職員室の横にある廊下。
窓から斜めに夕日が差し込み、外から野球部のかけ声が聞こえてくる。
授業がすべて終わった平和な放課後……とはいかない。
二年B組の担任、内田先生は目を血走らせて俺……辻尾陽都の方を見た。
「じゃあ辻尾くん。運が悪かったと思って、これよろしくね」
「先生。これ、今日やらなきゃいけないんですか? 明日じゃダメなんですか」
「日直の仕事はね、先生の采配ひとつで決まるのよ。先生これから超絶めんどくさい会議! 事務の先生が入院しちゃったのよ、悪いけどよろしくね!!」
内田先生は大きなため息をついて校長室に入っていった。
夕日が差し込む長い廊下には、俺だけがぽつんと残された。
部活に入ってる人は活動中。
入ってない人たちは帰宅した時間帯で、誰もいない。
「学級日誌を持って来ただけなのに……」
俺は資料室の床からタワーみたいに生えたプリントを見てため息をついた。
頼まれたのは、これを三学年各五クラス、人数分に分ける作業だ。
スマホで時間を確認すると十六時。十八時からバイトだから十七時には学校を出たい。
明日日直だったら、こんなこと頼まれなかった。なんで俺がこんな目に……。
ため息をついている時間はない。運が悪かったと受け入れて作業を開始することにしてプリントタワーに手を伸ばした。
「一年A組が三十六人。二枚予備を入れるから三十八枚」
俺は壁に貼ってあるクラス人数表を見て紙を数え始めた。
十枚摑んだつもりが数えると八枚。二枚追加して十になった。同じように二十、三十、あと八枚追加して三十八枚、と。
それを一年A組の手紙箱にぶち込んでため息をつく。予想より紙を数えるのに時間がかかる。
これ三学年各五クラス分? バイト間に合う?
「辻尾くん。先生に頼まれたの?」
声がして振り向くと、入り口に同じクラスの吉野紗良さんが立っていた。
揃えられた黒く艶々とした前髪に、斜めに入ってくる夕日が反射してキラキラと光り美しい。ゆったりと編まれた三つ編みが正しく肩に乗り、長い手足が床に影を落としている。
彼女は正統派美少女として有名で、性格はとにかく真面目。先週クラス委員を決める時、みんなやりたくなくて黙っていたら、吉野さんが立候補してくれた。
昨日も教室で掃除してたらホウキが折れた。俺は前から「なんかグラグラしてるなー」と思ったけど、誰かが言うだろうと思って黙っていた。折れたのを先生のところに持って行くと「お前が折ったのか」と怒られそうで、責任を押し付け合ってたんだけど吉野さんがすぐに対応してくれた。しっかりしてるのに偉ぶらない人格者だ。
誰が呼んだか『正しい太陽』。正しいのに、明るく、優しい。
二年生のクラスが始まって一週間、俺はその『正しい』姿をただ遠くから見ていただけで、一度も話したことがなかった。それなのに俺の苗字を覚えてくれている事に感動してしまった。
吉野さんは髪の毛を耳にかけて、
「私も先週これをやったわ。事務の方が切迫流産で入院されて大変みたい」
「そうなんだ」
「だから手伝います。私は友達が手伝ってくれて三十分で終わったし」
「え、あ、助かり、ます」
「大丈夫」
そう言ってプリントを手に取った。俺は何度やってもプリントを一度で十枚を手に取れないけど、吉野さんは触れただけで十枚を的確に手に取り、テキパキと仕分けていく。その無駄がない姿に思わず見惚れてしまう。視線に気が付いたのか、俺のほうを見て、
「毎回頼まれるから慣れちゃって」
「いや、すごいなと思って」
「隠れた特技かも」
と小さく両肩を上げて苦笑した。そして宣言通り三十分で作業を終わらせた。
「じゃあまた明日。おつかれさま」
と去って行った。お礼を言おうと思ったらもう居なくなっていて、俺の「ありがとう」は靴箱の隙間に消えていった。先生に褒められるわけでもないのに自ら手伝う……本当にこんな子がいるんだな……と感心してしまった。まさに『正しい太陽』。
俺だったら見かけても「可哀想に」って、スルーする。帰る。だって得がないし。
スマホを見ると十七時前だったので、慌てて教室に戻り学校を出た。
「店長、これどこに持って行けばいいんですか?」
「それは南通りの店だ、よろしく」
「了解です」
バイトには余裕で間に合った。やっぱり十七時に学校出れば十八時には着ける。
俺はできあがった唐揚げとポテトを入れたリュックを背負って裏通りに出た。
ツンと臭ってくるのはションベン臭さ。ビルの隙間に置かれているゴミ箱からは生ゴミが溢れかえっているが、隙間を慣れた足つきで走った。
俺はサラリーマン家庭で育った普通の高校生だけど母親の母親……ばあちゃんは繁華街に何軒もクラブを持っている経営者だ。
実は中三の時に色々あって三ヶ月学校に行けず、不登校になった。
その時ばあちゃんに「暇なら走れ!」と言われてこの店の配達員として駆り出された。
不登校になった受験生をこんな地域でバイトさせるなんて……と母さんはばあちゃんにキレたけど、今まで先生と親しか大人を知らなかった俺には新鮮だった。
頭がいいのに学歴がなくてキャバクラの店長してる人、有名企業で働いてるのに女の子の髪の毛摑んでるバカ男、高学歴なのにホストにハマって風俗で働く女の人。
これで大人って……と最初はどこかバカにしてた。
でもどう見ても子どもな俺が、昼間学校行かずに外を走っててもスルーしてくれる、何も聞かない、腫れ物みたいに扱わず、普通に接してくれる。
ただ唐揚げを持って走る日々。
そのうち落ち着いてきて、夏休み明けのタイミングで学校に復帰して高校に合格、それからずっとここでバイトしてる。
町は汚いし、ビルにエレベーターは少なく、土地勘と体力は必須だ。それでも学校と違う世界が俺には必要みたいで、バイトを続けている。
階段を駆け上がって目的地のキャバクラに入って店長に一声かけて唐揚げを置いた。
店に戻るために階段を下りてビルの隙間に入ろうとしたら、女の子の叫び声が聞こえた。
「違うって言ってるの! 引っ張らないで!!」
「ぜってーお前だよ、この顔何度も見たんだよ! お前が連れてった店のせいで俺の人生終わったんだよ、ああん?!」
大声を上げてるのはスーツを着ているサラリーマンだ。
真っ赤な顔をして女の子のベージュの髪の毛を摑み、叫んでいる。
女の子のスカートは短くてハイヒール。どっからどう見てもギャルだ。
「お前が連れて行った」……ぼったくりとつながってるデートクラブに騙されたのか? 女の子と安くお茶して、少しトランプでゲームしたら十万要求されるってヤツ。女の子は男から逃げようと頭を振って、
「だから違うって! 私はそんなことしてない!!」
と叫んでいる。
本当にこの町はケンカばかりだ。俺は唐揚げを出して軽くなったリュックを背負い直した。
男同士の殴り合いは毎日見るし、女の子がホストをカバンで殴っていたり、酔っ払いが通りを歩く女の子全員にケンカふっかけてるのもよく見る。
あまりに日常でそれに介入しようとする人はいない。関わるなんて逆に怖い。あの男が何持ってるか分からないし、デートクラブに連れて行ってぼったくるなんて良くある話だし。こんな町に来てるんだから、自己責任でなんとかするのがこの町のルールだ。
俺はその場を離れようとした。
「こっち来いよ!」
「放して! 人違いって言ってるでしょ? どうして分かってくれないの?!」
……この声。
俺は一瞬立ち止まって、騒いでいる方に戻った。なんだか聞き覚えがある気がする。