「仙宮、ちょっといい?」
事務所に台本を取りに寄ったすずねは、自分を呼ぶ声に、フリースペースで読んでいた受け取ったばかりの台本から顔を上げ、振り返った。
栗色の髪をワンレンにした長身の美人が、かつかつとヒールを鳴らしながらやってきて、手元を覗き込んだ。
ふわっと、少し癖のある甘い香りが鼻をくすぐる。すずねのマネージャーの、巳甘あかねだ。彼女は、この香水がお気に入りだった。
すずねはもっと淡い、もっと甘くない香りが好きで、台湾にイベントで行った時に見つけたものを、今も使っている。
巳甘あかねは、すずねがイアーポに所属してから、ずっと担当してくれている。どちらかといえば厳しいタイプだと思うが、替えてほしいと思ったことは一度もない。
「台本、やっとよ」
巳甘は、まったく、と嘆息して顔を上げた。
「あそこはいつものこととはいえ、収録、明後日だっての。……いける?」
「大丈夫です。事前にコピーは貰ってましたし、いつものことですから」
「あの脚本家、現場での直しも多いから、収録が押して困るんだよねえ……まあ、こっちは言われた通りにやるしかないんだけど」
「もう八話ですし、今回はアニオリですけど、キャラはつかんでますから、平気です」
「ま、心配はしてなかったけど。なら、良かった。ちょっと、頼みたいことあんだよね」
「なんですか?」
「こないだ入った子、憶えてる?」
どきりとした。
不意打ちに、心臓が口から飛び出すかと思った。
憶えていないわけがない。
推しのことを、どうして忘れようか。
だが、すずねが鐘月かりんを推していることは、結衣香しか知らなかった。
隠すようなことではないのだが、公表してしまえばどうしたって仕事と絡んでしまう。
今では声優の重要な仕事のひとつとなったラジオ番組において、プライベートトークは欠かせない。オタ活は盛り上がるネタだ。
そういう形で消費されてしまうのが、嫌だった。推しを、心のオアシスを、雑にいじられたくはなかった。
とはいえ、語りたいという欲もある。
そんなときは、結衣香だ。
彼女はアイドルのことをよく知らない分、いつも黙って聞いてくれるので、つい甘えてしまう。あまりひとり語りが過ぎた時は、デザート代を持つことで許してもらっている。
「憶えてます、一応」
と、すずねは答えた。
我ながら白々しいにも程があるが、巳甘は気づかなかったようだ。
「あの子、わたしが担当することになったから。それで、これからボイスサンプル録るんだけど、立ち会ってくれないかな」
「えっ!?」
思わず立ち上がってしまった。
「驚いた……なになに?」
「あ、いえ、なんでもないです……」
引き攣った笑みを浮かべながら、少し硬い座面に座りなおす。
演技が見られる、と思ったら、体が反応してしまった。
ボイスサンプルは名前の通り声の見本だが、地声だけでなく、いくつかシチュエーションを作る。かりんがどんな声を出すのか、聞いてみたかった。
「でも、どうしてわたしに?」
「ん? たまたま、そこにいたからだよ? わたし、これからちょっとチーフと打ち合わせなんだよね。一人でも大丈夫だろうけど、気づいたことがあったら言ってあげてよ」
「わかりました」
「じゃあ、頼むわ。彼女、もう下にいるから。とりあえず、声、かけてやって」
はい、と答えると、巳甘マネはすずねの肩を軽く握って、フリースペースを離れて応接室のドアの向こうに消えた。
なんという幸運! 正直、上がってこない台本に少し心を乱されていたのだけれど、全部許す気持ちになれた。
スケジュールが空いていたのも、運命に思える。
すずねは台本をトートバッグに入れると、肩に担いで揺すりあげ、事務所を出た。これから推しと接近遭遇──そう思うと、急に緊張してきた。
エレベーターに乗り込むと、地下のボタンを押す。低く唸りながら、エレベーターはゆっくりと下りて、そのまま止まることなく地下に到着した。チン、と鳴って扉が開き、すずねはエレベーターを降りた。
地下にあるスタジオのドアを開けると、そこは狭い待合室になっていて、その奥に録音ブースがある。ブースは調整室と録音室からなっていて、基本、機材を扱ってくれるミキサーと、演者の二者で使う。
中の様子は待合室のモニターで確認できるようになっている。だが、今はミキサーしかおらず、かりんの姿はなかった。
怪訝に思いながらトートバッグをテーブルに置き、モニターが見える位置に座った。
(あ──)
一分も経たず、ドアが開いて推しが現れた!
すずねの心臓は、痛みと共に跳ねて、すぐさますさまじい勢いで鼓動を打ち始めた。百メートルを全力で走ったとしても、こんなに速くはならない。
狭い室内、向こうもすぐに、すずねに気づいた。
「おはようございます!」
かりんは、しゃんと背筋を伸ばしたかと思うと、そのまま、直角に頭を下げた。
すずねも慌てて立ち上がり、
「あ、お、おはようござ──いたっ!」
足をテーブルの脚にぶつけてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
推しが慌てて駆けつけてくれる。その嬉しさに、痛みも我慢できた。
「大丈夫です、大丈夫です」
涙目になりながら笑ってみせる。
「あ、邪魔ですよね。すぐにどけますから」
テーブルの上のトートを床に移動する。だが、かりんは手にした飲み物を置くことはせず、立ったまま、
「すみません、ブースですよね。どうぞ、先に使ってください」
と言った。
すずねは一瞬、きょとんとしたが、すぐにかりんの勘違いに気づいた。
「違います違います。あかねさんに言われて、サンプル録りの立ち会いに来ただけですから。ブース使ったりしません」
「立ち会い? 仙宮さんが?」
怪訝そうな陰が、愛らしい顔に差す。
「は、はい。わたしもあかねさん──巳甘マネに担当してもらってる……え!? わたしのこと、知ってるんですか!?」
今確かに、仙宮さん、と言った!
もしかして、握手会に参加していたことを憶えていてくれてたのだろうか? だとしたらファン冥利に尽きるけれど、事務所の先輩としては気恥ずかしい。
かりんは、はい、と答えた。
「入所に当たって、所属されている先輩方のお顔とお名前は一通り」
(ああ、そういう……)
自分だけが特別なわけではなかったとわかり、すずねは少しへこんだ。
とはいえ、自分も昔、同じことをしたことを思い出した。事務所によって違うが、覚えるべき礼儀や作法が、あれこれある。先輩の顔と名前を記憶するのは初歩の初歩だ。