季節は六月下旬。まだ梅雨が明けないけど、今日は晴れている。校門をくぐり、最寄りのバス停まで徒歩で移動する。車内に乗り込んでから、半袖のワイシャツのボタンを緩めて、ぼんやりと窓の外を眺める。着信の振動を感じてスマホを手に取ると、メッセージが届いていた。送り主は俺の元カノだ。別れて数年も経つのに、未だに連絡が来る。
『お疲れ~。そっち、もうアガり? 私は今、帰りの電車。これから彼氏とディナーだよん。週末は一緒にゴロゴロするんだー』
聞いてもいないのに、勝手に近況を送られてきていた。相変わらずだな、と思いながら適当に返事を返して、再びぼんやりと外を見る。
本来なら、俺も元カノと同じく、ここから休日がスタートするはずだ。でも、桐原と秘密の関係にある俺には、まだやることがある。
二十分ほど揺られたあと、バスを降りる。住んでいるアパートには、バス停から徒歩で五分ほど歩けば到着する。
ワンルームの小さな部屋だけど、クローゼットはついている。ネクタイやズボンをハンガーにかけたあと、すぐに用意しておいた服に着替えた。
スカジャンとダメージジーンズだ。
ついでに、派手な金髪のウィッグも被る。カラーレンズを使った伊達メガネを掛けると、もはや別人だ。俺を知る人間ほど、俺とは絶対に見破れないだろう。
着替えやタオル、歯ブラシといったお泊まりセットが入っているリュックサックを背負い、玄関へ向かう。仕事を持ち帰っているときは、ビジネスバッグから荷物を移動させるけど、今日は持ち帰りがない。荷物が少なくて楽だ。
家を出たあとは、バス停ではなく最寄り駅に向かう。
駅に着いたあとは、ICカードではなく、わざわざ数駅先までの切符を買って移動する。なるべく、証拠を残さないために。
いま向かっている先は、桐原が一人暮らしをしているマンションだった。
電車を降りたあと、少し寄り道をしてから、桐原の家に向かう。
玄関の前で『着いた』とメッセージを送ると、ドアの向こう側でひとが動く気配がした。
鍵が開いて、ドアも開く。
「いらっしゃい」と、放課後に視聴覚室で密会したときと同じ言葉で迎え入れられた。
放課後のときと違うのは、桐原の服装だ。キャミソールと短パンという、目のやり場に困る姿でのお出迎えだった。例の冴えないメガネも外している。
「もうちょっと、ちゃんと服を着ろよ……」
「暑いんだもん。冷房をきつくするの、苦手だからさ」
それは俺も同じなので、あまり強くは言えない。
とりあえず、家の中に入る。
まだ玄関先だけど、この部屋には桐原の匂いが染み付いている。口が裂けても本人に言うつもりはないけど、いい匂いだ。理性を溶かす厄介な香りが充満している。
「ゲームがいいところだから、ちょっと先に進めてくる」
言いながら、桐原は居間の方へ歩いていく。
「夕飯は食べたのか?」
「まだー。先生と一緒に食べようと思って」
そう言われると思って、材料は買ってきてある。電車を降りたあとに向かったのはスーパーだったんだ。
「今日はお弁当じゃないんだ?」
「仕事がないから、ちゃんとしたものを作る」
「やったね! 先生が作ってくれるご飯、大好きだよ」
料理は、俺の数少ない特技だ。大学生時代、バイトをしていたのは個人経営の居酒屋だった。店主がけっこう凝った料理を出す店で、俺も色々と教えてもらえた。
「ちょっと時間かかるぞ?」
「いいよー。何か手伝ってほしかったら、言ってね」
俺と会話しながら、桐原は慣れた手つきでコントローラーをカチャカチャと操作している。
ソファに深く座り、お腹にビーズクッションを抱いたまま、俺とやっているオンラインゲームをひとりで遊んでいた。部屋の間取りは2LDKで、部屋自体もけっこう広い。ソファや大きなテレビを置いても、俺が隣で一緒に座ったとしても、全然狭さを感じない。
キッチンも立派だ。調理器具や調味料も俺が買い足したから、一通り揃っている。
「先生の仕事がないなら、今日はいっぱい遊べるね。私も宿題、終わってるんだ。今夜は寝かさないよ?」
「桐原が言うと、意味深に聞こえるなぁ……」
「変な意味じゃないってば。そっちの意味でもいいけどね」
藪蛇だった。大げさに肩をすくめてから、持ってきた荷物を整理する。
「先生もマメだよね。着替えやらタオルやら、いちいち持ってくるのめんどくさくない? 毎週来るんだから、置いてっちゃえばいいのに」
桐原に弱みを握られてから、週末はずっとここに通っている。土日と祝日だけだが、半ば同棲状態だ。部屋もひとつ余っているから、そこに俺の荷物を置けばいい、と桐原はずっと言い続けている。
「どうせ着替えるために一度は家に寄るし、いいんだよ」
「先生がそれでいいなら、いいけど」
少し不満そうな言い方だったけど、桐原は強制してこない。
この話題に限らず、桐原は弱みを握っているくせに、強権を発動して俺を縛ることをめったにしない。桐原が俺に頼んできたのは次の三つだ。
──週末は、私の家で過ごしてほしい。
──色々な意味で、私の遊び相手になってほしい。
──甘えたいときに、なるべく甘えさせてほしい。
この三つだ。
その気になれば、もっと意地悪な要求はできると思う。
たとえば、金が欲しいとか。
けれど、桐原が欲しいのは、そういうものではないらしい。
寂しいか、ひどく退屈しているか。……もしくは、その両方か。
その辺りだと睨んでいる。
少なくとも、寂しいのは当たっているはずだ。
食事をコンビニ弁当とスーパーの総菜で済ませていると聞いた俺が、初めて料理を作ったとき、桐原は「家庭料理がおいしいって本当だったんだ」と目を丸くして驚いていた。
……いったい、今までどんなふうに育ってきたんだ?
高校生なのに、こんなに広い家で一人暮らしをしていること、両親はおろか、親類を含めた家族の影がまったく見えないことから、普通の家庭環境ではないのは明らかだけど……。
「楽しみだなぁ~。先生のご飯」
鼻歌まじりに言われると、悪い気はしない。
考えても答えが出ない疑問は一度頭から追い出して、料理に集中する。
「ちゃんと作る」と宣言したものの、用意するのはいたって普通の献立だ。
野菜と豚肉を煮込んだ豚汁と、卵焼きと、両面焼きグリルを使った焼き魚。ほとんど使用した形跡がなかったキッチンコンロは、今では俺の心強い味方だ。
なんてことのないメニューだけど、桐原はこういうシンプルな料理をとても好む。
変に凝ったものを作るより、ずっと喜んでくれる。
「よし、ボス倒せた。キリがいいし、シャワー浴びてきちゃおうかな」
「先に入るのか?」
「うん。そしたら、ご飯食べ終わったあとずっと遊べるでしょ?」
無駄のない動きだ。
この小さな積み重ねが、彼女を優等生たらしめているのだろう。
「準備、もう少しかかるから、ゆっくり浴びてきていいぞ」
「はーい」
上機嫌のまま、浴室へ向かう。
……それからまもなく、シャワーの水音と桐原の鼻歌が聞こえてきた。
俺がいるときに桐原が風呂に入るのは初めてではないが、落ち着かないものは落ち着かない。
「……何やってるんだろうなぁ、俺」
桐原のことは、心底嫌っているわけではない。
ゲームは好きだし、桐原と一緒に遊ぶのは正直楽しい。
だからと言って、許される関係とは到底思えない。中途半端なんだ、俺は。