第1話 レプリカは、夢を見ない。 ③

 そこに、自分のものよりもみのある名前が、かすれた字で書いてある。


「あ」


 気がついていなかった。今日、なおは日直当番だったのだ。

 日直の仕事は、細かくいろいろあるが基本的には四つだけ。

 毎時間の黒板消しと、移動教室の際のじようと、学級日誌の作成と、放課後の教室のまりだ。生理痛と日直当番のダブルコンボにいらってなおは私を呼んだのだと、そのときになってやっと分かった。

 授業後の黒板消しは、五時間目までは同じく日直だった男子生徒が何も言わず担当してくれたらしい。その代わりというように彼の姿はもう教室にはなかったし、黒板には英会話の板書がきれいに残ったままになっていて、きようたくには手つかずの学級日誌が待ちぼうけになっている。

 制服のすそを引っ張られたような気分になって、後ろめたい私は日直の仕事を全うすることにした。

 まずはよごれた黒板消しをクリーナーに押し当てて、白いチョークの粉をめいっぱい吸ってもらう。へにゃりとしたバンドに手を通したら、きようだんに立ち、上から下に向かうようにびをして黒板をなぞっていく。

 でも意外に広くて長い黒板をくすように書かれた文字列は、そう簡単には消えてくれない。

 教室には、背面黒板の分と合わせて三つの黒板消しがある。両手にひとつずつ装着して黒板とかくとうする自分を想像してみるものの、むしろ効率が下がるような気がしてくる。


「左半分、やるよ」


 そう思っていたとき、背後から低い声がした。

 声をかけられたのは、私じゃないだろう。そう思いつつも念のためかえってみて、呼吸を止めた。

 声の主は、さなしゆうだった。

 黒くてしいまゆ。一重の鋭い目に、がっしりとしたかた

 頭を支える太い首。顔立ちはせいかんに整っているのに、一目見てまずこわいと思ってしまうのは、彼があいのひとかけらもないぶつちようづらを下げているからだ。

 私は彼と話したことがない。なおも、一度もないみたい。

 でもうわさはよく聞く。入学時からバスケ部で頭角を現し、きようごうこうとの練習試合ではほとんどの得点を彼が決めたそうだ。

 彼をようするバスケ部はこう始まって以来初となるインターハイ出場に王手をかけていた。インターハイのたいでもスーパースターになれるいつざいだとさわがれ、周りの人はみんな、彼の将来に期待していた。だけど……。


「大変そうだから」


 気もそぞろな私は、いちいち彼の言葉に反応がおくれてしまう。

 さなくんはバンドに手を通さず、黒板消しをがっちりとにぎむみたいにして動かしている。一見、乱暴そうに見える手つきなのに、彼にあやつられる黒板消しはゆるやかな海を泳ぐようになめらかに動き回っている。

 私はその手つきに気を取られながら、どうにか口を動かした。

 大変そうだからと手伝ってもらえるような、なおさなくんはそんな間柄ではなかったから。


「でも、いそがしいでしょ?」

「俺、今は部活やってないし」


 私は、やぶをつついてしまった。時間をもどしたい、とできもしないことを考える。


「いいから手、動かして」

「あ、うん」


 止まっていた手を動かす。上から下、上から下。しんちように下る私を、二周目の彼がしていく。

 ちらりと目だけを向ける。平静な横顔にもんの色はなかったが、彼は私に話しかけてきたときからずっと、身体からだの左側に重心を置いている。

 私の心配とは裏腹に、順調すぎるほど順調に、物言わぬ平たい黒板は生まれたころのような美しさをもどしていった。ただし、それは左側だけだ。おざなりな私にめんどうを見られた右側は、うらやましげに横目でとなりながめている。

 最後に、みぎすみに書かれたあいかわなおと男子生徒の名前を消して、次の当番二人の名前を書く。

 役目は終わったとばかりにさなくんがきようだんを降りていく。かつかつ、と白いチョークの先っぽでクラスメイトの名前を書きながら、私は大きな背中に声をかけた。


「あ、ありがとう」


 かすれた声で口にする。聞こえていたかは分からない。

 さなくんが教室を出て行くと、私はひとりきりになった。

 まだ明るい窓の外から、運動部の練習する声が聞こえる。近いようで遠い場所では、かきん、と小気味よい音。バットのしんが球をとらえたらしい。

 私は学級日誌を持って席につき、筆箱からシャープペンを取りだした。

 かちかち、をそっくり三回かえしたところで、役目を思いだしたようにシャーしんが顔を見せる。私はくたびれた日誌に今日の日付や天気、時間割を記入していく。

 こうらんには原則、その日の出来事で教師やクラスに報告すべき内容を書くことになっているが、今までのやり取りをかえると、担任の先生としりとりをしている生徒や、絵でめている生徒もいる。つまり、好き勝手に書いてしまえばいい。

 私は、考える前にそこに一文字目を書いていた。


 日直の仕事をしていると、私が大変そうだからと、さなしゆうくんが黒板を消すのを手伝ってくれました。

 なおおくによると、二日前にさなくんは学校にもどってきたばかりのようです。

 彼は黒板消しの達人で、おかげで黒板はぴかぴかになりました。

 でも本当は、私に親切にしてもらえる資格はないのです。

 私は、入院していた彼をおいに行こうとすら思いつかなかったのですから。


 そこまで書いて、ぜんぶ消した。


◇◇◇


 消しゴムのあとで引きつれてしまった学級日誌を連れて、私は教室をじようした。

 階段を下り、職員室に日誌とかぎを返したあとは、ろうたりまで歩けば部室にとうちやくする。

 文芸部の部室はせまい。以前は物置きとして使われていた部屋を、顔も知らないせんぱいたちが学校側にこうしようし、部室として改良していったそうだ。

 彼らは私を知らない。でも私は彼らの名前や作品を知っている。文化祭のたびに文芸部が発行してきた部誌は、創刊号からだいたいが保管されているからだ。

 そこには彼らの書いた短編小説や詩、コラムなどがけいさいされていた。えられたイラストはアニメチックなものもあれば、すいさいで本格的にえがかれた花や植物もあった。紫陽花あじさいやころころしたみかんをながめるたびに、白黒印刷なのを残念に思った。


「あ、せんぱい。おつかさまでーす」

「りっちゃん、おはよ」


 がらりとドアを開けると、間延びしたあいさつむかえられる。

 ひろなかりつ。一学年下の女の子。ふちの丸い眼鏡をかけていて、まえがみはきっちりと校則規定の黒いピンで留めている。ニキビひとつもないツルツルのおでこは、つるんといたたまごみたい。



 向かいのパイプに座る私に、くふふ、とりっちゃんが変な笑い声を上げる。


「いつも思うけど。おはよって、業界人っぽい」

「でもこんにちはだと、なんかかたくるしくない? こんばんはには早いし」

「そうですかねぇ」


 おはよう、はいちばんやわらかい。卵をたっぷり使ったシフォンケーキに似ている。

 こんにちは、はちょっと固めに作ってしまった目玉焼き。白身もげて、黄身はとろとろの半熟とほど遠い。

 りっちゃんのおでこをながめて、私は卵のことばかり考えている。


「そうだせんぱい、新作読んでください。まだちゆうなんですけど」

「いいよー」

「やったぁ」


 うすくニスがられた長机は、同じ大きさの台が向かい合わせに合体してある。そこにりっちゃんがいそいそとげん稿こうようの束を置いた。