私は、ベッドで眠ったことがない。
布団を庭の物干し竿に干して、お日さまの光をたくさん浴びせたことはある。夕陽が沈む前に、急いで取り入れたことだって。
でも、ベッドに敷き直した白い布団の感触を知らない。
想像するとドキドキする。横になったら、どんなにふわふわするんだろう。
「なに、ぼーっとしてるの?」
ぱちりと目蓋を開く。何度か瞬きをする。
膜が張ったように見えるのは、ベッドに横になっている彼女の視界が、まだ明瞭じゃないからだ。
「ごめん。おはよう」
挨拶に返事はない。
こちらを見ないまま、猫を追い払うようにしっしと片手を振られる。
「二日目でだるい。行ってきて」
どうりで、と納得した私は「分かった」と頷く。
部屋を出て、まずは一階の洗面台に向かう。この時間帯なら誰もいないのは分かっているけれど、足音を殺すのはもう癖になっている。
ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗って、歯を磨く。このあたりで頭がすっきりと冴えてくる。
磨かれた鏡の中から見返してくるのは、茶色い髪の少女だ。
せまい額と細い眉毛。ぱっちりとした二重まぶたに、長い睫毛に縁取られた大きくて丸い瞳。
形のいい鼻、桜色の小さな唇。猫みたいにしなやかな手足と、均整の取れた身体。
人によってかわいい、あるいはきれいと形容するだろう魅力的な女の子から、私は目を逸らし、濡れた口元を新品のタオルで軽く拭う。
水気が取れたあとは、化粧水、美容液、クリームの順に肌に塗り込んでいく。
最後に日焼け止めクリームを、顔と首回り、手足に塗る。必要最低限の量にするよう言われているけれど、私だって女だからどうしてもスキンケアは気にしてしまう。
ヘアブラシで念入りに長い髪を撫でつけたら、ブラシについた髪の毛を丹念に取ってごみ箱に捨てておく。すべて借り物なのだから、注意深く使わなくてはならない。
ついでにキッチンに立ち寄り、水切りかごに並んだコップ二つをひっくり返すと、それぞれに蛇口から水を入れる。ごくんと飲み干すのが、私の朝ご飯代わりだ。
コップと鎮痛剤。それにお弁当の入った巾着を手に、彼女の部屋に取って返す。
もぞもぞと、丸まった布団の山が動く。そこから小さな顔だけが現れる。
鏡の中の誰かさんと、おんなじ顔のその子が。
「朝ご飯なに?」
「今日は和風みたい。白米、鮭の切り身、大根の味噌汁、卵焼き、それと」
「もういい」
うんざりしたように遮られる。愛川家の朝食はどうやら二種類らしい。和風か洋風のどちらかで、和風が多め。ちょっとした違いはあるけれど、基本的に副菜の種類は変わらないみたい。
ドラッグストア薬剤師のお母さんは、鶏も眠っている早朝に起きて、朝ご飯の支度を済ませてから職場に向かう。夜のはじめ頃に帰ってきたら、てきぱきと夕食の準備をしている。
私はお母さんの顔より、エプロンをつけた背中を見ることのほうが多い。
起き上がった彼女は、ひったくるように私の手からコップと薬を奪う。
本当は胃が荒れるから、何かお腹に入れてから飲むほうがいい。それに、どうせなら胃を満たしてから呼んでくれたほうが、私も助かる。
でも私が小言を言うのを彼女は嫌う。だから私は、クリーム色の壁のほうを向いている。
「いいね、あんたは。血が出るだけで痛みなんか感じなくて」
「うん」
大人しく相槌を打つ私を、彼女は煩わしげに見ている。
中身を半分残した水と、空っぽになった包装ケースを受け取る。またキッチンとの往復だ。
二階の部屋に戻ったら、隅っこでこそこそとパジャマの上下を脱ぐ。
脱いだパジャマは畳んでベッドの下に隠し、壁に取りつけられたハンガーからアイロンをかけた制服を外す。
白シャツに、チェック柄のプリーツスカート。胸元にはターコイズブルーのリボン。SNSでもかわいいと評判になったことのある制服。冬服はこれに紺色のブレザーもつく。
彼女は制服デザインにつられて、今の高校を受験した。
私も、このキュートな制服が好き。
着るだけで意識がしゃっきりして、背筋を伸ばして歩きたくなる。
「ナプキン四枚もらうね」
やっぱり返事はない。私相手に、いちいち口を開くのも億劫なのだろう。
念のため、筆箱に入っている折りたたんだ時間割表を見ながら、スクールバッグに詰めてある教科書とノート類を確認する。
前に呼びだされたのは五日前だった。再来週には期末試験を控えている。今回もいい点数を取らなくてはならない。
支度を終えたところで、ベッドに向かって声を投げる。
「スマホは?」
ハァ、と大きな溜め息が返ってくる。
差しだした手のひらの上に見慣れたスマホが載せられる。パウダーピンクの、シンプルなスマホケース。
最新スマホはほんのりと温かい。布団の中でいじっていたのだろう。
「行ってきます。部屋の鍵はちゃんと閉めてね」
返事がないのはいい加減、分かりきっている。他に何か言いつけられる前に部屋を出た。
廊下の奥にあるトイレに寄って、ナプキンを取り替える。階段を下りつつスマホの天気アプリで、今日は朝から晩まで晴れ予報だと確認してから電源を落とす。
時刻は午前七時半。
ローファーを履こうとして、踵が履きつぶしてあるのに気がついた。私は大切に使ってるのにな、と少しがっかりする。堅い革はつぶしてしまうと、靴底から新しくしないといけない。
私がお母さんに進言してもいいけど、勝手なことをするとまた彼女に