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捜査の依頼内容を説明させていただきます。
ロンドン郊外にある『職人街』にある自宅から、拘束職人エーラソーンが失踪したとの連絡がありました。エーラソーンはイギリス清教の対魔術師組織『必要悪の教会』と契約を結んでおり、彼の知識または技術が外部へ流出した場合、処刑塔を始めとする『凶悪な魔術師を幽閉するための魔術施設』から、危険度の高い魔術師達を脱走させるきっかけを作ってしまうリスクが生じます。
拘束職人エーラソーンの足取りを追い、保護または捕縛してください。
なお、エーラソーンの失踪が第三者の手によるものか、本人の意思による自発的なものかは判明しておりません。拘束職人エーラソーンそのものが危険な思想の下に行方をくらませた場合、こちらに攻撃を加えてくる可能性は否定できません。いざという時に備え、交戦準備を怠らないようお願いします。
夜の闇が、人工の都市に広がっていた。
まばらな電灯だけしかないその広大な空間は、かえって闇の色を強調しているようにも見える。
大型バスの発着場だった。
イギリスの首都ロンドンには、国際空港から直通のバスが通っている。一日に一〇〇台以上行き来するそれらの車両を整備するために、首都の中心からやや外れた辺りに、大きなスペースが確保されていた。大体五〇〇メートル四方といったところだろうか。
周囲に人の気配がないのは、『人払い』の術式を使っているからか。
そんな中に、神裂火織はいた。
ポニーテールにしても腰まで届く黒髪。日本人の平均身長よりも高い背丈。服装は脇で絞ってへその見えるようになった半袖のTシャツに、片足だけ太股の根元からバッサリ切ったジーンズ。そして腰にはウェスタンベルトにぶら下がった刀があった。七天七刀。日本刀と言っても、二メートルを超える長刀である。
彼女は広大なバスの発着場を走っている。
いや、走っていると言っても良いのだろうか。
神裂火織は世界で二〇人といない『聖人』だ。『聖人』とは、『神の子』と身体的特徴が似ているために、その『神の子』の力の一端を分け与えられた者である。『神の子』の処刑に使われた十字架と、教会の屋根にある十字架は別物だ。しかし別物であっても力は宿っている。それと同じ理屈だった。
つまり、神裂火織はまともな魔術師ではなかった。
『聖人』としての力を発揮する彼女は、瞬間的に音速すら超える事ができる。
(く……っ!!)
しかし、それほどの力を使ってでも、神裂火織は目的を果たせずにいた。
そう、わざわざそんな超常的な力を振るうからには、超常的な力を振るわなければならない理由というものがある。
神裂火織にとっては、目の前の男がそれだった。
「エーラソーン!!」
彼女は名を叫ぶ。
魔術師エーラソーン。作戦指示書に載っていた名前。魔術的な拘束具の製造を専門とする職人で、突如として失踪してしまった男。
大柄な男だった。一見すると野蛮な印象だが、指先に妙な繊細さを感じる魔術師だ。彼は無言で安物のコートの内側へ手を伸ばすと、白い札を数枚取り出した。東洋のものに似ているが、違う。材質は紙ではなく、白く色を抜いた薄い牛革だった。いくつかの銀の錨もある。記されている文字もアルファベットだった。英語やフランス語ではない。おそらくルーン文字の音価をアルファベットで表現したものだろう。
基本的には北欧神話系の術式を利用しつつ、十字教文化圏の力をも織り交ぜる。そのために純粋なルーンではなく、わざわざ一度アルファベットに分解しているのだろう。
エーラソーンは右手を振るい、白い牛革の札に空気を吸い込ませる。
変化があった。
札がねじれたかと思ったら、次の瞬間には五メートル以上の巨体が生じていた。それは黒い革と銀の鎧で作られた、巨大なクワガタだ。ハサミの部分には太いスプリングや金具などがゴテゴテ取り付けられている。
霊装。
魔術を使うために用いられる道具。または魔術を使って自律稼働する道具。
エーラソーンはポツリと呟いた。
「マンキャッチャーの応用だ」
「……ッ!!」
元々は、槍のような長い柄の先端にハサミ状のパーツが取り付けられている拘束具で、囚人の首や腰をロックして安全に運ぶためのものだ。
轟!! と。
巨大なクワガタは透き通るほど薄い革の羽を勢い良く羽ばたかせ、神裂の元へと高速で突っ込んでくる。
しかしそのハサミが動く前に、神裂は刀の柄へ手を伸ばし、容赦なくクワガタを両断した。その切断音が、落雷のように一瞬遅れてやってくるほどの勢いだった。
抜刀術。
恐るべき切れ味だったが、それを放った神裂は顔をしかめた。余計な手順を差し込まれた事を自覚する。クワガタを斬る事で神裂はエーラソーンへ一瞬の猶予を与えてしまい、その間に彼はほんのわずかに、横へスッと移動する。
神裂火織は音速以上の速度で移動する人間だ。
並の魔術師が徒歩で逃げようとしたところで、絶対に逃げ切る事はできないはずだ。
しかしエーラソーンは、横方向に弧を描いて移動する神裂の、その弧の内側へ向けて飛び込んでいた。自然と神裂は軌道を修正する必要を迫られ……そして余計な慣性の力を体に受ける。なまじ彼女が音速以上の速度で進むからこそ、自分で生み出す力の余波が自分自身を苦しめていく。
(抜けられる……)
そんな事が何度か続いた。
気を緩めると自分で構築した警戒網をすり抜けられそうだった。手の中で握っている紐を引っ張られるような錯覚すら感じる。歯嚙みする神裂は、同時にこうも思う。
(だが、そもそも何故エーラソーンは我々に攻撃を加え、ここから逃げようとする!?)
ゴッキィィン!! という甲高い金属音が響いた。
神裂が刀を振るった音だった。しかし肉を切るにはおかしな音だった。見れば、神裂の刀身の側面に、白い牛革の札が貼り付いていた。強引に軌道を捻じ曲げられ、エーラソーンに傷はない。むしろ、神裂の手首の方にひねったような痛みが走っている。
エーラソーンの頭上に刀を逃がした格好で、神裂はピタリと動きを止めていた。
互いの距離は一メートルほど。
はらりと。彼女の刀を戒めていた白い札が、一瞬遅れて二つに切れて宙を舞う。
刀を戻して再び切りかかるのが先か。あるいはエーラソーンの手の中にある牛革の札が何らかの効果を発揮するのが先か。緊張の糸が、一気にギリギリまで張り詰められていく。
「どのみち、私から逃亡する事はできません」
神裂は恐ろしいほど正確に刃を固定したまま、低い声で勧告する。
「私の足は音速を超えます。多少距離を取ったところで、一瞬でその差を詰められます。あなたは速度という包囲網の中に閉じ込められたようなものです」
「だろうな」
エーラソーンは、むしろ率直に頷いた。
「だからこちらから仕掛ける必要があった。偶然とはいえ、物陰に隠れてやり過ごせる距離を越えられてしまったからだ。正直に言おう。私の目的は君ではない。これは本来なら必要のない戦いだ。君には悪い事をしたと思っている」
直後だった。
神裂の背中に、ゾワリという感触が伝わった。エーラソーンはニヤリと笑っている。いつの間にか、その手にあった札がどこかへ消えていた。いくつかの情報を組み合わせ、神裂は自分の身に起こった事を推測する。
(背中に……貼られた!?)