第一話 兄さんが好きなの、と彼女は言った。 ⑤

 よう、と声をかけると彼女はこちらをいた。


「聞いてただろ」


 たずねたところ、一度言葉にまる様子を見せたもののすぐにんまり笑って返される。


ちがいますよ」


 おこっている様子はなく、あせっているこわいろでもない。

 なにも読めないフラットながお


「聞こえてきたんです。だから私は悪くないです」

「そうかなぁ?」

「ふふっ。そうなんですよ、しののめくん。いえ」


 ──ユヅくん。


 やっぱ、七年は長いよなぁ。

 前はなんでも聞けたし、知らないことなんてなにもなかったのにさ。

 今は知らないことだらけだ。

 彼女がどうして高校の先生なんてもんをやっているのかすら、俺は知らない。

 あまかわ

 それは俺のおさなじみで、あまかわの姉で、今は俺たちのクラスの副担で、地学担当で、天文部のもんもしてもらっている七つ年上の教師の名前。

 七年という広大な時間あまのがわが、かつてだれより近くにいたはずの俺たち二人を遠くへだてていた。


   ☆ ☆


「だからね、兄さん。あなたが好きです」


 背後の部屋でいきなり始まった告白劇にびっくりして思わずぼうっとしていると、頭の少し上のところにあった窓がガラリと音を立てて開き、そこからまだいくらかの幼さを残した男子高校生が顔を出しました。

 七年という長い時の中に一人取り残されてしまった、おさなじみのユヅくん。

 気が遠くなるほど流れた多くの季節が今、私と彼の間を天の川みたいにへだてています。


「よう、聞いてただろ」

ちがいますよ、聞こえてきたんです。だから私は悪くないです」


 最初に彼がこうして高校となりに帰ってきてくれたことにうれしくなって、次に彼の変わらない姿に胸の真ん中が切なさで痛みます。

 と、私と彼をへだてている厚いかべに一匹のちようが留まりました。

 どこにでもいるアゲハちようです。

 アゲハの持つ意味は、幸運。

 ひらひらと羽を上下させています。

 じっとじっと見てしまいます。

かみなりに打たれたみたい〟とか、〝探していたパズルのラストピースを見つけた〟、〝胸が火傷やけどしそうなほど熱い〟、〝一緒に見上げた月を綺麗だと思う月が綺麗ですね〟だとか、この世界には数多あまた先人しじんが残した美しいこいがありますが、その中でも特に好きな言葉があります。


 ──お腹の中に蝶がいるavoir des papillons dans le ventre


 英語では〝きんちようする〟とも表現されるそのフレーズは、おうしゆうの方ではこいによる胸の高鳴りを表現しているらしいのです。

 もう十数年以上も前、その言葉を初めて聞いた私は自分の中にちようの羽ばたきを感じました。

 なんてぴったりな表現なんでしょう。

 ほうっと喜びと興奮で思考停止してしまうと、となりにいたユヅくんが顔をのぞき込んできましたっけ。だいじようか、なんて当たり前に手を私の額に当てたりなんかして。ひうっとおどろきにえ切れなくて思わずきよを取ると、「変なやつだな」といやな顔一つせず笑っていました。

 ああ、好き。

 この人のことが大好き。

 彼がかべるじやがおに、やっぱり私のいとしいこころが羽を動かしています。

 そのしゆんかんむかえる前と後とでは、世界の見え方が変わってしまったようでした。

 あの時、私は人生で一度きりの〝こい〟に出会ったのです。

 それから、ずっと。

 中学生になって高校生になっても、私の気持ちは変わっていませんでした。


 ──お腹の中に蝶がいるあなたが好きです


 だから、七年前のあのほしあい祭りで私はユヅくんに告白したんです。

 もう、どうしたっておさなじみという関係だけではまんできませんでしたから。

 彼の一番になって、ずっとずっととなりにいたかったから。

 けれど、神様は意地悪でした。

 願った通り彼のこいびとにしてもらい、そのあかしでもあるおそろいのミサンガを手にして、念願だったファーストキスをわし、『次のほしあい祭りもまた二人でいつしよにいこうね』と約束までしたてきかんぺきな夜だったのに、それを一晩で全て台無しにするんですから。

 あれから七年、彼は成長することなく最近までねむり続けていました。

 その間、私は彼と二人で通っていた高校を一人で先に卒業し、大学も卒業し、そして社会人になってしまいました。

 今の私は先生で、彼は私の生徒。

 ねえ、ユヅくん。

 それでもあなたの中にいたちようは、まだそこにいますか?

 胸の真ん中にく花の上にいますか?

 私のちようはまだ、ここにいますよ。

 七年の間、ううん、それより長い時間ずっとずっと飛び立つことはありませんでした。

 あなたを今でも愛しています。




   ☆


 それでどうするんですか、とかべに留まっているアゲハをじっと見ていたつぶやいた。アゲハは、羽をパタパタと動かすばかりでちっとも飛び立ちそうな気配がない。


「どうって、なにがだよ?」

ちゃんに告白されてたじゃないですか。その返事です」

「聞いてたんじゃなかったのか?」

「いえ、さすがに答えまでぬすきするのは悪いので、ちゆうからは耳をふさいでました」

りちだな。ちゃんと断ったよ」


 なぜか、「うふふふ」と楽しげに笑い出す


「それはそれは、もったいないことをしましたね。ちゃん、とっても美人さんなのに」

「顔のよく似たお前が言うか?」

「でも、本当のことでしょう? ユヅくんは、私たちみたいな顔がタイプじゃないですか」

「……うるせえよ。そういうはどうなんだ? これまでたくさん告白されてきたんじゃないのか? 中には、その。いい男もいたり、とか」


 ああ、ついに聞いてしまった。七年ぶりに目覚めてから今日まで、気になって仕方がなかったくせに真実を知るのがこわくて決して口にできなかったことだ。

 の手首にはおりひめのミサンガがあった。

 それなりの年月がっているらしく、所々ほつれ、もう少しで切れそうだった。

 ほしあい祭りに参加したのか、なんてしつする権利が今もまだあるんだろうか。知りたいと思う。知りたくないと、同じくらい強く思う。


「実は『のことが好きだ』ってしんけんな目で告白してくれた男の子が一人だけいました」

「……そいつのことが好きなのか」

「はい。私も世界で一番大好きなんです」


 は、大切そうにおりひめのミサンガにれながらそんなことを言った。

 どこからか、ひどい痛みをともなって胸がきしむ音がした。

 それは、かべに留まっていたちようが不意に春の空へ飛んでいく音によく似ていた。

 遠く、はなれていく。

 アゲハが持つ意味は幸運。

 あるいは、


   ☆ ☆


 ユヅくんがちゃんの告白を断ってくれたのは、きっと〝まだ私のことが好きと付き合つている〟という気持ちがそこにあるからでしょう。

 でなければ、あのユヅくんがちゃんのお願いを断るはずないもの。

 だから、私は彼に告げました。


「実は『のことが好きだ』ってしんけんな目で告白してくれた男の子が一人だけいました」


 彼がくれた告白は、もうずっとずっと私の宝物。

 その言葉があったから、私はこれまで彼を待ち続けることができたのです。


「……そいつのことが好きなのか」

「はい。私も世界で一番大好きなんです」


 前回とはちがってちょっとだけ遠回しな告白でしたけど、これできっと伝わるはずです。そうですよね? 彼が。私にとっては七年も前のことでも、ユヅくんにとってはまだほんの少し前の出来事なんですから。

 なんだかずかしくて照れくさくて、私は彼の顔を直接見れません。

 そのせいで、気づかなかったんです。

 いいえ、気づけなかった。

 ユヅくんが痛みにえるように、歯を食いしばっていることも。