会社を辞めて数ヶ月はぼうっとしていたけど、いつまでも実家の世話になるわけにもいかない。次の仕事を探す過程で俺が最終的に選んだのは、大学で取得していた教員免許の活用だった。『勉強』しかできない俺でも、勉強ができるなら、ある程度評価されるんじゃないか──そんな考えで選んだ。
結果は、知っての通り。
教師が勉強できるなんてのは当たり前のことなので、俺は三日で生徒にナメられるようになった。
でも、前の会社でやらかしたときほど、落ち込まなかった。
もともと、情熱を抱いて教師になったわけではないから。
別にがんばらなくてもいい。今は必死に仕事をするより、死なない程度に仕事をして、生きていく土台を作れたら、それで十分。そう構えていた。
多感な生徒たちは、俺の本質を少なからず感じ取っていたはずだ。
なのに、桐原は──生徒会長の桐原だけは何故か違った。
勉強はできるが、特にオシャレをすることもなく、地味な部類に入るメガネ女子。物静かな方で、真面目で気弱そうなキャラのせいか、よく面倒事や用事を押し付けられる。
俺のような、不真面目な気持ちを奥底に抱えている教師を嫌いそうな彼女は、何故か俺に笑顔を向けて、懐いてくれた。
授業の合間や、学校ですれ違ったとき──何気ないときに、愛想笑いとかではなく、本当に、そうなのだと感じ取れる笑みと愛嬌を俺に振りまいてくれた。
その理由を知ったのは、俺が事務仕事の合間に、ふらりと校内を散歩しているときだった。
生徒会室の前を通ったとき、偶然、仕事を終えて帰ろうとしていた桐原とばったり会った。
「こんな時間まで生徒会の仕事か? 大変だな」
「いえ……先生もお疲れ様です。まだ帰らないんですか?」
「明日の授業の準備が、まだちょっと残っている。休憩中なんだ」
桐原は少し考えたあと、あの、と意を決したように口を開いた。
「クラスのことで少し相談があるんですけど、生徒会室で話せないですか?」
深刻そうな口ぶりだったので内心、ドキリとした。
──まさか、クラスでイジメでもあるのか?
そういうハードな話題にはなるべく触れたくなかったけど、断るわけにはいかなかった。
相談してきた相手が桐原というのも大きい。彼女にはあまり、嫌われたくない。
生徒会室に入ると、桐原は内側から鍵を掛けた。
「誰にも聞かれたくないんです」
いったい、なんの話をされるのか──。
身構える俺に顔を向けず、桐原は自分のスマホをいじって、手早く操作を終えた。
すると、俺の携帯が震えた。
「先生の携帯、鳴りました?」
「ん? あぁ……でも、今は桐原の話の方が」
「いいです。確認してください」
にこりと微笑む桐原に若干の違和感を覚えつつ、スマホを確認した。
「ARIA」からだった。
『桐原灯佳の前にいるのは、GINだよね?』
……。
……フリーズした俺は、ぎこちない動作で桐原を見た。
ニィッ、と笑った桐原は、こちらを見つめながら、とん、と彼女が持っているスマホの画面をタップした。
俺の手の中で、俺のスマホが震える。
メッセージアプリで、「ARIA」が電話を掛けてきている。
桐原は、俺に自分のスマホの画面を見せつけてきた。
「繫がっちゃったね」
人間っていうのは心の底から驚いたとき、本当に凍り付いてしまうのだと初めて知った。
「噓だろ?」
「噓じゃないよ。ARIAだよ。ごめんね。本当は最初から気付いてたんだ」
変な話じゃない。彼女には一度、写真を送っている。
「でも、大学生だって……」
「ごめん。あれは噓」
「一人暮らしって、言って……」
「それは本当」
「高校生なのに?」
「放任主義の両親で、ちょっと複雑なご家庭なの。今時、珍しくないでしょ?」
そう、なのだろうか。
うまく頭が働かなくて、言葉が出てこなかった。
おまけに、桐原の雰囲気はいつもと違った。
「嬉しかったよ。だってGINと会えたんだもん」
一緒にゲームをして、電話をしたこともある「ARIA」と桐原はまったく似つかない。
「ARIA」は甘えたがりで、奔放で、明け透けな性格だ。クラスの桐原とは正反対と言ってもいい。
「私と会えて嬉しい?」
「それは……うん」
精神的に落ち込んでいたとき、生き甲斐になってくれた女の子だ。
戸惑ってはいるけど、会わない方がよかった、とは思えない。
「よかった。でもまさか、GINが先生になってるとは思わなかった。しかも、自分のクラスの担任! すごくない?」
「……びっくりだよ」
冗談抜きに、奇跡のような確率だ。
こういうときは、いったいどうすればいいんだ?
「私がARIAだと困る?」
桐原は回り道をすることなく、核心に切り込んできた。
「……立場上、どうしても、そうなる」
歳も近く、趣味も同じ。こんな状況でなければ、付き合ってみたいとすら思っていた相手だが、生徒となれば話は別だ。友人として接するのだってためらいがある。
「教師としては、他の子と同じように接しないとまずい?」
「あぁ」
内心、ホッとした。桐原は、やはりちゃんと桐原だ。
よくわかってくれている。──ところが、そうではなかった。
「そっか。でも、それだと私がつまんないんだよねー。二人きりのときだけでも、ちょっと楽しい仲になれない?」
「ごめん。それは、勘弁してくれ」
情熱はないけど、最低限の常識はあるつもりだ。
「いいじゃんー。アプリで写真のやり取りした仲でしょ。私のエッチな写真、まだそのスマホに入ってる?」
痛いところを突かれて、黙ってしまった。
「あ、大事にしてくれてるんだ? 嬉しいなー。ふふふ」
惜しいが、あとで消そうと決意した。
「桐原、ちょっと、落ち着いて話そう」
「ううん。ごめんね、先生。もう遅いよ」
桐原はセーラーの胸ポケットから何かを取り出した。
四角い形をした、薄型の妙な機械だ。手のひらより少し小さいくらいの大きさで、ちかちか、と赤いランプが点滅している。
「これ、ボイスレコーダー。録音してたの。ごめんね」
桐原は軽く舌を出しながら、可愛らしく両手を合わせて会釈した。
やっていることは、全然可愛くなかった。
取り上げるために足を動かして手を伸ばしたけど、桐原は身を引きながら手早くスカーフを緩めて、ボイスレコーダーを自分の胸元に潜り込ませてしまう。
下着の中だ。
う、と喉の奥から呻き声が漏れる。こうなっては手が出せない。
「GINは、やっぱり優しいなぁ。だから好き」
どんな経緯であれ、生徒の半裸を写した画像を持っていると知れたら、タダでは済まないだろう。
あのデータがある限り、俺は桐原に逆らえない。
表向きは品行方正な生徒の、秘密の遊び相手だ。
桐原との出会いを振り返りながらだったけど、無事に仕事は終わった。
学級日誌を書いて、小テストの採点をして、来週の授業に使うプリントも作り終わった。暮井さんと期末試験の問題について打ち合わせもしたから、少し遅くなってしまった。
「お疲れ様。土日はしっかり休んでね」
「ありがとうございます。また来週、よろしくお願いします」
手を振ってくれた暮井さんと職員室で別れて、学校を出る。
時刻は午後七時を回ったところだ。