二章 ⑤
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その日は、吐き出す吐息すら凍り付くような寒い日だった。
頭上に広がるのは鉛色をした重たい雪雲。舞い落ちてくる雪は一つ一つが大きく、地面に落ちるたびに音がなりそうなほどだった。
暖炉のある暖かい部屋で、スープを飲みながら家族と微笑みあう。普通の家ならばそんな一日になるだろう空の下で、まだ幼かったかつての少年はひとりの少女を抱きかかえていた。
「シオン、嫌だよ。死んじゃ嫌だ」
年にすれば十六、七歳の少女はシオンといった。まだ十歳ほどの少年にとって彼女は姉であり、母であり、替えの利かない愛する家族であった。
しかし、今シオンの命は風前の灯火だった。
彼女の体は半分が失われている。腹から流れ出した少女の内臓は、真っ白い雪の上に綺麗な朱色の轍を延ばしていた。
少年は絶望的な光景を前に無力にも彼女の上半身を抱きかかえることしかできずにいる。
シオンは、見えているかどうかも怪しい虚ろな目で少年を見上げる。もう自分が死ぬことを予感しているのだ。震える指で胸元から最後の煙草を取り出して咥えた。
「ごめんね。私はここまでみたい。だから、もういいよ。早く逃げなさい」
「嫌だ、シオンがいなきゃ嫌だよ!」
止まることを知らない涙で顔をぬらし、少年は血にまみれたシオンを抱きかかえる。もはや、彼の服が何色だったかも分からないほどに、全身が血で染まっていた。
「そんなこと言ってもね。ほら、足もないのにどうしろって言うのさ」
シオンはこんな状態にもかかわらず笑う。そして煙草の先に指を触れると、弱々しく火を灯そうとする。
しかし、既に煙草に火をつける力も残っていない。煙草から煙は立たず、震える彼女の指が虚空を彷徨うだけだった。
「大丈夫、僕が何とかするよ。だから、だから死なないで。お願いだから僕を一人にしないで」
「ひとりなもんか。あんたは、立派な情報師になってみんなを守るんだよ。きっと沢山の仲間が出来る。だからお願い。早く逃げて」
最後の力を振り絞り、持ち上げた腕でシオンが少年の頭を撫でた。その先、彼女の腕の陰に隠れた空の上には、膨大なコードを組み上げて執行された光の環が飛んで見える。
上空数千メートルの高さに半径数キロはあるだろう見事な光の環が、紋章のような模様を浮かび上がらせていた。そこからつり下がるようにして幾つもの光の矢が揺れている。
よほど優秀な情報師によるものだろう。
だが、その光は少年たちにとっては憎しみの光でしかなかった。
抱きかかえる少女シオンをこんな姿にしたのは、紛れもなくあの光の環なのだ。降り注ぐ光の槍に穿たれ、シオンは負傷した。
大勢の仲間を守る為に必死に戦い守った結果がこれだった。
「最後に、あんたの顔が見られて良かった。ありがとう」
空を見上げていた少年に、シオンはそう言い残して力尽きていく。彼の大好きだった優しい笑みを残して。
腕が地面に落ち、口にしていた煙草がゆっくりと彼女の胸元に倒れていった。
一つの命が失われていく。戦場では何度も見てきた光景であったが、それとは比べ物にならない壮絶な哀しみが少年を襲った。
少年はどんどん冷たくなっていくシオンの体に顔をうずめる。そして声にならない叫びとともに涙を流した。これ以上、流れる涙がないほどに、言葉も悲しみも全てをここで使い果たしてしまうほどに、少年は泣き続ける。
そしてどれほどの時間が経っただろうか。降り続ける雪が大地を覆い、シオンの鮮血を埋めるころ。少年は立ち上がった。
その顔にかつての無邪気さはない。
足元に横たわるシオンの遺体を見下ろし、少年は決意する。
彼はシオンの胸元に残った血濡れた煙草を手に取ると口にはさんだ。吸ったこともない煙草に、彼女の真似をするように火を灯す。
すると口の中いっぱいに苦い煙の味がした。咳き込みながら頬を伝う最後の涙で少年はシオンに別れを告げる。
この苦みを一生忘れない。二度と同じ思いをしてたまるものか。最愛の人を弔うこともできず、少年は苦渋の地であるジャバルの空を睨み上げた。
少年の行く手を害する全てが、彼の消し去るべき敵となる。少年が世界と戦う理由はこの日に生まれた。
***
夢を見ていた。滅多に見ることがない夢うつつの世界から目を覚まし、ツシマはひどく重たい瞼を開く。
そこは鬱蒼とした森の中だった。木の葉たちに隠れて月明かりもない深淵の中、ツシマは目を凝らして辺りを見渡した。
どのくらい寝ていたのだろうか。覚醒しきらない意識の中で、ツシマは自らの傷口に触れる。軽い痛みと共に指先に柔らかな感触があった。内臓が飛び出しているのかとも思ったが、そういう訳ではなさそうだ。奇妙な感触にツシマは手元を見る。
傷口の表面は強制的に細胞分裂をさせて修復をかけた跡が残っていた。血が流れている様子はなく、傷自体は十分にふさがっている。
だが、よほど慌てて治療したのだろう。凹凸の目立つ傷跡が残っていた。
「アイツ、どこに行った?」
回転の悪い頭を動かしながら首を動かすと、近くの木陰からルプスの姿が現れた。あちこち傷だらけで、頬に泥がこびりついている。ひどく疲れた様子だったが、ツシマが起きたのを見て慌てて駆け寄ってきた。
「気が付いたのね、よかった。このまま死んだらどうしようかと思ったわ」
「死んだらその辺に捨ててくれ。動物たちが食べて綺麗にしてくれる」
「縁起でもないこと言わないで」
ツシマなりに冗談を言ったつもりだったが、ここでは不謹慎だったらしい。ルプスは目を吊り上げてツシマに詰め寄る。
「ここは?」
森に視線を戻したツシマがルプスに聞いた。彼女は不思議そうに首をかしげる。
「ツシマがここまで連れて来たのよ。覚えてない?」
「列車から飛び降りたあたりで記憶が途切れてる。ここまでの事はほとんど覚えていない」
「そうなのね。あの後、結構大変だったんだけれど」
ルプスは小脇に抱えた薪用の小枝たちを下ろして、語りだした。
「列車から降りた後、あなたは私を抱えて河の底をずっと歩いて逃げたのよ。河の水と窒素分で大気を生成しながら、何時間も。その間、ずっとカヌスの生み出した化け物たちが私たちを追いかけてきてた」
「そうだったのか」
焚き火を起こすために小枝を組みながら、ルプスは心配そうにツシマを見る。
「それから、この森に入って一時間くらいかしら。歩いていたら突然、倒れるんだもの。死んだかと思ったわ」
「出血とコードの執行負荷が原因だろう。心配をかけた」
鼻を啜るルプスが上目遣いにツシマを見る。よほど心細かったのだろう。言葉にはしないが、彼女の表情にはそんな色が見えていた。
ツシマは下手糞に治された腹の傷を摩る。明らかに通常の治癒能力では治りようのない傷が、出血もなく治っている。その様子を見る限り、情報師による治療としか考えられなかった。
ツシマは自身の頭を整理する意味も含めてルプスに問いかける。
「お前。情報師だったのか」
ルプスは少しだけ後ろめたそうに俯いてから、ツシマの質問に答えた。
「そうよ。その傷も河に落ちてすぐに治療したんだけど、激しく動くから何度も繰り返し治療したの。不格好だけどそれで許して」
「そういう事か。どうりで歪な治療だ」
傷口を触りながらそう言うと、「そうかもしれないけど」と不満げにルプスはつぶやいた。少し拗ねているらしい。流石のツシマもそこはフォローを入れる。
「とはいえ助かった。ありがとう」
「それはこっちのセリフよ。まさか、あのカヌスから逃げ切れるとは思わなかったし」
カヌス。六帝剣の一人。奴とは再び刃を交えることになるだろう。ツシマは傷口を庇いながら薪に手を伸ばす。
ここは比較的、夜の冷え込みが甘い。とはいえ濡れた服では暖を取る必要がある。森の陰なら多少の火明かりは誤魔化せるだろう。
簡単なコードを執行し、ツシマは小さな焚き火を起こした。ルプスと焚き火を挟んで座ると、彼は改めて確認するべきことを思い出す。
傷跡の上を撫でながら、ツシマはまじまじとルプスの顔を見つめた。彼女は見つめられていることに気が付きながらも、気まずさで焚き火を見つめたまま顔を上げることはない。
「色々と聴くべき話がありそうだ」
「そうね。何から話せばいいかしら」
ルプスはそう言うと、しばらく沈黙する。小さな焚き火に薪をくべながら、彼女は考え込んでいる。ツシマも急かすことをしなかった。
どこからともなく鳥の声が聞こえ、ルプスは意を決したように息を吸った。そしてツシマを正面に、真っ直ぐな瞳を彼に向ける。
「私の本当の名前は、ルプス・フィーリア。バルガ皇帝の娘であり第三皇女よ」
彼女が自身の本当の名前を口にした。
ルプス・フィーリア。数多くいる皇帝の子供たちの一人で、国内でも国民の支持が厚い仁義と友愛の皇女だ。
皇族はそのほとんどが皇帝一族の証でもある金色の髪と赤い瞳を持っている。だが目の前のルプスはその特徴とは似ても似つかない銀の髪と青い瞳をしていた。
改めて目の前の彼女を見ると合点がいく。確かに、映像や写真で見たルプス・フィーリアがそこにいた。ツシマは自分の馬鹿さ加減に呆れて眉間に指を添えた。
「記憶では第三皇女は金髪に赤い瞳だったが、お前の本来の姿はどっちだ?」
「髪色はコード執行で金色にしてたわ。瞳の色は本当は赤いのだけれど、今はコード執行で青色にしてる。赤い瞳は目立つから。あとの違いは化粧かしら。皇族の象徴がなければ案外、誰も気が付かないものね」
自ら隠していた秘密のひとつを暴露し、少しだけ肩の荷が軽くなったのかルプスは微笑んでみせた。ツシマは彼女を真直ぐに見つめながら、話を戻す。
「そんな皇女様がエルバルへ亡命するとは、どういう経緯だ? 事によっては俺の手に余る」
ツシマの冷たい物言いにルプスは僅かに顔を曇らせた。そして弱々しく口元を緩めて焚き火の薪をつつく。
「バルガ帝国の次期皇帝を決める後継者争いに疲れちゃったのよ。毎日繰り返される陰謀と策略の世界で、私は勝ち続けなければいけない。さもなければ殺される。そんな運命にうんざりしたの」
ルプスはそう言いながら首元の何かを握りしめる。激しい逃亡の道中で、着崩れた彼女の首元には金のネックレスが見えた。
今まで何度か見てきた動作は、どうやらそのネックレスを握っていたようだ。ツシマは彼女を見守りながら、黙って話に耳を傾けた。
「私はね、皇帝と情報師の間に生まれた子供なの。皇族の間では情報師の血は穢れたものだと教えられている。だから、皇族でありながら情報師でもある私は、その事実を隠しながら生きてきた。当然だけれど、身内にも味方は少なくてね。それでもひとりだけ、子供の時から私を守ってくれていた騎士だけは信じていた。私の身の上を知ったうえでずっと守ってくれていた騎士だけはずっと味方だって」
ルプスはそう言うと、首元のネックレスを取り出す。その先には二つの指輪がぶら下がっていた。互いに二つで一つの形を成すように設計された金と銀の指輪だ。
「この指輪の意味を知ってる?」
ルプスは悲しげな瞳でツシマを見た。ツシマは静かに頷く。
「確か、バルガの皇族には騎士の任命権がある。その指輪は、皇族と騎士の契りを交わした証明のようなものだろう?」
「正解。やっぱり、あなたって物知りよね」
皇族と騎士の関係は、単純な警護役という訳ではない。運命を共にする共同体としての意味合いがあった。それを知っているからこそ、ツシマはその指輪の重みを理解していた。
だが、本来であれば騎士と皇族に分けられる指輪が何故ここに二つあるのか。その理由は想像にたやすい。
「お前の騎士は、裏切ったか」
深淵の闇に包まれる森の中に、ツシマの言葉が溶けていく。ルプスは指輪を目にしながら力なく微笑んだ。
「えぇ。とある祭典の日に襲われたわ。辛うじて私は無事だったけど、見知った人間はみんな死んでしまった。私の騎士も含めて、ね。騎士に任命して十年近く一緒に歩んできたのに裏切られ、殺されかけた。それで分かったの。ここにいる限り、私は生きてはいけないって」
ルプスは過去を思い出し、涙を流していた。暗闇の中で誤魔化すように頬を拭う。しかし、次から次へと溢れてくる涙はしばらく彼女の言葉を詰まらせた。
「それで、事情を聞いた嵐の丘がやって来たの。私の周りには敵しかいない。だから助かる方法は亡命しかないって。私もそう思ったわ。でも違った。私の騎士が裏切ったのも、嵐の丘が寄り添ってきたのも、全部が策略だった。私が最後の希望だと思っていたものは、全部嘘だったの。こんなのひどい笑い話よね?」
ルプスは泣きながら嘲笑を浮かべる。その顔つきがあまりにも悲愴感に包まれ、ツシマは思わず腰を上げた。焚き火を挟んでいた二人は距離を詰める。ツシマはそっと彼女の小さな肩を抱きかかえた。
ツシマに抱きしめられたルプスは一瞬驚きの表情を浮かべるも、溢れ出る涙と感情に嗚咽を漏らした。衣服を挟んで感じる人の温もり。ルプスは顔を覆い隠すと子供のように泣きじゃくった。ツシマは黙って彼女の肩をさする。
ルプスはまだ子供だ。それにもかかわらず背負わされた大きな運命に押しつぶされてしまっている。その辛さを隣で支える人間はおらず、彼女は心が潰れかかっていた。
世界中から取り残された孤独の中で、必死に歯を食いしばるその姿は、かつての自分に重なって見える。いつしか、ツシマは自分事のように彼女の気持ちに向き合っていた。
しばらくして、感情を吐き出したルプスは鼻を啜りながら顔を上げた。少し落ち着きを取り戻してきた彼女は、恥ずかし気に顔を拭いつつ焚き火に向き合う。
「この筋書きを書いたのは第二皇子のロス・ルーベルよ。間違いなくあいつが私の騎士を唆して、嵐の丘を私にすり寄らせた相手だわ」
薪の爆ぜる音にルプスが顔をそむける。その拍子にツシマと彼女の視線が交差した。ルプスはそのまま、ツシマを見つめた。真っ直ぐな瞳で、はっきりとした意図を持っている。
「それで聞きたいの。あなたは、誰の差し金でここに来たの?」
ルプスにとって現状は誰が味方かもわからない策略の海の中だ。まずは誰が敵か味方か、それをはっきりさせなければならない。
ツシマは彼女の考えを理解した上で、その場に腰を落とした。
「エルバル情報師組合の斡旋、と言いたいところだが実際は違う」
その一言で、ルプスの表情は固まった。いつの間にか、彼女の眼は敵を見る目つきに変わっていた。ツシマは僅かに口角を吊り上げて肩をすくめてみせる。
「エルバル独立都市の市長、タチバナからの直接依頼だ。国外の要人警護の依頼はよく受ける内容でな。それがまさか皇族だとは思いもよらなかったが。もしかすると、タチバナは知っていたのかもしれん。お前が皇族だという事を」
ツシマは焚き火を見つめながら言った。
タチバナとは、エルバル独立都市の頂点に立つ男だ。独立戦争を戦い抜いた英雄の一人であり、外交戦略に長けた知略の雄でもある。
世界的にも動向の注目されるエルバル独立都市には、常にあらゆる利害関係がついて回る。その政治的な駆け引きの難易度は、バルガ帝国の皇位継承権争いの比ではない。複雑かつ高度な駆け引きを、長期的な戦略をもって運営する必要がある。その最前線で戦うのがタチバナだ。彼ならば全てを知っていてもおかしくはなかった。
「タチバナ市長ね。一度会ったことがあるわ。何を考えているのか分からない人。確か独立戦争の七英雄の一人よね」
「よく知ってるな」
「そりゃ、私も情報師のはしくれだもの。七英雄の名前くらい覚えてるわ」
そう言ってルプスは赤くなった目元のまま、少しだけ笑みを浮かべた。
エルバル独立戦争は世界の歴史的にも類を見ない激戦となり、その結果英雄と呼ばれる情報師たちを生み出した。彼らは七英雄と呼ばれ、今でも四名がエルバル独立都市の運営に携わっている。
鼻をすすりながらルプスは指を折り、自分の知識を披露する。
「独立の七英雄はタチバナ市長、十三等位情報師アイマン・ドルーグ、都市防衛軍総司令キリヤ・ヒナ、ツクモ重工取締役代表ツクモ・カゲリの四人が現存してるでしょ。残りの三人は名前も分かってない。雷霆の情報師、灰塵の情報師、孤影の情報師、って肩書だけが知られてる。違ったかしら?」
「いいや、その通りだ」
ツシマは揺れる焚き火の炎を見て頷いた。
独立の英雄といえど、そのうちの半分が行方知れずになっている。それはある意味、エルバル独立都市の闇の部分でもあると噂されていた。タチバナに消されたのか、他国に逃げ出したのか。真実を知るものは少ない。
そんな闇も知らず、ルプスは空を見上げる。
「六帝剣のカヌスが表に出てきたのなら、七英雄の一人でも来てくれれば有難いんだけれど。そんなことは無理よね」
ルプスは贅沢な願い事だと自らを笑いながら薪をくべた。
確かに、六帝剣に匹敵する情報師となればエルバル独立戦争の七英雄か、キルビス皇国の四天王あたりしかいないだろう。ツシマは顔をしかめて濡れたシャツの襟に触れた。
「さぁ、どうだろな。どうしても、というなら流れ星にでも願うといい」
「願えば来てくれる?」
「迷信通りなら」
ツシマは半笑いで言った。だが、隣のルプスは真剣な表情で彼を見つめていた。
ツシマは一瞬、その視線に目を細める。
「私が願うのは、七英雄にじゃないわ」
ルプスは大きく息を吸うと、改めて姿勢を正してツシマへ向き直った。
「これは私の勝手なお願い。だから、仕事で来たあなたに強制は出来ない。でも、もし私の願いを聞いてくれるなら、もう少しだけ手を貸してほしいの。エルバルにたどり着くまで――」
一度視線を手元に落とし、ルプスは口を閉じた。これから口にする言葉が、喉を通らないのだ。彼女はわずかな沈黙の後に、焚き火のはぜる音にかき消えてしまいそうなほど、小さな声を出した。
「私の、傍にいてほしい」
ルプスはそう言って、膝の上の拳を握った。暗闇の中でも、彼女の頬が紅潮している様子が分かる。ツシマはそんな彼女を見て、静かに息を吐き出した。
ルプスの抱える問題は大きい。ツシマ一人で対処するにはあまりに無謀だ。報酬を受け取れる可能性はなく、仕事としての意味はもはや存在していない状態になっている。
どう考えても、ここが引き際だった。
それでもルプスの願いが、ツシマの心を引き留めるのは、悪夢にまで見るシオンの姿とルプスが重なって見えたからだ。地獄から逃れようとあがく彼女たちの姿は、十数年という時間を挟み、再びツシマの前に選択肢を与える。
救うか、再び失うか。
以前は選ぶことすら叶わなかった選択肢を前にして、ツシマに迷いは生まれなかった。
「分かった」
「ほんとに⁉」
ツシマの返答を聞いて、ルプスは食い気味に身を乗り出した。まん丸の瞳にうっすらと見える涙が、焚き火の明かりに光って見える。体面など気にしないその表情は、大人のツシマにとっては眩しすぎた。
つい、ツシマは視線を逸らしてしまう。
「だが、一つ条件がある」
「条件?」
ルプスは潤んだ瞳で上目遣いでツシマを見る。その仕草は心にぐっとくるものがある。本人に他意はないというのが、より質が悪い。
ツシマは彼女の視線から身を隠すように手をかざして人差し指を立てた。
「お前のことは俺が守る。だが、情報師として最低限のコード執行は出来るようにしろ」
「それって、例えば?」
乗り出した身を戻し、ルプスは首をかしげた。
「お前は戦う必要はない。それでも、いくつかのコードが使えるかどうかで今後、お前の守り方にも幅が出る。だから、今から教えるコードだけでも使えるようになれ」
ツシマはそう言うと、やっとルプスと正面から向き合う。そして暗闇に向けて青く目を光らせると、熱線のコードを執行した。
普段ツシマが使うものより規模は小さく、非常に簡易的ではあるが十分な火力のあるコードだった。それを見て、ルプスは小さな歓声を上げる。
そして、あることに気が付いた。
「でも、このコードってツシマの作ったものでしょ? そんなものを私に教えてもいいの?」
ルプスの疑問は的を射ていた。情報師にとって独自のコードとは長所も短所も、すべてを内包したものであり、資産そのものである。それを他人に教えることの意味は、文字通りすべてをさらけ出すという事だった。
だが、ツシマは別に気にするなとでも言わんばかりの涼しい顔で返す。
「使い慣れているコードの方が教え易い。なにより、時間がない」
あくまで、合理的な方法を選んだという風にツシマは言った。それでもルプスには、彼の優しさと献身さが身にしみるほどに伝わっていた。
「あなたって、本当はいい人なのね。勘違いしてたわ」
ルプスはそう言い、心の底から優しく目尻を和らげる。今まで言いたい放題言われてきただけに、ツシマもどう返すべきか言葉に悩んでいる様子だった。
「世辞はいい。とにかく、今からコードを教えるからよく聞け。何度も教えないからな?」
「分かったわ。こう見えても私、案外飲み込みが早いほうなのよ。期待して」
「地図も読めないくせによく言う」
ツシマは照れを隠すように口調を強めて言う。ルプスは彼の隣に肩を寄せると、はにかみながら講義に耳を傾けるのだった。