職員室を出ると、ちょうど八秒くらいで無敵のヴェールは呆気なく剝がれてしまう。つかの間の夢を見ていた頭のてっぺんからつま先まで、元の世界に呆気なく戻されてしまう。
名残惜しそうに、真田くんがシャツを持ち上げてぱたぱたと動かしている。ここにはもう、生ぬるい空気だけが居残っている。
ささくれ立った心のまま、部室に戻りたくはなかった。
「図書室、寄っていっていい?」
職員室の隣。つまり文芸部室と職員室の間にあるのが図書室だ。
もとは物置きだったといえども、これだけの好立地を獲得できた先輩たちを私は尊敬している。多くの学生にとって職員室のご近所は罰ゲームに近い位置取りかもしれないけれど、図書室を利用する頻度が高い私にはありがたい。
「分かった」
開け放たれたドアから入室する。顔見知りの司書さんと、本を借りる上級生の姿が目に入った。
ちらっと本の背表紙を確認する。乃南アサの『しゃぼん玉』。どんな本なのかタイトルだけだと分からない。今度読んでみようかな。
図書室の利用者は普段から少ない。職員室の半分くらいのサイズの部屋には所狭しと本棚が置かれているが、ここで同時に五人以上の生徒を見たことはない。授業で調べ物ができたときは、テーブルが埋まるくらいの生徒で溢れたりもするけれど、そういうときの図書室は雑多な物音で溢れていて、なんだか知らない場所のように感じる。
壁に沿うように並ぶ本棚の脇を歩いて行く。通学路と同じくらい通い慣れた小道。黄ばんだ本の香りに囲まれていると、荒んでいた気持ちが凪いでいく。
私は現在、近代日本文学作品をローラー中だ。芥川龍之介、太宰治、樋口一葉、坂口安吾。誰でも名前や作品名をひとつは知っているような、超超有名な作家たちの作品を読みまくっている。
今とは名前の違う時代に書かれた作品は、意味の分からない言葉が出てくることも多くて、部室に置いてある広辞苑や国語辞典によくお世話になっている。本によっては単語の解説が後ろにまとめられていたりもするけれど、解説の中にも分からない単語があると、辞書を開かずには読み進められなくなる。ぺらぺらと分厚い辞書をめくって、単語を指で辿る時間や、目についた言葉に心奪われて読み耽る時間が好きだから、電子辞書は授業以外では使わない。
近代日本文学の前は何ローラーしていたかというと、海外推理小説ローラー。その前は現代文学ローラー。有名な作品や気になった作品をいくつか手に取っただけだから、その方面に一気に明るくなったわけではない。
私が本を読むスピードよりも、一冊の本が世に生みだされるスピードのほうがずっと速いのだと知った。
真田くんは無言で、ゆっくりと後ろをついてくる。
話しかけようと思い立つのに、そう時間はかからなかった。私語厳禁ということになっているが、うるさくしすぎなければ怒られたりはしない。前に注意されたのは、隣のりっちゃんが「やば! リゼロ置いてあんじゃん!」と叫んだときだけだ。
そういえばリゼロがなんなのか、聞きそびれたままだった。
「真田くんって、本とか好きなの?」
「別に」
別に好きじゃない。別に嫌いじゃない。どっちだろう。
「フツー」
なるほど。
だいたいの人はそうだと思う。本は好きですか。別にフツー。
今さらながら、部活動について何も説明していないことに思い至った。
「文芸部ではね、私はだいたい小説読んでて、さっき部室に一緒にいたりっちゃん……広中律子ちゃんは、自作の小説を書いてるの。ときどき、私はりっちゃんが書いた小説を読んで感想を言ったりもする」
返事はなかった。ついさっきまで、端的にでも言葉を返してくれていたのに。
不思議に思って振り返ると、真田くんが頰をかいている。数分前にも見た仕草だ。
あ、と遅れて気がついた。十本の指はきっちりと爪が切られていた。困ると、頰をかく癖があるのかな。
「小説って書いたことないんだけど、書かないと駄目とかある?」
心配事のポイントが分かって、私は微笑んだ。
「ないよ。ぜんぜん。コンクールとかも別にないし。あ、りっちゃんは個人的に小説賞とかに送ったりしてるんだけど」
「へぇ」
関心が薄い相槌。
「あとは文化祭のときに部誌も発行する。去年のは感想文を掲載しただけなんだけど、普段は小説や詩とか、コラムやエッセイを載せたりするの」
「感想文って、読書感想文?」
「そうそう」
私と先輩二人とも、文章やイラストを書く人じゃなかった。でも何も発行しないわけにもいかず、三人ともとりあえず本の感想を千字くらい書いて、脇にフリー素材のイラストを貼りつけた。歴代の部誌の中で、恥ずかしいほどに最もページも内容も薄っぺらな一冊。
今年はりっちゃんがいるから、昨年の二の舞にはならないだろう。