1.好きな香水:柑橘系 ④

 季節は六月じゆん。まだが明けないけど、今日は晴れている。校門をくぐり、りのバス停まで徒歩で移動する。車内に乗り込んでから、はんそでのワイシャツのボタンをゆるめて、ぼんやりと窓の外をながめる。着信のしんどうを感じてスマホを手に取ると、メッセージが届いていた。送り主は俺の元カノだ。別れて数年もつのに、いまだにれんらくが来る。


『おつかれ~。そっち、もうアガり? 私は今、帰りの電車。これからかれとディナーだよん。週末はいつしよにゴロゴロするんだー』


 聞いてもいないのに、勝手にきんきようを送られてきていた。相変わらずだな、と思いながら適当に返事を返して、再びぼんやりと外を見る。

 本来なら、俺も元カノと同じく、ここから休日がスタートするはずだ。でも、きりはらと秘密の関係にある俺には、まだやることがある。

 二十分ほどられたあと、バスを降りる。住んでいるアパートには、バス停から徒歩で五分ほど歩けばとうちやくする。

 ワンルームの小さな部屋だけど、クローゼットはついている。ネクタイやズボンをハンガーにかけたあと、すぐに用意しておいた服にえた。

 スカジャンとダメージジーンズだ。

 ついでに、派手なきんぱつのウィッグもかぶる。カラーレンズを使ったメガネをけると、もはや別人だ。俺を知る人間ほど、俺とは絶対に見破れないだろう。

 えやタオル、歯ブラシといったおまりセットが入っているリュックサックを背負い、げんかんへ向かう。仕事を持ち帰っているときは、ビジネスバッグから荷物を移動させるけど、今日は持ち帰りがない。荷物が少なくて楽だ。

 家を出たあとは、バス停ではなくえきに向かう。

 駅に着いたあとは、ICカードではなく、わざわざ数駅先までのきつを買って移動する。なるべく、しようを残さないために。

 いま向かっている先は、きりはらが一人暮らしをしているマンションだった。

 電車を降りたあと、少し寄り道をしてから、きりはらの家に向かう。



 げんかんの前で『着いた』とメッセージを送ると、ドアの向こう側でひとが動く気配がした。

 かぎが開いて、ドアも開く。


「いらっしゃい」と、放課後にちようかく室で密会したときと同じ言葉でむかれられた。

 放課後のときとちがうのは、きりはらの服装だ。キャミソールと短パンという、目のやり場に困る姿でのおむかえだった。例のえないメガネも外している。


「もうちょっと、ちゃんと服を着ろよ……」

「暑いんだもん。れいぼうをきつくするの、苦手だからさ」


 それは俺も同じなので、あまり強くは言えない。

 とりあえず、家の中に入る。

 まだげんかん先だけど、この部屋にはきりはらにおいがいている。口がけても本人に言うつもりはないけど、いいにおいだ。理性をかすやつかいな香りがじゆうまんしている。


「ゲームがいいところだから、ちょっと先に進めてくる」


 言いながら、きりはらは居間の方へ歩いていく。


「夕飯は食べたのか?」

「まだー。先生といつしよに食べようと思って」


 そう言われると思って、材料は買ってきてある。電車を降りたあとに向かったのはスーパーだったんだ。


「今日はお弁当じゃないんだ?」

「仕事がないから、ちゃんとしたものを作る」

「やったね! 先生が作ってくれるご飯、大好きだよ」


 料理は、俺の数少ない特技だ。大学生時代、バイトをしていたのは個人経営の居酒屋だった。店主がけっこうった料理を出す店で、俺も色々と教えてもらえた。


「ちょっと時間かかるぞ?」

「いいよー。何か手伝ってほしかったら、言ってね」


 俺と会話しながら、きりはらは慣れた手つきでコントローラーをカチャカチャと操作している。

 ソファに深く座り、おなかにビーズクッションをいたまま、俺とやっているオンラインゲームをひとりで遊んでいた。部屋の間取りは2LDKで、部屋自体もけっこう広い。ソファや大きなテレビを置いても、俺がとなりいつしよに座ったとしても、全然せまさを感じない。

 キッチンも立派だ。調理器具や調味料も俺が買い足したから、一通りそろっている。


「先生の仕事がないなら、今日はいっぱい遊べるね。私も宿題、終わってるんだ。今夜はかさないよ?」

きりはらが言うと、意味深に聞こえるなぁ……」

「変な意味じゃないってば。そっちの意味でもいいけどね」


 やぶへびだった。大げさにかたをすくめてから、持ってきた荷物を整理する。


「先生もマメだよね。えやらタオルやら、いちいち持ってくるのめんどくさくない? 毎週来るんだから、置いてっちゃえばいいのに」


 きりはらに弱みをにぎられてから、週末はずっとここに通っている。土日と祝日だけだが、半ばどうせい状態だ。部屋もひとつ余っているから、そこに俺の荷物を置けばいい、ときりはらはずっと言い続けている。


「どうせえるために一度は家に寄るし、いいんだよ」

「先生がそれでいいなら、いいけど」


 少し不満そうな言い方だったけど、きりはらは強制してこない。

 この話題に限らず、きりはらは弱みをにぎっているくせに、強権を発動して俺をしばることをめったにしない。きりはらが俺にたのんできたのは次の三つだ。

 ──週末は、私の家で過ごしてほしい。

 ──色々な意味で、私の遊び相手になってほしい。

 ──甘えたいときに、なるべく甘えさせてほしい。

 この三つだ。

 その気になれば、もっと意地悪な要求はできると思う。

 たとえば、金がしいとか。

 けれど、きりはらしいのは、そういうものではないらしい。

 さびしいか、ひどく退たいくつしているか。……もしくは、その両方か。

 その辺りだとにらんでいる。

 少なくとも、さびしいのは当たっているはずだ。

 食事をコンビニ弁当とスーパーの総菜で済ませていると聞いた俺が、初めて料理を作ったとき、きりはらは「家庭料理がおいしいって本当だったんだ」と目を丸くしておどろいていた。

 ……いったい、今までどんなふうに育ってきたんだ?

 高校生なのに、こんなに広い家で一人暮らしをしていること、両親はおろか、親類をふくめた家族のかげがまったく見えないことから、つうの家庭かんきようではないのは明らかだけど……。


「楽しみだなぁ~。先生のご飯」


 鼻歌まじりに言われると、悪い気はしない。

 考えても答えが出ない疑問は一度頭から追い出して、料理に集中する。


「ちゃんと作る」と宣言したものの、用意するのはいたってつうこんだてだ。

 野菜とぶたにく込んだとんじると、卵焼きと、両面焼きグリルを使った焼き魚。ほとんど使用したけいせきがなかったキッチンコンロは、今では俺の心強い味方だ。

 なんてことのないメニューだけど、きりはらはこういうシンプルな料理をとても好む。

 変にったものを作るより、ずっと喜んでくれる。


「よし、ボスたおせた。キリがいいし、シャワー浴びてきちゃおうかな」

「先に入るのか?」

「うん。そしたら、ご飯食べ終わったあとずっと遊べるでしょ?」


 のない動きだ。

 この小さな積み重ねが、彼女を優等生たらしめているのだろう。


「準備、もう少しかかるから、ゆっくり浴びてきていいぞ」

「はーい」


 じようげんのまま、浴室へ向かう。

 ……それからまもなく、シャワーの水音ときりはらの鼻歌が聞こえてきた。

 俺がいるときにきりはらに入るのは初めてではないが、落ち着かないものは落ち着かない。


「……何やってるんだろうなぁ、俺」


 きりはらのことは、心底きらっているわけではない。

 ゲームは好きだし、きりはらいつしよに遊ぶのは正直楽しい。

 だからと言って、許される関係とはとうてい思えない。ちゆうはんなんだ、俺は。