現代社会において、「このひとだけは自分を裏切らない」と信じられる相手というのは、どういう関係の人物だろうか。
ひとによっては、家族と答えるかもしれない。友人だと言うかもしれない。恋人かもしれない。夫婦だったら、妻や夫、子供と答える可能性もあるだろう。
俺はまだ独身だから、奥さんとは言えない。ついでに言えば、学生時代に付き合っていた彼女から「他に好きなひとができた」とフラれた苦い経験もあるので、恋人と言うのもためらわれる。
家族にも人並みに愛情はあるけど、「絶対に裏切らない相手」という観点で考えると、いまいちピンと来ない。
友達はそれなりにいたはずだが、卒業してからも密に連絡を取り合っている奴は、今のところいない。職場の先輩や同僚と信頼を築けるほど、コミュ力は高くない。
そんな俺だけど、「こいつだけは、俺を裏切らないかもしれない」と思える相手はいる。
「先生、ちょっといいですか?」
時間は放課後だ。終礼を含むホームルームが終わって、廊下を歩いているときに、後ろから声が掛かった。
振り返ると、制服姿の桐原灯佳が立っていた。冴えない太縁メガネのレンズ越しに、俺を真っすぐ見つめてきている。長い髪が窓から差し込む光を受けて、一部が白く光っていた。
「視聴覚室の鍵、一緒に職員室へ取りに行ってもいいですか?」
鍵は、教師の監督の下でしか渡せないことになっている。
「授業で使ったディスク、先生が教室に忘れていったんですよ。戻しておこうと思って」
桐原は高校二年生で、生徒会長も務めている真面目な生徒だ。学業優秀で、学校サイドからの信頼も厚い。今年、春に赴任してきたばかりの俺とは大違いだ。
「わかった」と頷いてやると、にこっ、と桐原が微笑む。
「ありがとうございます」
軽く会釈するように顎を引くと、長くて綺麗な髪がさらりと流れる。
桐原が隣に並ぶのを待ってから、職員室に向かって歩き出した。
「先生に返さず、自分で返すあたりが桐原っぽいな。気が利くし、真面目だ」
「空気を読む力だけで生徒会長になったから、そうじゃないと務まらないです」
褒められても謙遜せず、堂々としている。
自分に自信がある姿は、年下ながら立派なものだと思う。俺にはない姿勢だ。
職員室へ入って、鍵の保管場所へ向かう。
「お、桐原か。どうした?」
途中、男の先輩教師が桐原に声を掛けた。桐原は同じ説明を繰り返して、先輩を唸らせる。
「相変わらず気が利く奴だ」
「いえ、そんなことないですよ」
さっきの俺と同じように褒められたのに、今度は上手に照れてみせた。俺以外に対して、彼女は自信を大っぴらにしない。うまく使い分けている。視聴覚室の鍵を受け取った桐原は丁寧にお礼を言って、「生徒会の仕事が終わったあと、返しに来ます」と廊下へ出て行った。
「感心、感心。みんな、ああだと楽なんですがね」
先輩教師の呟きに俺は苦笑する。同意と否定が半々の苦笑だ。
直後、ポケットの中でスマホが震えた。画面を見ると、メッセージの通知が来ていた。差出人は「ARIA」。
『待ってるから、来てね』
「……学級日誌を書く前に、少し散歩してきます」
隣の席の先生に声を掛けて、廊下に出る。
それから、ぐるりと遠回りをして職員室から視聴覚室へ向かう。
散歩をするのは俺の趣味だ。朝礼で自己紹介をしたときに言ったから、生徒も先生たちもみんな知っている。からかってくる生徒はいるが、怪しんでくる奴はいない。
視聴覚室に到着したあと、ドアをそっと開く。鍵は開いていた。
入ったあと、スマホで『来た』とメッセージを返した。
「いらっしゃい」
メガネを外した桐原が、机の下からひょっこり現れる。用心深く隠れていたんだろう。彼女はそのままドアまで歩き、かちゃり、と内側から鍵を閉める。
これで、ここには誰も入れない。
俺たちだけの密室だ。
「何回やってもドキドキするよねぇ」
くすくすと笑う桐原には、真面目な優等生っぽさがギリギリ残っている。
でも、悪い子の成分もだいぶ強めに出ていた。そして、メガネを外した桐原は目鼻立ちが整った美人さんだ。印象が全然違う。
「あんまり繰り返すとバレるぞ……」
「大丈夫だよ。先生が授業で使ったディスク忘れてたのは、本当だし」
近付いてきた桐原は、俺の目の前に立つ。ワンテンポ置いたあと、ばふっ、と胸に頭を押し付けてくる。
「んー……先生の匂いだね。落ち着く」
二、三回すぅはぁしたあと、身体を離す。
「学校で自分が受け持つ生徒と密会。……興奮する?」
「悲しいかな、それなりに」
「うんうん、正直でよろしい。先生もだいぶわかってきたね!」
「諦めてきた、の間違いだろ」
声は潜めているが、誰かに聞かれやしないかとドキドキしていた。性的興奮よりも、社会的に抹殺される恐怖の方が、はるかに上回っている。
「ノリが悪いなぁ。さっさと割り切って楽しんじゃえばいいのに」
桐原は良い形の唇を、にっ、ともっと良い形に歪ませていく。やけに色気のある微笑みだった。俺より年下のくせに。
「今日ね、ちょっとだけ香水つけてるの。お昼休み、カナちゃんが『会長もオシャレしましょうよ~』って、強引に……知ってるでしょ? 生徒会の後輩、カナちゃん」
言いながら、桐原の細い指が首元のスカーフに伸びる。
桐原はそのまま、スカーフをほどく。
やめろ、と言うべきだったけど、その一言は俺の口から出ない。出せない理由があった。
黙っている間に、桐原は胸元を大きく開く。
瑞々しい肌と、少しだけ下着が見えた。着やせするタイプだから、服をむいた桐原は大人の身体と比べても全然、見劣りしない。
「谷間にちょこっと振りかけたの。……なんの香りか、わかる?」
俺の頭を絡め取るように腕が伸びてくる。後頭部に添えられた手がクイっと引き寄せてきた。
「どう?」
「……柑橘系?」
「アタリ。いい匂いだよね」
俺の後頭部に添えられるのが、手から腕に変わった。桐原は俺の身体を引きながら、机に腰掛ける。俺は中腰になったまま抱き寄せられて、頭を丁寧に撫でられる。柔らかい肌の感触と体温に顔をうずめながら、なすがままだ。
「私の身体、気持ちいい?」
「……まぁ」
「ふふ、よかった」
桐原はぎゅうっと俺を抱き締める。桐原も、俺の感触をじっくり味わっているようだった。
「なんで人肌ってこんなに気持ちよくて安心するんだろね。不思議だよ」
不意に、桐原の拘束が解かれる。
けど、それも束の間。指が俺の首を撫でて、顎に添えられて、軽い力で上を向かされる。
そのあと、桐原はためらいなく顔を近付けて、キスをしてきた。