「私には私の理由があって、神へのとりなしを求めている。君が兄を止めるように」
「……」
足を止めたミューリが、凍りついたように沈黙していた。ハイランドはミューリがなぜこんな振る舞いをするのかわかっているのだろうか?
そのハイランドは、廊下を見やり、頃合だと思ったのだろう。立ち上がると口早に言った。
「コル、君たちの許にはデバウ商会がやってくるはずだ。その時に、私を助け出す算段も立てるよう頼んでくれ。このままでは私は戦の人質として使われてしまう。ウィンフィール王国はそれだけ不利になるし、私がいなければ新しい教会設立に邪な意図が入り込むかもしれない」
しかし、ハイランドは仮にも王族の血を引く人物で、権力者への伝手は数多あるではないか。
なによりも、デバウ商会がなぜ自分たちのところに救援にきて、ハイランドのところに行かないことがあろうか、と思った瞬間だった。
「デバウ商会は無条件には私を助けない。利益の天秤をじっと見つめているはずだ」
ハイランドとデバウ商会は利益で結びついている。ウィンフィール王国が教皇との争いで有利に事が運んだ際、デバウ商会は交易で特権を得る。だからデバウ商会はハイランドに便宜を図って協力していた。それはあくまでも利益の関係でしかない。だとしたら、教皇から異端とみなされ、市政参事会に捕らえられたとなれば、助けるに見合うなにかがなければならない。
「で、では、王国に助けを──」
そう言い募るのを、ハイランドは優しげな笑みで制した。
「身内にはもっと頼れない。頼れば恐らく、逆に彼らに暗殺される」
馬鹿な、と思った。
「彼らは私という人質を取り戻すために教皇と交渉するくらいなら、私を新教会の最初の殉教者に仕立て上げるだろう。宮廷から敵を一人排除し、しかも民衆の支持をまとめる肥やしにできる。一石二鳥だと小躍りするはずだ。だから、君たちで保険をかけるしかなかった。デバウ商会と深い繫がりがあり、利益の天秤を越えている君たちで」
その瞬間、ハイランドが自分のことをニョッヒラから連れ出した、最大の理由にようやく気がついた。
ハイランドはデバウ商会と利益で繫がっているが、自分たちは違う。デバウ商会のいわば陰の立役者の身内として、遇されている。だからなにかが起こっても、採算度外視で助けてくれるだろうと、ハイランドは冷徹に、ニョッヒラでそう計算したのだ。その上で、自らの身に危険が迫った時には、その威を借りようと目論んでいた。
その計算高さを憎む気はない。利用されていたのだと失望することもない。
なぜなら、ハイランドのその苦しげな顔つきだった。悔しそうですらあった。
ハイランドは身内に頼れないと言う。教会の鐘楼に登りでもすれば、天気の良い日にはかすかに故郷が見えるような海沿いの町で、故郷のために戦っているというのに。
ハイランドはそれ以上続ける言葉を持たなかったのか、なにかを思いきるように、立ち上がった。声をかける間もなく立ち去り、兵たちも慌ててハイランドの後を追いかける。
色々なことが頭の中に入ってきて、破裂しそうだった。目の前には、ニョッヒラにいた時には想像もしなかったような難題が積み上がっている。正直、なにから手をつけていいのかすらわからない。
だが、十年以上前、自分はどんな難題にも果敢に立ち向かう行商人の側にいた。
ロレンスならばどうするか、と考えた。
なんであれ、目の前の問題から立ち向かうべきだ。
「ミューリ」
ハイランドに何事かを見抜かれ、ミューリは魔法にかけられたかのように静かになっていた。ハイランドに隠し事があったように、ミューリにもまたなにかがある。
その名を呼ぶと、ミューリはハッと我に返って後ずさった。びっくりしたのか、姿勢を崩してひっくり返る直前、格子状の扉に背中が当たり、どんっと音が鳴る。
慌てて駆け寄ろうとしたが、ミューリの目に制された。
それが敵意に満ちた、鋭いものだったならば立ち向かえた。
そこにあったのは、今にも泣き出しそうな顔だった。
「あ、あの金髪を、助けるの?」
泣き落とし、と一瞬思ったのは、ミューリが過去に何度でもその手を使ってきたせいだ。とはいえ、ミューリの産声を聞いてから、今の今までずっと付き合ってきた。本気かどうかくらいわかる。
頭が痛いのは、本気だからだ。
「ミューリ」
もう一度その名を呼んでから、ため息をついて腰を下ろした。ミューリと同じ目の高さに合わせるのは久しぶりのこと。どうしても言うことを聞かない昔は、よくこうして説得した。
「あなたはとんでもないお転婆ですが、ホロさん譲りで頭がいい。察しもいい。それに、本当は優しいことも知ってます。ハイランド様の立場を知って、それでもなお、助けたくないと言うのですか? それとも、あの話まで作り話だと?」
いつもの負けん気が鳴りを潜め、ミューリは狼狽えていた。もう一押ししたら泣き出してしまいそうで、髪の毛までざわざわとうごめき出している。
「ミューリ、耳」
言われ、ミューリは慌てて頭を押さえるが、押さえたまま背中を丸めてしまう。そのまま、誰にも見られないところに隠れたがっているように体を縮めていく。なにかよほどの理由があるのだろうとはわかるが、全く想像もつかない。
しかし、問いかけても応えず、なぜ応えてくれないのかの理由も全くわからないような厄介な存在の相手をするのは慣れている。しかも、とらえどころのない神とは違って、ミューリは確かに、そこにいる。
「あなたはハイランド様が湯屋に来てから、ずっとそんな態度ですね」
躾棒で打たれているかのように、ミューリは背中を丸めていく。
「最初は、私がハイランド様の相手に忙しいから不貞腐れているだけかと思っていましたが」
ミューリはもうほとんど顔も見えない。
「この期に及んでまでというのは、ちょっとした気まぐれではありませんよね」
深く、地中に潜り込んだ根っこのように、なにかがある。
「それは、困っている人を見捨て、大きな目的さえ、足蹴にしてよいことなのですか?」
そして、ミューリの様子を見れば、ミューリ自身が迷って苦しんでいるのがありありとわかる。それでもなお、ハイランドに協力するのを止めたがっている。
ミューリが相手だからこそ使いたくなかったが、奥の手を出した。
「私の夢をどうして邪魔しようとするのですか?」
ミューリの顔が、頭を抱える腕の隙間から槍で刺し貫かれたようなものになった。
目を見開いて、追い詰められた獲物のように体を硬直させ、唇を引き結ぶ。いよいよ消えてなくなりそうなほど体を縮め、最後の防壁が崩れ落ちる。
そして、現れたのは怒りに満ちた目だった。
「そんなに……そんなに聞きたいのなら、本当に言うけど……いいの?」
まさか反撃されるとは思わず、たじろいでしまう。自分の身を守るように頭を抱えていたミューリの腕が、一転、中から噴き出すなにかを押さえているかのようだ。
ミューリが泣きながら弁明し、理由を言うのはわかる。そこを優しく聞き、静かに諭す自分の様も想像できた。だが、開き直ったようなミューリが、脅しをかけてくるとは思わなかった。
わけがわからず立ち尽くしていると、ミューリはなおも言い募る。
「絶対、絶っっ対に兄様は困るけど、いいの?」
妙に頭の良いミューリの作戦だろうか? こうして牙を剝き、こちらが引くのを狙っているのだろうか?