サラリーマンは女の子のベージュの長い髪の毛を摑んで振り回している。
「この髪型、この顔、俺は一回見た女を忘れないんだよ!」
「違うって、何回言ったら分かるの、私じゃない!」
「?!」
この声、さっきまで学校で一緒にいた吉野紗良さんに似ている。
その女の子はベージュのロングのふわふわヘアで、派手なメイクでアイシャドーも口紅もばっちり塗ってある。白のVネックのニットを着ていて、水色のスカートはめちゃくちゃ短い。
細いストラップでなんとか足にくっ付いているハイヒールは、男に髪の毛摑まれてふらふらしている。
学校の吉野さんは、黒髪のセミロングで制服は標準で着崩しゼロ。
……いや、さすがに違うわ。声が似てるだけの別人だ。
信じられないけど、声はさっき聞いたばかりだから覚えていて、なんだか引っかかる。俺はこの町でバイト歴が長く、女の子の変身を見破るのは得意だ。ビルの隙間から女の子をよく観察する。
「おいこっち来いよ、取られた金お前から取り返してやる!」
サラリーマンは女の子の腕を引っ張って振り回す。
俺がビルの隙間から見ている間も、ふたりの隣を色んな人たちが通り過ぎていくけど、誰も興味を持たない。俺だって聞いたことがある声だから立ち止まっただけで、本当ならもうバイト先に戻ってる。
「違うって言ってるでしょ! 触らないで!」
女の子が悲鳴を上げる。……やっぱり声は吉野さんに似てる。でも……でも……。
俺は周りを見渡す。誰か助けてやれよ。てか、偶然警察が通らないかな。
……いや、警察がこんな小さなケンカに介入すると思えない。バイト先の店長に連絡してきて貰ったほうが良くないか? だって俺みたいな弱いヤツ、役に立たないし。下手に介入してアイツが逆上したら更に厄介だ。
俺がやらなくても……俺じゃなくても良いんじゃないか。
他に誰か適任者がいるだろ? もっと身体の大きな大人が助けるべきなんだよ。
俺なんてなにもできないし。それに声が似てるだけで吉野さんじゃないかもしれないし。
ブツブツと言い訳を探しながら、本音はひとつ。足がすくんで動けない。
サラリーマンが女の子の腕を摑んだ。
「こっち来い!」
「行かない!」
そう叫んだ女の子の長いベージュの髪の毛が揺れて、その下に黒い髪の毛がチラリと見えた。ウイッグを被ってる。ウイッグを被る時は地毛を押さえるために専用のネットを被るんだけど、男に引っ張られてそれもズレてきてる。中の地毛は黒い……つまり本当に吉野さんが変装してる確率が高い。俺は確信を持ち、親指に巻いてあるバンドエイドを強く握った。
……あの靴で逃げ切る方法。
いけ! 自分の中に気合いを入れて隠から飛び出して、吉野さんの手を引っ張った。
「吉野さん、こっち」
「!! えっ、誰?! えっ、噓、辻尾くん?! なんで、えっ?!」
辻尾くんと呼ばれて、本当に吉野さんだったと驚きつつ安心した。でも今は説明してる時間がない。
俺は吉野さんを先導してビルの隙間に入った。吉野さんはハイヒールをカンカンいわせながら俺のあとを付いてくる。
「まてこらあああ、そいつに用があるんだよ!」
酔っ払いサラリーマンが追ってくる。俺たちはビルの隙間をぬって走る。右折して、左折して……それでもサラリーマンは諦めずに追ってくる。
酔ってんのに元気だな。俺の後ろを走っている吉野さんは必死だ。そりゃハイヒールで全力疾走は誰だって辛いだろう。走りながら生ゴミだらけのゴミ箱を蹴っ飛ばして道を塞ぐと、中からゴキブリとネズミが大量に走り出した。男がそれを避けている間に目の前にあったビルの階段を駆け上がり、とある部屋のドアノブを指紋認証で開けて入る。
吉野さんがドアの前で叫ぶ。
「えっ?!」
「いいから入って」
俺は吉野さんを中に入れて中から鍵をして、ドアの前に座り込んだ。
背中のドアをゴンゴンゴンゴン蹴飛ばす音が響く。
「おいこら出てこい、ここに逃げ込んだのは分かってるんだぞ、くそ女、お前が連れてった店のせいで俺は会社クビになったんだ!」
「……ぼったくりに連れて行った……とか?」
はあ、はあ、と横で息をしている吉野さんに向かって俺はおずおずと聞いた。
吉野さんは荒い息を吐きながら首をぶんぶん横に振った。
ぼったくりに連れて行く……学校での優等生キャラからすると、あり得ない。でも……この服装の吉野さんならアリかも知れない。
他人のそら似の可能性80%、本当にデートクラブとかでバイトしてて、気がつかずにぼったくりに連れて行った可能性20%。会計時に女子は裏口から逃げて、秘密にされてることもあるから、本人が知らずにやってる時もある。
俺たちの背中ではゴンゴンとドアを蹴飛ばすサラリーマンが叫んでるので、俺は少しだけ身体を吉野さんに近づけて話す。
「……プリント分け手伝ってくれてありがとう。おかげでバイトに間に合った」
「それで助けてくれたのね。でもこれ助かったって言える状況かな? あ、私学校と外でキャラ違うから、びっくりさせてごめんね。もうバレちゃったし開き直っちゃう、ていうかよく気がついたね」
そう言って吉野さんは顔をくしゃぁとして笑った。
クラスの真面目美少女のくしゃくしゃ笑顔……こんな状況なのに「吉野さん、こっちのが全然可愛いな」と思ってしまった。
でもまあ確かにその通り。のんびり話しているが背中のドアはドコドコ蹴られている。俺はスマホを開いて時間を見た。
「もうすぐ来ると思う、けど」
「え?」
俺たちが黙ってドアの前に座っているとカンカンカン……と階段を上ってくる音が響いた。そしてドスが利いた低い声が狭い踊り場に響く。
……助かった。その音に俺は心の奥底から安堵した。
「おいテメー、うちの店の女の子に何の用だあああ?!」
「えっ、違いますよ、俺を騙した女がここに逃げ込んだんスよ!」
「みんなそう言うんだよ、こっち来いや!」
「ひえええ、うわああああ……!!」
ドアを蹴っていた音と叫び声が遠ざかり、静かになった。
俺は立ち上がって部屋の中を歩き、通路側の窓を開けた。遠くのほうにお兄さんたちに連れて行かれるサラリーマンの姿が見えた。
もう大丈夫だ。お兄さんたちがガッツリ絞ってくれるはず。
良かったと外を見ていると腕にむにゃりと柔らかい感覚。
んん? 横を見るとピンク色の髪の毛の女の子が目を輝かせて立っていた。
「陽都だあ~。またバカが来てたの? ね、私のブラジャー知らない? また無くなったの」
「!!」
むにゃりとしていたのは、ブラジャーをしていない胸だった。ペラペラなキャミソールなので、乳首がばっちり透けて見える。だから高校生の前でその姿はやめてほしい。俺は目をそらして極めて冷静を装って、
「ミナミさん、ブラはいつも洗面所に干してますよね」
「あー、忘れてた、ごめんごめん~~」
「あと部屋の中、ノーブラでふらふらするのやめてください。緊急避難所として指定されてる場所なんで男も入りますよ」
「入れる人なんて決まってるじゃん~~」
「それでもやめてください。あの、そろそろ時間なんじゃないですか? 行った方がいいと思います!」
「この子新人ちゃん? どこのお店? 可愛い、若いね~、また会おうねー!」