そこに、自分のものよりも馴染みのある名前が、掠れた字で書いてある。
「あ」
気がついていなかった。今日、素直は日直当番だったのだ。
日直の仕事は、細かくいろいろあるが基本的には四つだけ。
毎時間の黒板消しと、移動教室の際の施錠と、学級日誌の作成と、放課後の教室の戸締まりだ。生理痛と日直当番のダブルコンボに苛立って素直は私を呼んだのだと、そのときになってやっと分かった。
授業後の黒板消しは、五時間目までは同じく日直だった男子生徒が何も言わず担当してくれたらしい。その代わりというように彼の姿はもう教室にはなかったし、黒板には英会話の板書がきれいに残ったままになっていて、教卓には手つかずの学級日誌が待ちぼうけになっている。
制服の裾を引っ張られたような気分になって、後ろめたい私は日直の仕事を全うすることにした。
まずは汚れた黒板消しをクリーナーに押し当てて、白いチョークの粉をめいっぱい吸ってもらう。へにゃりとしたバンドに手を通したら、教壇に立ち、上から下に向かうように背伸びをして黒板をなぞっていく。
でも意外に広くて長い黒板を埋め尽くすように書かれた文字列は、そう簡単には消えてくれない。
教室には、背面黒板の分と合わせて三つの黒板消しがある。両手にひとつずつ装着して黒板と格闘する自分を想像してみるものの、むしろ効率が下がるような気がしてくる。
「左半分、やるよ」
そう思っていたとき、背後から低い声がした。
声をかけられたのは、私じゃないだろう。そう思いつつも念のため振り返ってみて、呼吸を止めた。
声の主は、真田秋也だった。
黒くて凜々しい眉。一重の鋭い目に、がっしりとした肩。
頭を支える太い首。顔立ちは精悍に整っているのに、一目見てまず怖いと思ってしまうのは、彼が愛想のひとかけらもない仏頂面を下げているからだ。
私は彼と話したことがない。素直も、一度もないみたい。
でも噂はよく聞く。入学時からバスケ部で頭角を現し、強豪校との練習試合ではほとんどの得点を彼が決めたそうだ。
彼を擁するバスケ部は我が校始まって以来初となるインターハイ出場に王手をかけていた。インターハイの舞台でもスーパースターになれる逸材だと騒がれ、周りの人はみんな、彼の将来に期待していた。だけど……。
「大変そうだから」
気もそぞろな私は、いちいち彼の言葉に反応が遅れてしまう。
真田くんはバンドに手を通さず、黒板消しをがっちりと握り込むみたいにして動かしている。一見、乱暴そうに見える手つきなのに、彼に操られる黒板消しは緩やかな海を泳ぐように滑らかに動き回っている。
私はその手つきに気を取られながら、どうにか口を動かした。
大変そうだからと手伝ってもらえるような、素直と真田くんはそんな間柄ではなかったから。
「でも、忙しいでしょ?」
「俺、今は部活やってないし」
私は、藪をつついてしまった。時間を巻き戻したい、とできもしないことを考える。
「いいから手、動かして」
「あ、うん」
止まっていた手を動かす。上から下、上から下。慎重に下る私を、二周目の彼が追い越していく。
ちらりと目だけを向ける。平静な横顔に苦悶の色はなかったが、彼は私に話しかけてきたときからずっと、身体の左側に重心を置いている。
私の心配とは裏腹に、順調すぎるほど順調に、物言わぬ平たい黒板は生まれた頃のような美しさを取り戻していった。ただし、それは左側だけだ。おざなりな私に面倒を見られた右側は、羨ましげに横目で隣を眺めている。
最後に、右隅に書かれた愛川素直と男子生徒の名前を消して、次の当番二人の名前を書く。
役目は終わったとばかりに真田くんが教壇を降りていく。かつかつ、と白いチョークの先っぽでクラスメイトの名前を書きながら、私は大きな背中に声をかけた。
「あ、ありがとう」
掠れた声で口にする。聞こえていたかは分からない。
真田くんが教室を出て行くと、私はひとりきりになった。
まだ明るい窓の外から、運動部の練習する声が聞こえる。近いようで遠い場所では、かきん、と小気味よい音。バットの芯が球を捉えたらしい。
私は学級日誌を持って席につき、筆箱からシャープペンを取りだした。
かちかち、をそっくり三回繰り返したところで、役目を思いだしたようにシャー芯が顔を見せる。私はくたびれた日誌に今日の日付や天気、時間割を記入していく。
備考欄には原則、その日の出来事で教師やクラスに報告すべき内容を書くことになっているが、今までのやり取りを振り返ると、担任の先生としりとりをしている生徒や、絵で埋めている生徒もいる。つまり、好き勝手に書いてしまえばいい。
私は、考える前にそこに一文字目を書いていた。
日直の仕事をしていると、私が大変そうだからと、真田秋也くんが黒板を消すのを手伝ってくれました。
素直の記憶によると、二日前に真田くんは学校に戻ってきたばかりのようです。
彼は黒板消しの達人で、おかげで黒板はぴかぴかになりました。
でも本当は、私に親切にしてもらえる資格はないのです。
私は、入院していた彼をお見舞いに行こうとすら思いつかなかったのですから。
そこまで書いて、ぜんぶ消した。
◇◇◇
消しゴムの跡で引きつれてしまった学級日誌を連れて、私は教室を施錠した。
階段を下り、職員室に日誌と鍵を返したあとは、廊下の突き当たりまで歩けば部室に到着する。
文芸部の部室は狭い。以前は物置きとして使われていた部屋を、顔も知らない先輩たちが学校側に交渉し、部室として改良していったそうだ。
彼らは私を知らない。でも私は彼らの名前や作品を知っている。文化祭のたびに文芸部が発行してきた部誌は、創刊号からだいたいが保管されているからだ。
そこには彼らの書いた短編小説や詩、コラムなどが掲載されていた。添えられたイラストはアニメチックなものもあれば、水彩で本格的に描かれた花や植物もあった。紫陽花やころころしたみかんを眺めるたびに、白黒印刷なのを残念に思った。
「あ、先輩。お疲れ様でーす」
「りっちゃん、おはよ」
がらりとドアを開けると、間延びした挨拶に出迎えられる。
広中律子。一学年下の女の子。縁の丸い眼鏡をかけていて、前髪はきっちりと校則規定の黒いピンで留めている。ニキビひとつもないツルツルのおでこは、つるんと剝いた茹で卵みたい。
向かいのパイプ椅子に座る私に、くふふ、とりっちゃんが変な笑い声を上げる。
「いつも思うけど。おはよって、業界人っぽい」
「でもこんにちはだと、なんか堅苦しくない? こんばんはには早いし」
「そうですかねぇ」
おはよう、はいちばん柔らかい。卵をたっぷり使ったシフォンケーキに似ている。
こんにちは、はちょっと固めに作ってしまった目玉焼き。白身も焦げて、黄身はとろとろの半熟とほど遠い。
りっちゃんのおでこを眺めて、私は卵のことばかり考えている。
「そうだ先輩、新作読んでください。まだ途中なんですけど」
「いいよー」
「やったぁ」
薄くニスが塗られた長机は、同じ大きさの台が向かい合わせに合体してある。そこにりっちゃんがいそいそと原稿用紙の束を置いた。