどれるか、などという気が遠くなるほどけいじよう的なものもある。なのに、だれかがだれかを好きだというごくありふれた問題は、その問いよりもさらに難しかった。世界の半分の半分しか見ていない、というミューリのてきおそろしいまでに正しかった。

 ただ、わかったところでどうにもならない。せいぜい思いつくのは、そんな情けない自分なのだから、他にもっとらしい人を見つけたらどうだろうか、と伝えることくらいだ。

 それがどれほど情けないことかは、いくら自分でも、わかる。


「はあ」


 そして、そんな胸中のはんもんかしたかのように、ミューリが大きなため息をついた。

 年のころが半分くらいの女の子に、横目でじろりとにらまれる。


「もういいよ。兄様が私のことなんて野山をけまわるてんかなにか程度にしか思ってないって知ってたもの」


 可愛かわいらしいが、すばしっこく、食料庫にしのんではあれこれあさてんは、確かにミューリに似ているところがある。


「でも、今言わないとずっと気づかれないままだっただろうし、よかったのかも。あのきんぱつを助けられたとしても、どうせ兄様は私を置き去りにしてウィンフィール王国に行くんでしょ? いくさになって危ないからとかなんとか言って」


 ミューリはせっせと頭をでて耳をかくし、尻尾しつぽもしまって立ち上がる。

 ごまかしようもない。つうに考えて、ウィンフィール王国には連れて行けない。いくさになればかいきようふうされるだろうし、負ければどんなひどい目にうか想像もできない。


「そう、ですね」


 かしこいミューリはこちらを横目に見て、ふんと鼻を鳴らした。


「私は兄様が好きだったの! 鹿


 その一言だけは、年相応に幼く、可愛かわいらしかった。


「で? どうするんだっけ?」


 ミューリはつきも良ければえも早い。あるいは、このまま立ち止まっていても、なんの結論も出ないとわかりきっていたのだろう。自分がミューリをあかぼうころから知っているように、向こうも生まれてからずっと、こちらを見ていたのだ。

 しかし、ミューリとの間にはなにかうすまくのようなものができてしまった気がした。

 その声も、仕草も、体温でさえも、本当に大事なものはそのうすまくさえぎられているような気がした。

 それを悲しいと思うのは身勝手な話だ。

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