第1話 レプリカは、夢を見ない。 ②

 セカンドと名づけられた私の役目は、なおの代わりに学校に行くこと。

 だれも、私がなおのニセモノだとは気がつかない。本物のなおが部屋ですやすやとねむっていることなんて、知るよしもない。

 すれちがう近所のおばさんにあいさつをして、ぐんぐんと速度を上げる。犬の散歩をするおじいちゃんをしていく。全身もじゃもじゃのヨークシャーテリア。よろよろとした足取りは、おじいちゃんよりも危なっかしい。どうか今年の夏もえられますように。

 からからとホイールが回る。タイヤにやや空気が足りていない感じ。ギアをえても思ったほど速度が出ない。家に帰ったら空気を入れておかないと、と頭の中に予定を刻みつけておく。

 からからとホイールは、回る。

 見慣れた景色が前から後ろへと流れていく。

 ちょうど信号が変わったのでブレーキを使わず道路を横断。しずおかおおはしそうされた自転車道を上っていく。山からの強風がくので、ギアを下げてぎしないと車体がちっとも前に進まない。

 私が四苦八苦する間にも、ひゅんひゅんともうれつなスピードで右横を車が通り過ぎていく。タイヤに空気がたっぷりまっていても、私が生理じゃなくても、車にはかなわない。なおも、きっとおんなじ。

 二日前の雨で増水したらしいかわと、正面のさんこうに見ながら橋をわたりきる。白い粉砂糖みたいな雪を頭のてっぺんに乗せたさんは、今さらものめずらしくもないけれど、五日前は灰色の空におおわれて見えなかったものだから、久しぶりとほおゆるめてしまう。

 この難所を乗り切れば、あとはへいたんな道ばかり。今日は二回まででといのっていたけれど、信号には三回かってしまった。

 クラスメイトは私服警官にしょっちゅうつかまっているので、私は黄色いきつを切られないよう、信号がちかちかとてんめつしたときには早めのブレーキをかけている。

 はんないようが書かれたきつせいしきめいしようは自転車指導警告カードと呼ばれるそれを切られた場合、教室の後ろの黒板にりつけていくルールだ。くんしようみたいに十五枚も集めている男子がいたけれど、最下位のクラスは全校集会でさらされるらしいとうわさが流れてから、みんな学校が近づいてくると自転車の速度を心持ちゆるめるようになった。

 ようやく学校の裏門にとうちやくほらあなみたいに大きなちゆうりんじように、他の自転車にはさまれながら勢いよくなだれ込み、ブレーキをかける。自転車から降りる頃には、両足のふくらはぎにここよいをとおしただるろうかんまっている。

 なおの家から学校までは約九キロ。自転車で毎日とうするには、やや長めのきよだ。

 私は調子がいいと三十五分、調子が悪いと五十分ほどで九キロをける。調子がいい、には体調面以外にも、具体的には橋の上の向かい風と、信号機の色合いがえいきようしている。

 今日の記録は体感だと四十二分くらい。電源を落としたスマホにいちいちしゆを聞いたりはしない。

 ミニタオルであせぬぐう。が明ければ、本格的な夏がとうらいする。これくらいのあせでは済まなくなる。

 同じ服を着た少年少女がごった返しになったしようこうぐちで、かかとになったローファーをうわぐつえる。こちらのかかとだいじようそうでほっとした。厳しい先生たちに目をつけられないよう、なおも用心しているのだろう。


「おはよー」

「おはよ、ってあせくさーい」

「なにおー!」


 とんとんとやっていると、ふざけてう女の子たちの声が、耳のまくをほのかにらす。

 しようこうぐちよこの階段を上ってすぐが、なおの所属する二年一組の教室だ。

 私はおはよう、と言いながら教室に入る。生徒はまだ十五人くらい。そのうち、こっちを見た顔はほとんど男子のものだ。こちらを見ていた女子は、実体のないあいまい微笑ほほえみをかべる。

 まばらに返ってくるあいさつに片方の耳だけかたむけながら、まどぎわ後ろの席についた。

 カーテンは引いてあったけれど、全開の窓から入り込んでくる風に押されて、少しずつレールの上をすべっていく。私の机の上にも太陽の光がしてきて、うんざりしてそっぽを向く。あせでぺたりとほおに張りついたかみを、なだめるように風がく。

 スピーカーの横にはエアコンがついているのに、その口がかぱりと開いたところは一度も見たことがない。

 る生徒たちに担任の先生が説明するには、うちの高校のエアコンは市からの借り物だとかで、動かすには市のえらい人からちくいち許可をもらわないといけないらしい。

 でも今日はこれくらい暑いので使いたいです、と今日伝えたって、数分で許可が下りたりはしない。きよしんせいしよはお役所の中をたらい回しにされてしまう。宝のぐされだ。

 私たちがえた犬のように舌をぺろんとばして、冷えた引きだしに両手を張りつかせているときも、おえらいさんたちはすずしい部屋で快適に過ごしているのだろう。

 ちなみに職員室では、いつだって二台のエアコンがフルどうしている。先生たちがいなければ真夏のオアシス。前提が前提なので、だれも寄りつかないしんろう

 机にほおづえをつく。ホームルーム前の時間は、だるくて、ひまだ。

 五分でも十分でも、空いた時間があれば飛びつくようにして会話するような友達は、クラスにひとりもいない。一年生のとき仲の良かった子たちとはクラスえで分かれてしまって、空気穴のようなすきのあるグループも見当たらなかったものだから、なおはこのクラスで、ひとりで過ごすことを選んだ。もちろん私も。

 だから私はチャイムが鳴るまでのな時間を、教室内を観察して消費している。

 地上をこうこうと照らす太陽がこんがりと焼いた、みたいな正方形の箱の中。口を動かしている同じ年のクラスメイトたちは、ぶたがとろとろとまどろんでいる。

 暑いと判断能力がにぶるというか、分かりやすくトーク力が下がっていく。みんな、したきで自分の顔をあおいだり、窓の手すりにれてりようを取ろうとしている。早くもすいとうの中身を飲み干してしまい、教室前の水道に走り込む男子もいる。

 ながめているとどうにも、私までねむくなってくる。あくびを片手の中でこぼすと、耳の穴にじわじわと、生温かいお湯が入り込んでくる気がした。


◇◇◇


 授業が終わり放課後になると、とたんに空気がゆるむ。

 私がぐっとびをする間に、大きな部活バッグをかかえるようにして、ぱたぱたとせわしない足音を立てて数人が教室を出て行く。

 私もこのあとは、彼らと同じように部活動へと向かう予定だ。

 文芸部が、なおの所属している部活。特別な理由がない限り部活動への参加は校則でいられているから、なおいたかたなくゆうれいになりやすい地味な文化系の部をせんたくした。

 それが文芸部だったのはぐうぜんに過ぎなかったが、私にとってはぎようこうだった。なおちがって、私は読書が好きなのだ。

 だから部活動くらいはなおじゃなくて、私自身が所属している部だと思っていたい。結局、入部届を書いたのは私ではなくても。

 スクールバッグに教科書とノートをめ、後ろとびらから出ようとしたところで、黒板の右下に目が留まった。