よう、と声をかけると彼女はこちらを振り向いた。
「聞いてただろ」
尋ねたところ、一度言葉に詰まる様子を見せたもののすぐにんまり笑って返される。
「違いますよ」
怒っている様子はなく、焦っている声色でもない。
なにも読めないフラットな笑顔。
「聞こえてきたんです。だから私は悪くないです」
「そうかなぁ?」
「ふふっ。そうなんですよ、東雲くん。いえ」
──ユヅくん。
やっぱ、七年は長いよなぁ。
前はなんでも聞けたし、知らないことなんてなにもなかったのにさ。
今は知らないことだらけだ。
彼女がどうして高校の先生なんてもんをやっているのかすら、俺は知らない。
天河千惺。
それは俺の幼馴染で、天河希空の姉で、今は俺たちのクラスの副担で、地学担当で、天文部の顧問もしてもらっている七つ年上の教師の名前。
七年という広大な時間が、かつて誰より近くにいたはずの俺たち二人を遠く隔てていた。
☆ ☆
「だからね、兄さん。あなたが好きです」
背後の部屋でいきなり始まった告白劇にびっくりして思わずぼうっとしていると、頭の少し上のところにあった窓がガラリと音を立てて開き、そこからまだいくらかの幼さを残した男子高校生が顔を出しました。
七年という長い時の中に一人取り残されてしまった、幼馴染のユヅくん。
気が遠くなるほど流れた多くの季節が今、私と彼の間を天の川みたいに隔てています。
「よう、聞いてただろ」
「違いますよ、聞こえてきたんです。だから私は悪くないです」
最初に彼がこうして高校に帰ってきてくれたことに嬉しくなって、次に彼の変わらない姿に胸の真ん中が切なさで痛みます。
と、私と彼を隔てている厚い壁に一匹の蝶が留まりました。
どこにでもいるアゲハ蝶です。
アゲハの持つ意味は、幸運。
ひらひらと羽を上下させています。
じっとじっと見てしまいます。
〝雷に打たれたみたい〟とか、〝探していたパズルのラストピースを見つけた〟、〝胸が火傷しそうなほど熱い〟、〝一緒に見上げた月を綺麗だと思う〟だとか、この世界には数多の先人が残した美しい恋の比喩がありますが、その中でも特に好きな言葉があります。
──お腹の中に蝶がいる。
英語では〝緊張する〟とも表現されるそのフレーズは、欧州の方では恋による胸の高鳴りを表現しているらしいのです。
もう十数年以上も前、その言葉を初めて聞いた私は自分の中に蝶の羽ばたきを感じました。
なんてぴったりな表現なんでしょう。
ほうっと喜びと興奮で思考停止してしまうと、隣にいたユヅくんが顔を覗き込んできましたっけ。大丈夫か、なんて当たり前に手を私の額に当てたりなんかして。ひうっと驚きに耐え切れなくて思わず距離を取ると、「変な奴だな」と嫌な顔一つせず笑っていました。
ああ、好き。
この人のことが大好き。
彼が浮かべる無邪気な笑顔に、やっぱり私の愛しい蝶が羽を動かしています。
その瞬間を迎える前と後とでは、世界の見え方が変わってしまったようでした。
あの時、私は人生で一度きりの〝恋〟に出会ったのです。
それから、ずっと。
中学生になって高校生になっても、私の気持ちは変わっていませんでした。
──お腹の中に蝶がいる。
だから、七年前のあの星逢祭りで私はユヅくんに告白したんです。
もう、どうしたって幼馴染という関係だけでは我慢できませんでしたから。
彼の一番になって、ずっとずっと隣にいたかったから。
けれど、神様は意地悪でした。
願った通り彼の一番にしてもらい、その証でもあるお揃いのミサンガを手にして、念願だったファーストキスを交わし、『次の星逢祭りもまた二人で一緒にいこうね』と約束までした素敵で完璧な夜だったのに、それを一晩で全て台無しにするんですから。
あれから七年、彼は成長することなく最近まで眠り続けていました。
その間、私は彼と二人で通っていた高校を一人で先に卒業し、大学も卒業し、そして社会人になってしまいました。
今の私は先生で、彼は私の生徒。
ねえ、ユヅくん。
それでもあなたの中にいた蝶は、まだそこにいますか?
胸の真ん中に咲く花の上にいますか?
私の蝶はまだ、ここにいますよ。
七年の間、ううん、それより長い時間ずっとずっと飛び立つことはありませんでした。
あなたを今でも愛しています。
☆
それでどうするんですか、と壁に留まっているアゲハをじっと見ていた千惺が呟いた。アゲハは、羽をパタパタと動かすばかりでちっとも飛び立ちそうな気配がない。
「どうって、なにがだよ?」
「希空ちゃんに告白されてたじゃないですか。その返事です」
「聞いてたんじゃなかったのか?」
「いえ、さすがに答えまで盗み聞きするのは悪いので、途中からは耳を塞いでました」
「律儀だな。ちゃんと断ったよ」
なぜか、「うふふふ」と楽しげに笑い出す千惺。
「それはそれは、もったいないことをしましたね。希空ちゃん、とっても美人さんなのに」
「顔のよく似たお前が言うか?」
「でも、本当のことでしょう? ユヅくんは、私たちみたいな顔がタイプじゃないですか」
「……うるせえよ。そういう千惺はどうなんだ? これまでたくさん告白されてきたんじゃないのか? 中には、その。いい男もいたり、とか」
ああ、ついに聞いてしまった。七年ぶりに目覚めてから今日まで、気になって仕方がなかったくせに真実を知るのが怖くて決して口にできなかったことだ。
千惺の手首には俺の知らない織姫のミサンガがあった。
それなりの年月が経っているらしく、所々解れ、もう少しで切れそうだった。
俺以外の誰かと星逢祭りに参加したのか、なんて嫉妬する権利が今もまだあるんだろうか。知りたいと思う。知りたくないと、同じくらい強く思う。
「実は『千惺のことが好きだ』って真剣な目で告白してくれた男の子が一人だけいました」
「……そいつのことが好きなのか」
「はい。私も世界で一番大好きなんです」
千惺は、大切そうに織姫のミサンガに触れながらそんなことを言った。
どこからか、ひどい痛みを伴って胸が軋む音がした。
それは、壁に留まっていた蝶が不意に春の空へ飛んでいく音によく似ていた。
遠く、離れていく。
アゲハが持つ意味は幸運。
あるいは、変化。
☆ ☆
ユヅくんが希空ちゃんの告白を断ってくれたのは、きっと〝まだ私のことが好き〟という気持ちがそこにあるからでしょう。
でなければ、あのユヅくんが希空ちゃんのお願いを断るはずないもの。
だから、私は彼に告げました。
「実は『千惺のことが好きだ』って真剣な目で告白してくれた男の子が一人だけいました」
彼がくれた告白は、もうずっとずっと私の宝物。
その言葉があったから、私はこれまで彼を待ち続けることができたのです。
「……そいつのことが好きなのか」
「はい。私も世界で一番大好きなんです」
前回とは違ってちょっとだけ遠回しな告白でしたけど、これできっと伝わるはずです。そうですよね? 彼が想いを交わしたあの夜のことを忘れているわけがない。私にとっては七年も前のことでも、ユヅくんにとってはまだほんの少し前の出来事なんですから。
なんだか恥ずかしくて照れくさくて、私は彼の顔を直接見れません。
そのせいで、気づかなかったんです。
いいえ、気づけなかった。
ユヅくんが痛みに耐えるように、歯を食いしばっていることも。