一話 ①

 真円を描いた月の下で、炎と氷がぶつかり合う。

 火の海と化した荒野を、男が駆ける。

 見開かれた彼の目――その瞳が赤いのは、燃えさかる火の色を映したから、というだけではない。

 男の双眸が赤いのは、生まれついてのものだ。


「我が名はシラヌイ! 第十三代朱雀の頭領にして、緋眼の魔術師なり!」


 男は名乗りをあげつつ、走る軌道を変えた。逃げるのではなく、迫る。

 から返ってくる言葉はない。いつものことだ。シラヌイと彼の敵との戦いは、今回でちょうど百度目になるが、相手の声をまともに聞いたことがない。

 シラヌイが名乗ったのは、己を鼓舞するためだ。


「今宵こそ、私が、朱雀の民が勝つ!」


 走りながら、声を張りながら、シラヌイは次の攻撃を準備する。


(火の精霊よ)


 心の声で、大気に在る火の精霊に呼びかける。同時に、己の内に宿る魔力を高め、解放する。


火炎球ファイアー・ボール!」


 シラヌイの頭上に、無数の光点が生じる。それは瞬時に膨れ上がって、人の頭よりも大きな火球となった。

 シラヌイが片手を振るうと、火球は疾走を開始する。

 正面方向に炎の花が咲いた。火の海がさらに広がる。

 シラヌイは足を止めてはいなかった。火の海に自ら飛び込み、敵の姿を探す。

 凄まじい熱気だが、緋眼を生まれ持つシラヌイが火で傷つくことはない。

 敵の姿は見当たらない。爆発で消し飛んだのか? 答えは否だ。

 この程度の攻撃で倒せる相手ではないということは、シラヌイが一番知っている。


「……!」


 刺すような殺気を感じて、シラヌイはその場を飛び退いた。


氷棺アイス・コフィン


 直後、軋んだ声が響いて、シラヌイが直前までいた場所に氷の柱が出現した。

 灼熱していた空気が、瞬時に極寒の地の如く冷え込んだ。

 それほどの凄まじい冷気を、氷の柱は放っている。回避が一瞬でも遅ければ、それは文字どおりシラヌイの棺になっていた。


凍矢フリーズ・アロー


 間髪入れずに、次の攻撃がきた。

 飛来する無数の氷の矢を、シラヌイは拳を固めて迎え撃った。


熱拳ヒート・ナックル!」


 二つの拳が燃え上がる。

 氷の矢は、一本一本が、先ほどの氷棺アイス・コフィンにも匹敵するほどの冷気を発している。刺されようものなら、巨獣でさえ氷の彫像と化してしまうだろう。

 炎を纏ったシラヌイの拳は、しかし、凍らない。超低温の矢を、溶かしながら砕いていく。

 氷の矢の数は、全部で五十一本あった。


(さらに数が増えたか)


 前回戦った時は四十九本だった。

 二本増えた。これは、敵の実力が向上したことを意味していた。


(まったく、どこまでも厄介な相手だ……!)


 敵の成長に辟易しつつも、シラヌイの口の端には笑みが浮かんでいた。

 シラヌイは敵の姿を探して視線を走らせる。次の攻撃は、遠距離からか。それとも近接戦を仕掛けてくるか。

 キラキラと舞い散る細氷の向こうに人影が見えた。

 見えた、と思った次の瞬間には、人影はシラヌイの目前に迫っていた。

 顔と顔が向かい合う。しかし、視線は合わない。実際には合っているはずだが、シラヌイにはそれを確かめられない。

 銀色の仮面が敵の顔を覆い隠しているからだ。

 黒い装束から伸びる同色の帯をなびかせつつ繰り出してきた蹴りを、シラヌイは半身を引いてかわす。

 刀剣の一閃さながらの鋭利な蹴撃。くらえば誇張なしに身体を両断される。

 助走をつけた渾身の蹴りを避けられても、敵は体勢を崩さない。飛び退きながら術を放ってくる。


凍矢フリーズ・アロー


 シラヌイも同じように飛び退きつつ術で応じる。


紅蓮の矢ファイア・ボルト!」


 炎と氷が互いの存在を打ち消し合う。


氷嵐アイス・ストーム

火炎旋風ファイア・ストーム!」

氷刃円舞曲アイス・エッジ・ロンド

火炎方陣イグニッション!」

氷晶尖撃クリスタル・ストライク

灼熱波ヒート・ウェイブ!」


 ふたりは絶え間なく術を繰り出し合い、ぶつけ合う。

 互角。

 術を編む速度も、威力も、まったくの互角。

 繰り返される超高温と超低温の衝突に、大気が悲鳴をあげている。

 戦いは、これまでの九十九戦と同じ展開を迎えていた。

 このままでは、またしても引き分けてしまう。

 だが、


(そうはいかない……! この日のために新術を編み出してきたのだ!)


 シラヌイは紅蓮の矢ファイア・ボルト凍矢フリーズ・アローを相殺しつつ、横方向へと走った。

 その動きに気づいた敵が併走を始める。


熱拳ヒート・ナックル!」


 シラヌイは敵に向かって進路を変えつつ、右の拳に炎を纏わせた。


冷凍剣アイス・ソード


 敵は手刀の形にした左右の手を、氷で覆った。そして、自らシラヌイとの距離を詰めてくる。

 シラヌイが近接戦を仕掛けてくるものと踏んで、それに応じた構えだ。

 シラヌイは嬉しくなる。

 この敵は、シラヌイの攻撃を、いつだって真っ向から受けて立ってくれる。

 燃える拳を大きく振りかぶり、繰り出す。

 拳の間合いどころか剣の間合いにすら入っていない。つまり、シラヌイの燃える拳は空を切ったわけだが、ただの空振りではない。

 拳を開いて、シラヌイは声を張った。


炎の蛇フレイム・ナーガ!」


 手を覆う火が勢いを強め、火線が伸びた。

 それは、シラヌイの腕の動きに応じ、鞭のようにしなって敵に向かう。

 迫る炎を切り払うべく、敵が氷の刃を振るう。

 鋭い斬撃だが、氷の刃が切り裂いたのは空だけだった。

 火線がぐにゃりと曲がって刃を避けたのだ。

 火線はそのまま、炎の蛇フレイム・ナーガの名のとおり、右に左に蛇行しながら敵に迫り、顔面を打ち据えた。


(捉えた!)


 シラヌイの新術、炎の蛇フレイム・ナーガは、鞭状の炎を意のままに操る術だ。鞭のように振るうだけでなく、独立した生き物のような複雑な動きも可能で、相手の虚を突く。

 銀の仮面が外れて宙を舞った。

 この日、シラヌイは初めて、彼にとっての宿敵であるの顔を目の当たりにした。

 美しかった。

 夜の闇の中で際立って見える、純白の肌。切れ長の目。整った鼻筋。薄い唇。形の良い耳。それらが完璧に調和し、圧倒的な美貌を形成している。


「美しい……」


 無意識の内に、シラヌイはそんな言葉を口にしていた。

 白虎の頭領が女性であることはわかっていた。

 朱雀の頭領であるシラヌイと白虎の頭領であるが初めて戦ったのは、十年前。

 シラヌイは十二歳で、正確な年齢は知らないが、相手も自分と同じ年頃だということは、体格でわかった。

 彼女は、初めから仮面で顔を隠していた。仮面には声を変える機能があるらしく、不自然に軋んだ声は性別を悟らせなかった。

 だが、一年が経ち、二年が経ったあたりで、シラヌイは宿敵が女性であることを悟った。

 体格差だ。シラヌイは二年の間にずいぶん背が伸びたが、彼女の背丈には大きな変化は生じなかった。一方で、彼女には別の変化があった。

 彼女がいつも身につけているゆったりとした黒い装束越しにも、豊かな胸の膨らみが窺えるようになったのだ。

 三年、四年と時を経るにつれて、彼女の身体付きは、明確な女性らしさを現すようになっていった。

 そう。女性であることはわかっていたのだ。だからこれは、驚くような事態ではない。

 なのに、シラヌイは驚いて、動きを止めてしまった。