一話 ⑥
日当たりが悪く、食料になる山菜もたいして採れないこの林に立ち入る者は少ない。感情が乱れると人気のないこの場所で、気持ちが落ち着くまで膝を抱えて過ごすのが、アウラの幼い頃からの癖だった。
(あの人に、顔を見られちゃったよぅ!)
朱雀の頭領に、ついに素顔を見られてしまった。
アウラの仮面は、ただ顔を隠すための物というわけではない。魔術を使う際の魔力の消費量を僅かながら少なくする、白虎の頭領に代々伝わる術具だった。
実用的な理由で、アウラは仮面を被って決闘に臨んでいたのだ。――初めのうちは。
アウラが頭領になった十年前――十四歳になったばかりのアウラは、少年のような容姿をしていた。具合的には女性的な身体の丸みに乏しかった。過酷な修行で肉が削げ落ちていたためだった。しかし、十六歳になった頃から、体型が変化し始めた。身体の線が出にくいゆったり気味な装束を着ても隠しきれないほどに、アウラの身体つきは女性らしさにあふれるようになった。
恥ずかしかった。朱雀の頭領に自分が女であることを知られるのがどうしようもなく恥ずかしくて、仮面は、術具としての効果以上に、素顔を隠す物としての意味合いが強くなっていた。仮面には声を変質させる効果もあったが、極力言葉も控えた。
(知られたく、なかったのに……)
ぐずっ、とアウラは鼻を啜った。
泣き腫らして、青い目は真っ赤になっている。
また、私と戦ってくれますか? というアウラの問いに、彼――シラヌイは、「もちろんです」と答えてくれた。その時は安堵したが、朱雀の頭領である彼が、決闘を拒めるはずもない。しかし、アウラが女であることを知って、それでも彼は今までのように本気で戦ってくれるだろうか。
(あの人との戦いが、わたしの全部なのに)
アウラが仮面をより深く抱え込んだ拍子に、前髪の一房が目にかかった。
白虎の民の髪色は、たいていは白か、それに近い色だが、アウラの髪は黒い。黒髪の子は白虎の里では忌み子として嫌われ、疎まれるが、アウラは例外だった。
黒髪よりも、青い瞳を持って生まれたことが重要視された。
冰眼の持ち主は、氷の魔術に対する類い稀な適正を有する。白虎の民の中に冰眼持ちが生まれるのは、百三十年ぶりのことで、朱雀の民との抗争が始まって以来、初めてのことだった。
冰眼持ちならば朱雀に勝てる。アウラは白虎の民の期待を一心に背負って育った。物心つく前から、修行、修行、修行の日々。辛いと思ったことはなかった。修行以外のことはしない。魔術のこと以外は考えない。それが当たり前になっていたからだ。
アウラは強くなった。十歳になる頃には、白虎の魔術師たちは誰も、アウラに太刀打ちできなくなった。
否応なく、アウラは自覚した。自分が、特別な存在であるということを。髪の色も瞳の色も、魔術師としての才覚も技量も、何もかもが周囲の人々とは違う。
――わたしは、一人だ。
強くなるにつれて、アウラは孤独になっていった。
その孤独を埋めてくれたのが、シラヌイだった。
シラヌイ。朱雀の頭領。彼だけは他の人とは違った。
全力で戦っても勝てない。何度戦っても勝てない。
アウラが修行に修行を重ねて強くなっても、彼のほうも同じだけ強くなっている。常に互角。
初めのうちは戸惑った。勝てないことが悔しくてもどかしかった。しかし、いつの頃からか、アウラは彼との戦いが楽しみになっていた。
彼に勝ちたい一心で励む修行は、楽しかった。新たな術を考えるのも楽しかった。
アウラが全力をぶつけられるただ一人の相手。特別な存在であるが故に孤独だったアウラの世界に、彼は真っ正面から入り込んできて、そして居座ってみせた。
彼――シラヌイのおかげで、アウラは孤独ではなくなったのだ。
「姉さん」
声をかけられて、アウラはゆっくりと顔を上げた。
人が近づいてくる気配は感じていたし、それが誰かも察しがついていたから驚きはしなかった。
アウラの前に現れたのは、白い髪の細身の青年だった。
「ブラン……」
アウラは弟の名を口にした。
「なかなか帰ってこないから、心配したよ。怪我はない?」
ブラン――アウラの七つ年下の弟は、身を屈めてそう訊いてきた。
綺麗な面立ちには、優しい笑みが浮かんでいる。
「大丈夫……」
「よかった。でも、ここで膝を抱えてるってことは、何か辛いことがあったんだね。まさか、決闘に……?」
アウラは首を横に振る。
「負けてないよ。いつもどおり引き分けだった。けど、顔を見られちゃった。わたしが女だって、あの人に知られてしまったの」
「それは……姉さんが女性だってことは、とっくに知られてたと思うよ」
「そ、そう? それならあの人は、これからも本気で戦ってくれるかしら……」
「そんな心配をしていたの? 手を抜いてくれるなら、そのほうがありがたいよ」
ぶんぶんぶん! とアウラは激しく頭を振った。
「あの人が本気で戦ってくれなくなったら、わたし、生きていけないよ……」
ブランは細い肩を軽く竦めた。
「まるで恋する乙女だね、姉さん」
「恋……?」
その発想はなかった。
シラヌイに対するこの気持ちは、果たして恋なのだろうか?
アウラには、恋というものがどういうものなのか、よくわからない。概念としては知っているが、理解はできていない。
「あの人のことは、好敵手として尊敬しているわ。でも、それだけ。それだけよ。大体、わたしみたいに陰気で魔術しか取り柄のない女に、恋なんてできっこないもの」
「そんなことはないと思うよ。でもね、姉さん。恋をするにしても相手は選ばなきゃダメだよ。朱雀の頭領なんて、もっての外だ」
ブランは、左耳にだけ付けている細長い耳飾りを指で弄びながら言う。
「朱雀の頭領は倒すべき敵だ。殺すべき男だ。それだけは忘れないで」
優しい声音で、しかし冷たく言い放って、ブランは背中を向けた。
「……わかっているわ」
「長老への報告は僕がしておくよ」
ブランは去り、アウラは抱えていた仮面に顔を埋めた。
「……わかっては、いるのよ」
それでも。
(……会いたい)
決闘が終わってしまえば、次に会えるのはまた一月後。その日を一日千秋の思いで待つ。それがアウラの常だった。
素顔を見られても、女だと知られても、あの人は何も変わらない。アウラはそう願い、信じた。
そして時は流れ、月が満ちる夜がやってきた。
決闘の荒野に月明かりが降り注いでいる。
たなびく雲は薄い。夜明けまで月が隠れることはないだろう。
シラヌイとアウラは、互いに顔の見える距離で向かい合っていた。
顔が見える。アウラは仮面をせず、美しい素顔をさらしていた。
(やはり、美しい)
まるで月の女神だ、とシラヌイは思う。
(しかし……!)
見惚れてはいられない。今夜の決闘は、これまでで最も過酷な戦いになるのだから。
シラヌイはゆっくりと深く息を吸う。そして、名乗りのために口を開く。
「我が名は――」
「わたしは、アウラ!」
シラヌイの声に重なるように、アウラが名乗りをあげた。
「ああっ、ごめんなさい! わたしったら、シラヌイさんが喋っているのに!」
「い、いえ。どうぞ名乗ってください」
アウラが名乗りを口にするのは、初めてのことだった。
仮面を被っていないことといい、彼女にも何かしらの心境の変化、あるいは格別な覚悟があるのだろう。
「いいんですか? では、改めて……。わたしはアウラ! 第十七代白虎の頭領にして、冰眼の魔術師! 朱雀の頭領におかれましては、一切の手加減は無用! 全力の戦いを望みます!」