一話 ②

 驚いたのは、彼女も同じだった。仮面を飛ばされるのは、まったく想定外の事態だったのだろう。集中力が途切れて、腕を覆っていた氷の刃が湯気となって消える。

 切れ長の目がシラヌイを捉える。目が合う。

 瞳の色は、青い。上質な蒼玉のような、深みと透明感を兼ね備えた美しい青。


(これが、冰眼か)


 初めて目の当たりにする冰眼に、シラヌイは見入った。

 冰眼は、シラヌイの緋眼と同じ、精霊眼の一種だ。

 特定の精霊との高い親和性を、天賦の才として持って生まれた者の証――精霊眼。

 冰眼は氷の精霊、緋眼は火の精霊との、それぞれ高い親和性をもたらす。

 見入ってはしまったが、彼女が冰眼の持ち主であることは、これもわかっていたことだった。緋眼持ちの魔術師であるシラヌイと互角に渡り合えるのは、何かしらの精霊眼を持つ魔術師だけだ。そして、彼女は氷の魔術を得手としている。ならば、彼女が冰眼を持っていることは自明の理だった。


「きゃああああああああああっ!」


 突如、彼女が甲高い悲鳴をあげた。

 まるで裸を見られたかのように、肩を抱いてしゃがみ込んでしまう。長い黒髪が、はらりと肩と背中にかかった。結っていた紐が外れるか切れるかしたのだろう。

 これは、千載一遇の好機だ。

 シラヌイは、しかし、動けなかった。

 不意に、彼女の横顔に影がかかった。

 シラヌイは慌てて視線を空へと向ける。月が雲に隠れていた。


「あ……」


 決闘が、終わってしまった。

 シラヌイと彼女――朱雀の頭領と白虎の頭領の決闘には、決まり事がある。

 決闘が行われるのは満月の夜。決闘場にふたりが揃い、向かい合った状態でピタリと呼吸が合った時が始まり。相手を殺すか、負けを認めさせたほうの勝利。夜が明けるか、月がすっかり雲に隠れるかした場合は、その時点で引き分けとする。


「……終わり?」


 彼女が弱々しい声を出した。


「あ、ああ。そう、なり……ますね」


 シラヌイは、思わず敬語で応じてしまう。


(なんてことだ。俺は何をやっているんだ)


 決定的な勝利の機会を、みすみすと逃してしまった。


「あ、あのっ」


 彼女が、両手で顔を覆って言った。


「お見苦しいものをお見せしてしまって、すみません……」

「そ、それは、顔のことを言っているのでしょうか?」

「は、はい……」

「見苦しいだなんて、そんなっ。あなたは、その、とても……」

「……とても?」

「う、美しいと思いますっ!」


 何を口走っているんだ、私は! シラヌイは心の中で叫んだ。


「……!」


 彼女が弾かれたように顔を上げた。頬が真っ赤に染まっているが、彼女の顔をもうまともに見られなくなっていたシラヌイは気づけない。


「引き分けです! 今回も、これまでの九十九戦と同じように引き分けです!」


 シラヌイは彼女に背中を向けた。


「私は朱雀の里に帰ります! これ以上、ここにいる理由はありませんから!」

「は、はい」

「ですがっ! 帰る前に一つだけ、お訊ねしたい!」

「は、はい。なんでしょう……?」

「名前を! 貴女のお名前を教えていただきたい!」

「……!」


 彼女が息を呑む気配が伝わってきた。訊いてはいけないことを訊いてしまったのだろうか。困らせてしまったのだろうかと不安になったが、


「……アウラです」


 彼女は答えてくれた。


「わたしの名前は、アウラです」

「アウラ……」


 彼女の美しさに相応しい綺麗な響きの名前だ、とシラヌイは思った。


「失礼。私はシラヌイです」

「存じております。いつも名乗っていただいていますから……」

「そうでした! それでは、これで……」

「あ、あのっ」


 立ち去ろうとしたシラヌイを、アウラが呼び止めた。


「また、わたしと戦ってもらえますか?」

「も、もちろんです! それが、朱雀の頭領としての私の使命ですから! それに……」

「……それに?」

「貴女に勝つことは、私の人生の目標ですから!」


 シラヌイは振り返らないまま答え、アウラの反応を待った。

 アウラはたっぷりと深呼吸数回分の間を取って、言った。


「……よかった」


 心から安堵したような口ぶりだった。


「で、では、失礼します!」


 居たたまれないシラヌイは、逃げるようにその場を去った。


 朱雀の里の中央には巨大な柱が聳え立っている。

 無数の色が複雑に入り交じった極彩色に煌めいているそれは、人の手で運び込まれたものでも地から生え出たものでもない。

 空の遥か彼方より飛来し、この地に突き立ったのだ。

 美しくも禍々しくも見えるそれを背もたれにして、シラヌイは座り込んだ。

 東の空がうっすらと白み始めている。


「い、いつになく疲れた……」


 シラヌイとアウラの実力は常に互角。決闘の後、疲れ切っているのはいつものことなのだが、今回は胸の動悸が一向に治まらない。顔も、まるで高熱でもあるかのように熱い。


「兄様」


 うなだれ、どうにか息を整えようと努めていたシラヌイに、声がかけられた。

 顔を上げると赤毛の少女が立っていた。


「ヒバリか」


 シラヌイは少女の名を口にする。


「おかえりなさい、兄様。今回も引き分け?」

「あ、ああ」


 ヒバリがシラヌイを兄様と呼ぶのは、そのままの意味だ。

 ヒバリはシラヌイの妹だった。年は十六になったばかり。

 それなりに長さのある髪を頭の両脇で結って垂らしている。兄であるシラヌイの目から見ても可憐な容貌の持ち主だが、兄にとっては色々と手厳しい妹だ。


「はいはい、帰ってきたならこんなところで油売ってないで、長老に報告に行ってよ。見たところ大きな怪我もないし、動けるでしょ?」


 今も、戦い終えて帰ってきた兄を、休ませてもくれない。


「はい、立って」


 手を差し延べてくれたのが、せめてもの優しさといったところか。


「あれ? なんか顔赤いよ?」


 ヒバリがしゃがみ、シラヌイの顔を覗き込んできた。


「……何か、いつもと違うことがあった?」

「な、な、何もない」

「嘘」


 ヒバリは聡く、シラヌイは嘘が下手だ。自覚している。ごまかすのは無理だと諦めるしかない。


「実は……」


 白虎の頭領の素顔を初めて目の当たりにしたこと。そして、名前を知ったことを、シラヌイは妹に話した。


「ふーん……白虎の頭領って、やっぱり女の人だったんだ。で、すごい美人だったと」


 女性であったことはともかくとして、美人だったという情報までは伝えるべきではなかったと、シラヌイは軽く後悔した。

 朱雀の民の頭領が、敵の頭領を褒めてしまうのは、朱雀の民であるヒバリにとっては感情的に面白くはないだろう。

 実際、シラヌイに向けられているヒバリの目には、疑いと軽蔑の色が滲んでいる。


「兄様が女の人の容姿を褒めるなんて、初めて」

「そ、そんなことはないだろう」

「初めてだよ。だって兄様、いっつも術の研究と修練ばっかりで、恋人の一人だっていたことないじゃない。初恋もまだでしょ」

「ぐ……」


 ぐうの音も出なかった。


「つまり、兄様はアウラさんに一目ぼ――」


 妹の言葉の途中で、シラヌイは目を見開いた。

 ヒバリの後方に、人がいた。


「兄様? ……!」


 シラヌイの様子を不審に思ったヒバリが振り返って息を呑む。

 ゆったりとした青いローブ姿の女が、気配なく立っていた。

 顔はヴェールで隠れており、見えない。だが、ヴェールから伸びる長い薄紅色の髪と線の細さで女だとわかった。


(この俺に接近を悟らせなかった。何者だ……⁉)

「ずいぶんと立派な呪晶石ですね」