ミナミさんは吉野さんの顔をのぞき込んで微笑み、去って行った。
……はあ。やっと本当に落ち着いた。
緊急事態で仕方なく入ったけど、やっぱりここは下着姿の女の子が居て慣れない。マジで無理すぎる。俺は熱くなった頰に手で風を送りながら吉野さんの方を向き、
「ここは風俗店で働いてる子の控え室なんだ。ヤベーヤツが来た時に逃げ込めるように指紋認証と頑丈なドア、警備システムが付いてる便利な場所」
「……辻尾くん、なんでこんな所知ってるの?」
「ここら辺でバイトしてて詳しいだけ。吉野さんこそ、どうしてこんな所に……」
そう言って横を見ると、吉野さんの靴が目に入った。その靴はストラップが外れてプラプラと宙に浮いていた。俺の視線に気がついた吉野さんは靴を見て、
「あっ、留め具がない! どこで落としたんだろ」
と叫んだ。ふたりで入り口や周辺を見たけど、留め具は落ちていない。
吉野さんは壊れた靴を持って「バイト先で靴を借りる」と苦笑した。
それでもここから歩いていくのさえ無理なように見えて、俺はその場から立ち上がって洗面所に向かった。そしてそこから数本の輪ゴムを持って、
「とりあえずこれで止めるとか……?」
「わ。助かる。貰って良い?」
「お弁当を止めてる輪ゴムが冷蔵庫の上にため込んであるの知ってたから」
「ありがとう。じゃあこれを頂いて……」
吉野さんは床にペタンと座り、足先を持ち上げて靴の中に入れて、靴先から輪ゴムを入れてパチンと止めた。そして足だけ持ち上げてフイフイと動かした。
「……うん。大丈夫そう」
俺は短いスカートを穿いた状態で生足を持ち上げているのを直視できず、少し離れた状態でそれを見守る。吉野さんは「えい」と立ち上がり、まず窓際のほうに歩き、振り向いて今度は俺のほうにトコトコと歩いてきた。そして目の前で立ち止まり、
「カポカポ言うけど、大丈夫そう」
と言って笑顔を見せた。吉野さんが歩いて連れてきた甘い香りが同時にふわりと漂い、ドキドキしてしまう。
そして床に置いてあったカバンを持ち、
「本当にありがとう。助けてもらってこんなこと言うのなんだけど……すごく意外。辻尾くん、学校で女の子と話してるのとか全然見ないし、こんな風に助けてくれる人だと思わなかった」
実際、吉野さんだと確信が持てなかったら、俺もスルーしようと思っていたわけで……居心地が悪くなり目を逸らし、
「……いや、うん。俺、学校で存在消してるし、中園としか話してないから」
「中園くんはここでバイトしてること知ってるの?」
「知らない。学校の誰にも言ってない。俺さ、ここら辺で働いてること誰にも知られたくないから。だから吉野さんも秘密にしてくれないかな」
俺は学校で目立つタイプではない。身長は背の順で真ん中、寝癖のひとつも付かないストレートな黒髪の、本当に普通の男だし、中学で不登校になってから、学校で注目されるのが苦手になった。吉野さんはゴムで何とかぶら下がっている靴を揺らしながら、
「私も学校と違って、こんな服装でウロウロしてること秘密にしてほしい」
「誰にも言わないよ、約束する」
「嬉しい」
と微笑んだ。その笑顔があまりに丸くて学校と全然違って心臓が摑まれたみたいに苦しくなる。吉野さんはカバンからスマホを出して、
「今日のお礼がしたいから、明日学校終わったら話さない? 連絡先教えて?」
そういって吉野さんは小さなカバンからスマホを出した。
俺の心臓がバクンと跳ねた。正統派美少女の吉野さんと連絡先を交換。マジで?
でもまあ教えてと言われるなら……と俺はスマホを取り出した。吉野さんは、
「LINEでもいい? インスタはログインばれるから、学校出たら落としてるの」
「ああ、大丈夫」
俺たちはLINEを交換した。吉野さんはカバンからい・ろ・は・すのオレンジ味を出して一気に飲んで口元を拭いた。
「じゃあ明日学校で。あ、でもここで会った事はちゃんと秘密にする、絶対誰にも言わないから、ふたりだけの秘密ね。助けてくれてありがとう」
そう言って吉野さんは隣の通りに向かって走って行った。
俺はLINE画面にある吉野さんのアイコンを見てニヤニヤしてしまった。
母さんとバイト先の人としかいなかった友達欄に、吉野さんがいる。吉野さんは妹だろうか……そっくりで可愛い女の子とふたりで写っている写真をアイコンにしている。こんな可愛い子とふたりだけの秘密……。どう考えても嬉しくてニヤニヤしてしまう。……が、すぐに店長から電話がかかってきて走り始めた。配達ひとつに時間かけすぎた。
走りながら俺は親指に巻いたバンドエイドに触れた。実はクラスでホウキが折れた時、その折れた破片が指に刺さって怪我をした。……少し後悔したんだ。グラグラしてた時に早く持って行けば良かったって。
勇気を出して良かった。
「おはよう陽都。朝ご飯どうぞ」
「母さんおはよう」
俺はカバンを置いて椅子に座った。
俺はパンにジャムを塗りながら横に座っている父さんのほうを見た。
「父さん、プリンター、直しといたよ。紙がグチャグチャになって詰まってた。サイズが違うの入れただろ」
「あれ? なんか違うの突っ込んでた? いつもと同じ紙を入れたぞ」
「入ってたのB5だったよ。変なことせず、エラーメッセージちゃんと見てよ」
「へいへい」
まるで悪びれない父さんにあきれながら俺はオレンジジュースを飲んだ。
母さんは俺の前の席に座り、
「昨日もバイトに行ってたの? 部活入らないの? 四月なんだし入るなら良いタイミングじゃない? 走りたいなら部活で走ればいいじゃない?」
「いや、もう部活はいいよ。ちゃんと普通に学校行ってるから良いだろ」
「そうだけど……」
そういって母さんはコーヒーを口に運んだ。うちの母さんは近所のスーパーでパート、父さんはサラリーマンという普通の家庭だ。俺はこの家の一人息子で、正直何不自由なく育ち、中学では陸上部で走っていた。でも正直もう部活には入りたくない。陸上部だった時、盗撮事件があり犯人として疑われた。
真犯人が捕まり濡れ衣は晴れたが、学校がイヤになってしまった。
母さんは最初こそ心配してくれたが、二ヶ月もすると勉強の遅れと、もう中三なのに高校はどうするつもりだと何度も聞くようになった。そして「これ以上学校に行かないと普通の人生が送れなくなる」と言い続けた。
その時に母さんはすげー『普通』に固執してることに気がついた。
たぶん……ばあちゃんが関係してるんだと思う。
ばあちゃんは母さんと正反対、とにかくエキセントリックな人で、それこそ不登校になった俺の首根っこ摑んで繁華街に投げ込んだ人だ。
ばあちゃんは、やることが全て派手で、中一の俺に「一生分のお年玉をやる」って百万くれたこともある。母さんは驚いて返そうとしたが、ばあちゃんは譲らなかった。
曰く「この百万で陽都の人生の方向が見える」。よくわからないけど俺はその百万でずっと欲しかったパソコンと画像加工ソフトを買った。
そのおかげでパソコンに強くなって、得してるのは父さんな気もするけど。
普通の家庭の母さんと父さん、それにエキセントリックなばあちゃんとバイト先、俺はどっちも嫌いじゃない。
「じゃあ行ってきます」
「はい、気をつけて。大丈夫? イジめられてない? 何かあったら早めに言ってね」
「……はいはい」