彼の動揺で、蝶が飛び立ってしまったことも。
歯車が間違った方に嵌ってしまったことも。
この時は、まだなにも。
☆ ☆ ☆
遙海と繫いでいる方とは逆の、つまりは空いている手をポケットに入れて、いつも持ち歩いている彦星のミサンガを一度だけきゅっと強く握ってみた。
本当は、わたしが持っているべきではないものだ。
あの夜に、兄さんが落としてわたしが拾った恋の欠片。
さてここで、とっても重要な情報を開示しよう。
うらしまシンドロームには長期間の睡眠や成長の停止の他にも独特の症状が見られたりするのだけど、その一つが覚醒後の記憶の欠如だ。これにも覚醒までの期間と同じく個人差があるようで、家族のことまで忘れてしまう人もいる一方、兄さんみたいにものすごく局所的な記憶の喪失を経験する人もいるんだとか。
なにについての記憶を失っているのかを、兄さんはまだ気づいていない。
姉さんも知らない。
卑怯なわたしだけが気づき、知っている。
兄さんが〝七年前にあった星逢祭りの記憶〟を失っていること。
それこそが、わたしに残されたか細い蜘蛛の糸だった。
そしてその秘密に間違いがないことが、さっきの兄さんへの告白で確定した。
もし、兄さんが姉さんと付き合っていることを覚えていたのなら、それを理由にわたしの告白を断るはずだから。
そういう融通が利かなくて、律儀で真面目で真摯な人なんだ。
だから、好き。
そういうところも、好き。
「え、溜めが長くない? はよ、その勝ちの目とやらを教えてよ」
痺れを切らした遙海が、隣で唇を尖らせている。
「う~ん、やっぱり内緒」
「なんそれ!?」
「ふふふっ。じゃあ、ヒントだけ。本当の勝負は、次の星逢祭りかな」
さすがに星逢祭りがきてしまったら、二人とも失われている記憶に気づくだろうし。
「ヒントて。クイズじゃねーっつの。でも、星逢祭りか。もうあと二ヶ月切ってんだよね」
廊下のそこここに、催しものに使用されるのであろう段ボールが積まれていた。
生徒会が主導して、星逢祭りでのイベントを企画しているんだとか。
あれらが段ボール以外のなにかに形を変える頃、わたしたちの関係も変わっている、はず。
変わっていればいいな、と思う。
てか、変わっていて。
お願いだから。
「もしさ。もし、星逢祭りがきてあんたが望む結末にならなかったらどうする?」
「今度こそ、わたしの恋は完全に木っ端微塵になっちゃうかもね」
どゆこと? と、首を傾げる遙海に、「ううん。なんでもない」と首を振って答えておく。
それで気持ちを汲んでくれたのか、親友は空気を変えるように明るく笑った。
「ま、これ以上の後悔だけはしないように頑張んな。応援くらいはしたげるから」
「え~、応援だけなの?」
「なーに不満そうに頰を膨らませてるわけ? だったら、今日は帰りにハンバーガーでも奢ってあげよう。セットでポテトとジュースも頼んでいいよん。もち、Lサイズ」
「あ、放課後は無理」
即答すると、遙海の形のいい眉が歪んだ。
「なんでさ?」
「今日は兄さんと帰る約束してるか、らぁ。わぅ、ちょっと」
言い終わる前に遙海がお尻を蹴ってきた。ちょっとちょっと。結構痛いんですけど? 腰の入っている、中々見事な回し蹴りだったんだよね。
「くっそぉ。心配して損した」
「心配してくれたんだ、あんがと。今度、お礼にハンバーガーでもご馳走するよ」
「セットでポテトとジュースをつけるかんね」
「Lサイズでもドンとこいだ」
春の光で溢れる廊下を、手を繫いだまま遙海と歩いていく。
心優しい大好きな親友に感謝しながら、それでもこの手が兄さんだったらよかったのに、なんて不意に思ってしまったわたしはどうしようもなく恋する女の子なんだろう。
伸びる影はもう、子供のものじゃない。
七年前の姉さんと同じくらい大きくなっていた。