第1話 レプリカは、夢を見ない。 ⑧

 職員室を出ると、ちょうど八秒くらいで無敵のヴェールはあつなくがれてしまう。つかの間の夢を見ていた頭のてっぺんからつま先まで、元の世界にあつなくもどされてしまう。

 名残なごりしそうに、さなくんがシャツを持ち上げてぱたぱたと動かしている。ここにはもう、生ぬるい空気だけが居残っている。

 ささくれ立った心のまま、部室にもどりたくはなかった。


「図書室、寄っていっていい?」


 職員室のとなり。つまり文芸部室と職員室の間にあるのが図書室だ。

 もとは物置きだったといえども、これだけの好立地をかくとくできたせんぱいたちを私は尊敬している。多くの学生にとって職員室のご近所はばつゲームに近い位置取りかもしれないけれど、図書室を利用するひんが高い私にはありがたい。


「分かった」


 開け放たれたドアから入室する。顔見知りの司書さんと、本を借りる上級生の姿が目に入った。

 ちらっと本の背表紙をかくにんする。なみアサの『しゃぼん玉』。どんな本なのかタイトルだけだと分からない。今度読んでみようかな。

 図書室の利用者はだんから少ない。職員室の半分くらいのサイズの部屋にはところせましとほんだなが置かれているが、ここで同時に五人以上の生徒を見たことはない。授業で調べ物ができたときは、テーブルがまるくらいの生徒であふれたりもするけれど、そういうときの図書室は雑多な物音であふれていて、なんだか知らない場所のように感じる。

 かべに沿うように並ぶほんだなわきを歩いて行く。通学路と同じくらい通い慣れた小道。黄ばんだ本の香りに囲まれていると、すさんでいた気持ちがいでいく。

 私は現在、近代日本文学作品をローラー中だ。あくたがわりゆうすけざいおさむぐちいちようさかぐちあんだれでも名前や作品名をひとつは知っているような、ちようちようゆうめいな作家たちの作品を読みまくっている。

 今とは名前のちがう時代に書かれた作品は、意味の分からない言葉が出てくることも多くて、部室に置いてあるこうえんや国語辞典によくお世話になっている。本によっては単語の解説が後ろにまとめられていたりもするけれど、解説の中にも分からない単語があると、辞書を開かずには読み進められなくなる。ぺらぺらと分厚い辞書をめくって、単語を指で辿たどる時間や、目についた言葉にこころうばわれてふける時間が好きだから、電子辞書は授業以外では使わない。

 近代日本文学の前は何ローラーしていたかというと、海外推理小説ローラー。その前は現代文学ローラー。有名な作品や気になった作品をいくつか手に取っただけだから、その方面に一気に明るくなったわけではない。

 私が本を読むスピードよりも、一冊の本が世に生みだされるスピードのほうがずっと速いのだと知った。

 さなくんは無言で、ゆっくりと後ろをついてくる。

 話しかけようと思い立つのに、そう時間はかからなかった。私語厳禁ということになっているが、うるさくしすぎなければおこられたりはしない。前に注意されたのは、となりのりっちゃんが「やば! リゼロ置いてあんじゃん!」とさけんだときだけだ。

 そういえばリゼロがなんなのか、聞きそびれたままだった。


さなくんって、本とか好きなの?」

「別に」


 別に好きじゃない。別にきらいじゃない。どっちだろう。


「フツー」


 なるほど。

 だいたいの人はそうだと思う。本は好きですか。別にフツー。

 今さらながら、部活動について何も説明していないことに思い至った。


「文芸部ではね、私はだいたい小説読んでて、さっき部室にいつしよにいたりっちゃん……ひろなかりつちゃんは、自作の小説を書いてるの。ときどき、私はりっちゃんが書いた小説を読んで感想を言ったりもする」


 返事はなかった。ついさっきまで、たんてきにでも言葉を返してくれていたのに。

 不思議に思ってかえると、さなくんがほおをかいている。数分前にも見た仕草だ。

 あ、とおくれて気がついた。十本の指はきっちりとつめが切られていた。困ると、ほおをかくくせがあるのかな。


「小説って書いたことないんだけど、書かないととかある?」


 心配事のポイントが分かって、私は微笑ほほえんだ。


「ないよ。ぜんぜん。コンクールとかも別にないし。あ、りっちゃんは個人的に小説賞とかに送ったりしてるんだけど」

「へぇ」


 関心がうすあいづち


「あとは文化祭のときに部誌も発行する。去年のは感想文をけいさいしただけなんだけど、だんは小説や詩とか、コラムやエッセイをせたりするの」

「感想文って、読書感想文?」

「そうそう」


 私とせんぱい二人とも、文章やイラストを書く人じゃなかった。でも何も発行しないわけにもいかず、三人ともとりあえず本の感想を千字くらい書いて、わきにフリー素材のイラストをりつけた。歴代の部誌の中で、ずかしいほどに最もページも内容もうすっぺらな一冊。

 今年はりっちゃんがいるから、昨年のまいにはならないだろう。