3 ①

せんぐう、ちょっといい?」


 事務所に台本を取りに寄ったすずねは、自分を呼ぶ声に、フリースペースで読んでいた受け取ったばかりの台本から顔を上げ、かえった。

 くりいろかみをワンレンにした長身の美人が、かつかつとヒールを鳴らしながらやってきて、手元をのぞんだ。

 ふわっと、少しくせのある甘い香りが鼻をくすぐる。すずねのマネージャーの、あまあかねだ。彼女は、このこうすいがお気に入りだった。

 すずねはもっとあわい、もっと甘くない香りが好きで、たいわんにイベントで行った時に見つけたものを、今も使っている。

 あまあかねは、すずねがイアーポに所属してから、ずっと担当してくれている。どちらかといえば厳しいタイプだと思うが、替えてほしいと思ったことは一度もない。


「台本、やっとよ」


 あまは、まったく、とたんそくして顔を上げた。


「あそこはいつものこととはいえ、収録、明後日あさつてだっての。……いける?」

だいじようぶです。事前にコピーはもらってましたし、いつものことですから」

「あのきやくほん、現場での直しも多いから、収録が押して困るんだよねえ……まあ、こっちは言われた通りにやるしかないんだけど」

「もう八話ですし、今回はアニオリですけど、キャラはつかんでますから、平気です」

「ま、心配はしてなかったけど。なら、良かった。ちょっと、たのみたいことあんだよね」

「なんですか?」

「こないだ入った子、おぼえてる?」


 どきりとした。

 不意打ちに、心臓が口から飛び出すかと思った。

 おぼえていないわけがない。

 しのことを、どうして忘れようか。

 だが、すずねがしようつきかりんをしていることは、しか知らなかった。

 かくすようなことではないのだが、公表してしまえばどうしたって仕事とからんでしまう。

 今では声優の重要な仕事のひとつとなったラジオ番組において、プライベートトークは欠かせない。オタかつは盛り上がるネタだ。

 そういう形で消費されてしまうのが、いやだった。しを、心のオアシスを、雑にいじられたくはなかった。

 とはいえ、語りたいという欲もある。

 そんなときは、だ。

 彼女はアイドルのことをよく知らない分、いつもだまって聞いてくれるので、つい甘えてしまう。あまりひとり語りが過ぎた時は、デザート代を持つことで許してもらっている。


おぼえてます、一応」


 と、すずねは答えた。

 我ながら白々しいにもほどがあるが、あまは気づかなかったようだ。


「あの子、わたしが担当することになったから。それで、これからボイスサンプルるんだけど、立ち会ってくれないかな」

「えっ!?」


 思わず立ち上がってしまった。


おどろいた……なになに?」

「あ、いえ、なんでもないです……」


 ったみをかべながら、少しかたい座面に座りなおす。

 演技が見られる、と思ったら、体が反応してしまった。

 ボイスサンプルは名前の通り声の見本だが、地声だけでなく、いくつかシチュエーションを作る。かりんがどんな声を出すのか、聞いてみたかった。


「でも、どうしてわたしに?」

「ん? たまたま、そこにいたからだよ? わたし、これからちょっとチーフと打ち合わせなんだよね。一人でもだいじようぶだろうけど、気づいたことがあったら言ってあげてよ」

「わかりました」

「じゃあ、たのむわ。彼女、もう下にいるから。とりあえず、声、かけてやって」


 はい、と答えると、あまマネはすずねのかたを軽くにぎって、フリースペースをはなれて応接室のドアの向こうに消えた。

 なんという幸運! 正直、上がってこない台本に少し心を乱されていたのだけれど、全部許す気持ちになれた。

 スケジュールが空いていたのも、運命に思える。

 すずねは台本をトートバッグに入れると、かたかついですりあげ、事務所を出た。これからしと接近そうぐう──そう思うと、急にきんちようしてきた。

 エレベーターに乗り込むと、地下のボタンを押す。低くうなりながら、エレベーターはゆっくりと下りて、そのまま止まることなく地下にとうちやくした。チン、と鳴ってとびらが開き、すずねはエレベーターを降りた。

 地下にあるスタジオのドアを開けると、そこはせまい待合室になっていて、その奥に録音ブースがある。ブースは調整室と録音室からなっていて、基本、機材をあつかってくれるミキサーと、演者の二者で使う。

 中の様子は待合室のモニターでかくにんできるようになっている。だが、今はミキサーしかおらず、かりんの姿はなかった。

 げんに思いながらトートバッグをテーブルに置き、モニターが見える位置に座った。


(あ──)


 一分もたず、ドアが開いてしが現れた!

 すずねの心臓は、痛みと共にねて、すぐさますさまじい勢いでどうを打ち始めた。百メートルを全力で走ったとしても、こんなに速くはならない。

 せまい室内、向こうもすぐに、すずねに気づいた。


「おはようございます!」


 かりんは、しゃんと背筋をばしたかと思うと、そのまま、直角に頭を下げた。

 すずねもあわてて立ち上がり、


「あ、お、おはようござ──いたっ!」


 足をテーブルのあしにぶつけてしまった。


「だ、だいじようぶですか!?」


 しがあわててけつけてくれる。そのうれしさに、痛みもまんできた。


だいじようぶです、だいじようぶです」


 なみだめになりながら笑ってみせる。


「あ、じやですよね。すぐにどけますから」


 テーブルの上のトートをゆかに移動する。だが、かりんは手にした飲み物を置くことはせず、立ったまま、


「すみません、ブースですよね。どうぞ、先に使ってください」


 と言った。

 すずねはいつしゆん、きょとんとしたが、すぐにかりんのかんちがいに気づいた。


ちがいますちがいます。あかねさんに言われて、サンプルりの立ち会いに来ただけですから。ブース使ったりしません」

「立ち会い? せんぐうさんが?」


 げんそうなかげが、愛らしい顔に差す。


「は、はい。わたしもあかねさん──あまマネに担当してもらってる……え!? わたしのこと、知ってるんですか!?」


 今確かに、せんぐうさん、と言った!

 もしかして、あくしゆかいに参加していたことをおぼえていてくれてたのだろうか? だとしたらファンみようりきるけれど、事務所のせんぱいとしてはずかしい。

 かりんは、はい、と答えた。


「入所に当たって、所属されているせんぱいがたのお顔とお名前は一通り」

(ああ、そういう……)


 自分だけが特別なわけではなかったとわかり、すずねは少しへこんだ。

 とはいえ、自分も昔、同じことをしたことを思い出した。事務所によってちがうが、覚えるべきれいや作法が、あれこれある。せんぱいの顔と名前をおくするのは初歩の初歩だ。

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わたしの百合も、営業だと思った?の書影