桐原が未成年ではなくて、俺の生徒でもなければ、何も問題はなかったんだけどな。
たぶん理想の相手だ。
世の中は、ままならない。
「っとと」
考えていたら、味噌汁の鍋が吹きこぼれてしまった。
火を止めてコンロを掃除する。俺のモノではないから、汚したままにするわけにはいかない。
風呂場にいる桐原を意識から追い出すために、しばらく料理に集中する。
お皿に盛りつけて準備が整ったころ、チャイムが鳴った。
……今までになかったシチュエーションだ。
出ていいのか?
でも、もしも桐原の友達や親だったらどうする?
さっ、と血の気が引いていくのがわかった。
「あ、ごめーん。たぶん荷物だと思うー。先生、出てくれる?」
風呂場から声が聞こえて、金縛りが解けた。
おそるおそるインターホンの受話器をあげると「宅配便でーす」と名乗られた。長い長い、安堵の息が漏れた。
下駄箱の上に置いてあった「桐原」のハンコを押して、荷物を受け取る。
やけに軽い。差出人は店の名前っぽかった。通販か?
「ありがと。その辺に置いといて」
「あぁ……って、おい!」
振り返ると、桐原は服を着ていなかった。下はさっきと色違いの短パンを穿いているけど、上は何も着ていない。首に巻いてぶら下げたバスタオルがかろうじて胸を隠しているが、ふくらみの輪郭は見えてしまっていた。
「何?」
「頼むから、服をちゃんと着てくれ」
「えーいいじゃん。家なんだし。もう何回も見てるでしょ?」
「そういう問題じゃない。冷房もついてるし、風邪引くぞ」
「先生は真面目だなぁ……そこが可愛いんだけどね」
桐原は胸を隠していたバスタオルを持ち上げて、濡れている髪の毛を拭き始める。
とっさに目を逸らしたから、ギリギリ見なかった、と思う。
桐原はそんな俺の努力にまったく見向きもせず、ダイニングの方へ歩いていく。
「わーっ、ご飯ができてる! おいしそう!」
桐原の半裸を見るのは、初めてではない。
でも、風呂と一緒で、やっぱり落ち着かないものは落ち着かない。慣れてしまうのも避けたい。そこまでいってしまったら、本当に抜け出せなくなりそうで怖かった。
……たぶん、この気持ちを失ったら、転がり落ちるように、真っ逆さまだと思う。
水を弾く、若さに溢れた瑞々しさを持つ肌には、それくらいの破壊力が十分ある。
「先生、食べようよー。お腹空いちゃった」
「服、着たか?」
「着た着た。キャミだけど」
「髪の毛は乾かさなくていいのか?」
「食べたら、すぐやるよ。おいしいご飯が冷めるのやだ」
普通にしている分には、やんちゃな妹と接しているようなものなんだけどな。
一緒に「いただきます」をしながら、そんな感想を抱いていた。
食事が終わったあとは、お待ちかねのゲームタイムだ。
三時間ほど遊んだところで、桐原が座ったまま、んん~っ、と大きく背伸びをした。
「遊んだー。ちょっと休憩しよ」
玄関の方へ向かった桐原は、さっき俺が受け取った荷物を持ってすぐに帰ってくる。
「服でも買ったのか?」
「うん。私も、先生を見習おうと思ってさ」
言われて、首を傾げる。
最近、新しい服を買った記憶はないし、オシャレをして桐原と会った覚えもない。
「じゃーん! 見て、これ」
箱を開封した桐原は、嬉しそうに戦利品を見せびらかしてきた。
確かに服だけど、なんというか、パンクなジャンルだった。
桐原の私服は部屋着だけしか見たことがないから、すごく意外だった。
「普段はそういう服を着るんだな」
「いや、着ないよ? もっと大人しいのを着てる」
そこまで言われて、ようやく気が付いた。
「言ったでしょ。先生を見習おうと思った、って」
「変装用?」
頷いた桐原は、箱からさらに金髪ウィッグを取り出す。茶色もあった。
金色の方を被って、「どんな感じ?」と訊いてきた。
「……別人」
「どれどれ」
てくてく、と部屋の隅に置いてあるスタンド型の姿見へ歩いていく。
「うわっ、マジだ! おもしろっ!」
金髪と茶髪を交互に着けて、キャーキャーやり始める。こういうところは子供っぽい。
「先生のを初めて見たときも、別人だと思ったもんね。これなら一緒にお出掛けしても大丈夫じゃない?」
秘密を共有するようになってから一ヶ月半近くになるけど、俺はまだ桐原と一緒に外へ出掛けたことがない。
変装をしていても、やはりバレるのは怖かった。
近くのスーパーへ一緒に行くのでさえ、俺が断っていたくらいだ。
「ねぇ、デート行こうよ」
「考えておく」
「やだ。明日がいい。明日」
明日は土曜日で、天気もいいらしい。さっき、洗濯物を外に干す前に調べた。
「近場じゃなくて、ちょっと遠いところでショッピングなんてどう? ショッピングモール、二人でぶらぶらしてみたい」
「それ、学校の奴らが休日に行くところじゃないのか?」
「そうかもだけど、変装すれば大丈夫だよ。私たちを知っているひとほど気が付かないんじゃない?」
自分も変装をしているとき、同じ思考に至っていたので反論が難しい。
でも、できれば断りたい。うまい言い訳はないものか。
「ねぇー、行こうよー」
「うーん」
桐原は粘ってくる。俺も、言い訳探しを粘る。
「デートしてくれないなら、今晩、襲っちゃうぞ」
とんでもないことを言われたけど、反応しない選択をしてみた。
「本気だよ?」
「それはそれとして、紅茶淹れるか? あったかいやつ」
「淹れるー」
桐原は紅茶が好きだ。ティーバッグの安いヤツでも、淹れると喜ぶ。
お湯を沸かしている間に、デートの件は流れてうやむやになった。桐原もパンクな服とウィッグをダンボール箱に片付けたし、うまくやり過ごせたはず……。
自分を褒めたい気持ちでいっぱいだ。前世は諸葛孔明クラスの策士だったんじゃないか?
「お茶も淹れてもらっちゃったし、もうちょっと遊びたいな?」
「いいよ」
一時間ほど、日付が変わるまで遊び続けた。
すると、どちらからともなく、あくびが漏れ始める。いくら桐原が若くても、ほぼぶっ通しで五時間近く遊んでいると、さすがに疲れてくるらしい。
「寝るか?」
「うん」
寝る支度を済ませて、桐原と寝室へ向かう。
桐原はベッドに、俺は持ってきた寝袋を床に敷く。
「先生、こっち来てよ」
掛け布団代わりに使っている大きいタオルケットの隅をめくって、桐原が呼んでくる。
「いや、俺はこっちで」
「甘えたい気分なの。甘えさせてくれないの?」
少し棘のある口調だった。言外に、交わした約束の話をしているのだと主張している。
──甘えたいときに、なるべく甘えさせてほしい。
「……変なことしないなら」
「ん」
一応、不可侵条約を結んでベッドにお邪魔する。
桐原に背を向けて寝転がる。枕から桐原の香りがした。
電気が消えて、背中に桐原が密着してくる。腕も前に伸びてきて、抱き枕状態だ。
「ね、さっきのデートの話だけど」
桐原の指先が、俺の唇に触れる。
「私、本気だから」
口の中に二本、指を突っ込まれる。歯の間を割って、舌を指で上下に挟まれた。
「ちょ……」
「嚙まないでね」
有無を言わせない口調だった。逆の手で、俺の首筋や鎖骨をくすぐってくる。笑わせる手つきじゃなくて、そういう気分にさせる触り方だ。
しかも、俺を逃がさないように、腰付近に片足が巻き付いている。うなじや首筋に舌が這うと、うひゃっ、と間抜けな声が自然に漏れてしまう。
「こんなのでも反応しちゃうんだ? でも、まだまだだよ?」
熱っぽい吐息と共に耳元で囁かれる間、舌は挟んでいる指でぐにぐにされている。
空いている手で色々な場所の反応を確かめられながら、肩や首を甘く嚙まれた。できれば、反応したくない。安いプライドなのはわかっているけど、俺にも男の意地がある。
「いいよ。がんばってみて」
鎖骨のくぼみを撫でていた指が胸の方へ滑っていく。途中、つま先で肌をくすぐられて、また声が出そうになった。なんとか耐えていたら、肩にがぶりと歯を立てられる。これには、さすがに反応してしまった。
「ふふっ。おもしろ」
がじがじ、と歯を立ててくるが、痛みを感じるほどではない。強くしてきたあとは、必ず舌や唇で優しく刺激される。不覚にも安堵していると、今度は吸い付いて別の感触をぶち込んでくる。ぞくりとした感覚に身震いした。そして、舐めたり、嚙んだりをしつこく繰り返してくる。飴と鞭だ。何度かされるうちに、痛いのも気持ちよくなってしまう。身体が汗ばんでいるのが、自分でもわかった。焦りや緊張ではなくて、快楽のせいだ。人間、甘さが約束されているのがわかると、嚙まれたときも期待するようになるらしい。少し、怖い。
「ここも触ってあげるね。されたことあるかな?」
たまらなくなって息を荒くしていると、桐原は耳を攻めてきた。条件反射で逃げようとすると、腰に回っている足の力が強くなる。
穴の中に、舌先を突っ込んで、耳を口に含み、思い切り吸い上げてくる。