「君にこのことを黙っていたのはすまないと思っている。だが、ことが表面化するのはもっと先のことだと思っていた。王国には、教皇から派遣された枢機卿が何人も交渉のためにきている。彼らがいる間は絶対に動きはないと思っていた。あるいは、その油断をつかれたのかもしれないが……」
蜘蛛のようにうごめく策謀に、絡め取られたのだろう。
「また、君がどこまで我々の理念に賛同してくれるかもわからなかったので、話せなかった。騙したような形になったことを詫びるほかない」
湯屋の主人、元行商人のロレンスならば、頭を下げるのはタダだからいくらでも下げるのが商人の矜持だ、と言うだろう。だが、ハイランドは王族の血を引いている。そんな人物が頭を下げるのは、演技ではありえない。
「ハイランド様、おやめください。ある程度の危険は承知のことです。それよりも、状況を打開することを考えましょう」
ハイランドはそれでもなお頭を下げ続けてから、ようやく顔を上げた。
「それに関して、ひとつ頼みがある」
「頼み?」
「ああ。今度こそ、そこのお嬢さんに嚙みつかれそうな頼みなのだが」
ハイランドの疲れきったような笑みに振り向けば、ミューリが凄い形相でハイランドのことを睨みつけている。あの、連れ込み宿に誘ってきた娘を睨みつけるかのように。
ミューリは一貫して、ハイランドのことを信用していなかった。なにか隠しているはずだと。
それは事実だったが、ハイランドの立場を考えれば理解できることでもある。自分は結局のところ、ニョッヒラの湯屋で働く下男にすぎない。秘密をぺらぺらと喋るほうがおかしい。
「だが、その前に確認しなければならない。もはや話はニョッヒラでしたことと変わっている。これから先は、教皇の振る舞いが気にくわない、というだけのことではなくなってくる。君が私に協力すれば、君はウィンフィール王国に協力することになる。その意味はわかるか」
教皇の振る舞いへの単なる批判者ではなく、教皇の権威そのものに敵対することになる、というわけだ。
教皇は神の地上の代弁者であり、その教皇が支配する教会は、この世の正しさの基準を人々に知らしめる組織だった。そこには確かに、明らかな矛盾や、腐敗や、悪弊がはびこっている。それでもなお人々は足しげく教会に通い、寄付をし、聖職者を敬っている。それは千年以上、連綿と続けられてきたことだった。
その強固な世界は膨張を続け、先の数十年では北の地の異教徒たちと激しい争いを続けていた。その結果はなし崩しとはいえ、教会側の勝利と言ってもよい形に落ち着いた。
その過程でいくつもの国が亡び、土地の権力者が追放された。
ウィンフィール王国は、そういう巨大な機構と、戦をしようとしている。
「危険で、おそらくは長く、激しい戦いになるだろう。しかし、想像してみて欲しい」
「想、像?」
「ああ。我々の手で、新しい教会を作れるのだ。俗語に翻訳され、多くの町の人々が読める聖典を手にした聖職者が治める教会だ。不正や悪弊は大きく減るだろう。これまで見て見ぬふりをしてきたことや、どうしようもなかったことを一掃できる。私があの湯屋で茹ですぎた蕪のようになった高位聖職者ではなく、君に声をかけたのはそれが理由だ。我々は、新しい世界を作りたいのだ。欺瞞も、噓もない世界を」
そんな世界が作れるものか、と余人ならば言うだろう。
しかし、聖典を読んでみればいい。今の教会を作り上げた大本の預言者も、当時は今の教会よりも大きな、歪んだ教えがはびこる異教の地で興ったのだ。
「また、理想だけではない。我々は戦に勝算があると踏んでいる」
ハイランドは廊下の左右を見回し、格子に顔を近づけるとさらに声を潜める。
「王国は島国だ。陸続きの北の地でさえ、大軍を派遣するのは容易ではない。しかも我々は豊富な漁場と、造船技術を持っている。教皇の対応が早かったのは、我々の準備が完全に整うのを恐れていたからだ」
アティフの港町に陸揚げされている大量の魚を見ても、その話の意味がわかる。北の海で獲れた魚は、深く内陸の食卓まで届き、なお余りある。追い詰められた上の、勝算のない戦いではない、という言葉には説得力がある。
条件は揃っている。
後は、立ち上がるばかり。
「コル、私は君の力を欲している」
ハイランドは、言った。
「そして、私は受けた恩は必ず返す。新しい教会は席にも余裕があるはずだ」
新しい教会設立の際は、便宜を図る、ということだ。その欲がないとは口が裂けても言えない。司牧の要に立つことは、それだけ多くの人を救うことでもある。
それに、ハイランド、ひいてはウィンフィール王国が設立するという新しい教会の話はそれ以上に魅力的だった。もしもそれが実現されるのであれば、多くの人々が正しい神の教えに与れる。
ただ、ひとつだけ気になったことがあった。
「ハイランド様、ひとつだけお聞きしたいのです」
「なんだ?」
こんな問いは、ある意味ハイランドへの裏切りなのかもしれない。
しかし、これまで続けてきた物の見方をひっくり返すのは、そう簡単なことではない。
「新教会は、これまでの教会を打ち倒すのが目標ですか?」
教会には悪いところもあるが、良いところだってある。自分は教会を粉砕したいのではなく、歪んだ柱をまっすぐにしたかっただけだ。
「私はそうはしたくない。我々が新教会を設立すれば、教会も考えを改めるだろう。もう、教会は今のままでは永久に変わらない」
その目に満ちているのは怒りですらなかった。
脳裏をよぎるのは、教皇吏におもねる大司教のへりくだった笑み。
世の中はそう簡単に、変わらない。
「もちろん、変化の結果、人々が新と旧、どちらか気に入るほうの教会を選ぶような、そんな世の中がくればと思っている」
「……そうはならない現実を想定しているようにも聞こえます」
「完全なる信仰の問題とはいかない。これは政治だからな。だから、我々がそうならないように全力を尽くす必要がある。誰かが前に進み出なければならないのだ」
ハイランドの目が、まっすぐに射抜いてくる。
危険はある。
だが、自分はかつて、その危険を顧みずに村から飛び出したことがあった。
そして、この世には信じる価値のあるものが存在するのだと感じた、あの瞬間を思い出す。
「私に、なにができますか?」
そう言った、直後のことだ。
「だめ」
それまで側で話を聞いていたミューリが、言った。
そして、ハイランドとの間に割って入って、ぐいぐいとこちらを後ろに押してくる。
「だめ、協力しない。兄様はお前なんかに協力しない」
「ミ、ミューリ!?」
たたらを踏んで体勢を立て直し、なんとかその体を抱き止める。
すごい力で、本気だった。
「いい加減に……」
「いや、そのお嬢さんの話も聞くべきだ」
誰が言ったのか一瞬わからなかった。ミューリ越しに、ハイランドが微笑んでいた。
「私は誰かを仲間にする時、騙したり脅したりはもうしたくない。そういうのは、宮廷で十分すぎるほど味わった」
その笑顔は女性かと思うほど優しげなのに、目だけが冷たい硝子のようだった。
「私にも血の繫がっていない兄弟は山ほどいた。だが、慕ってくれたり相手を気遣えるような優しい者たちは、死ぬか追放されたよ。生き残っているのは殺しても死なない奴らだけだ」
貴族社会では、文字どおり血で血を洗う骨肉の争いが絶えないと聞く。王位継承権が絡めば、その比ではないのだろう。ハイランドの目を見てそのことを理解した時、どうしてハイランドが凄まじいまでの神学の知識を有しているのかもまた、理解できた気がした。あれは決して付け焼刃ではない。それは、魂の傷と飢えを癒すために、必要だったのだ。
そして、無礼続きのミューリに、どうして菓子や優しい言葉をかけていたのかも。