1.好きな香水:柑橘系 ③

 会社をめて数ヶ月はぼうっとしていたけど、いつまでも実家の世話になるわけにもいかない。次の仕事を探す過程で俺が最終的に選んだのは、大学で取得していた教員めんきよの活用だった。『勉強』しかできない俺でも、勉強ができるなら、ある程度評価されるんじゃないか──そんな考えで選んだ。

 結果は、知っての通り。

 教師が勉強できるなんてのは当たり前のことなので、俺は三日で生徒にナメられるようになった。

 でも、前の会社でやらかしたときほど、落ち込まなかった。

 もともと、情熱をいだいて教師になったわけではないから。

 別にがんばらなくてもいい。今は必死に仕事をするより、死なない程度に仕事をして、生きていく土台を作れたら、それで十分。そう構えていた。

 多感な生徒たちは、俺の本質を少なからず感じ取っていたはずだ。

 なのに、きりはらは──生徒会長のきりはらだけはちがった。

 勉強はできるが、特にオシャレをすることもなく、地味な部類に入るメガネ女子。物静かな方で、真面目で気弱そうなキャラのせいか、よくめんどうごとや用事を押し付けられる。

 俺のような、不真面目な気持ちを奥底にかかえている教師をきらいそうな彼女は、か俺にがおを向けて、なついてくれた。

 授業の合間や、学校ですれちがったとき──何気ないときに、あいわらいとかではなく、本当に、そうなのだと感じ取れるみとあいきようを俺にりまいてくれた。

 その理由を知ったのは、俺が事務仕事の合間に、ふらりと校内を散歩しているときだった。

 生徒会室の前を通ったとき、ぐうぜん、仕事を終えて帰ろうとしていたきりはらとばったり会った。


「こんな時間まで生徒会の仕事か? 大変だな」

「いえ……先生もおつかさまです。まだ帰らないんですか?」

「明日の授業の準備が、まだちょっと残っている。きゆうけい中なんだ」


 きりはらは少し考えたあと、あの、と意を決したように口を開いた。


「クラスのことで少し相談があるんですけど、生徒会室で話せないですか?」


 深刻そうな口ぶりだったので内心、ドキリとした。

 ──まさか、クラスでイジメでもあるのか?

 そういうハードな話題にはなるべくれたくなかったけど、断るわけにはいかなかった。

 相談してきた相手がきりはらというのも大きい。彼女にはあまり、きらわれたくない。

 生徒会室に入ると、きりはらは内側からかぎけた。


だれにも聞かれたくないんです」


 いったい、なんの話をされるのか──。

 身構える俺に顔を向けず、きりはらは自分のスマホをいじって、手早く操作を終えた。

 すると、俺のけいたいふるえた。


「先生のけいたい、鳴りました?」

「ん? あぁ……でも、今はきりはらの話の方が」

「いいです。かくにんしてください」


 にこりとほほきりはらじやつかんかんを覚えつつ、スマホをかくにんした。


「ARIA」からだった。



きりはらとうの前にいるのは、GINだよね?』



 ……。

 ……フリーズした俺は、ぎこちない動作できりはらを見た。

 ニィッ、と笑ったきりはらは、こちらを見つめながら、とん、と彼女が持っているスマホの画面をタップした。

 俺の手の中で、俺のスマホがふるえる。

 メッセージアプリで、「ARIA」が電話をけてきている。

 きりはらは、俺に自分のスマホの画面を見せつけてきた。


つながっちゃったね」


 人間っていうのは心の底からおどろいたとき、本当にこおいてしまうのだと初めて知った。


うそだろ?」

うそじゃないよ。ARIAだよ。ごめんね。本当は最初から気付いてたんだ」


 変な話じゃない。彼女には一度、写真を送っている。


「でも、大学生だって……」

「ごめん。あれはうそ

「一人暮らしって、言って……」

「それは本当」

「高校生なのに?」

「放任主義の両親で、ちょっと複雑なご家庭なの。今時、めずらしくないでしょ?」


 そう、なのだろうか。

 うまく頭が働かなくて、言葉が出てこなかった。

 おまけに、きりはらふんはいつもとちがった。


うれしかったよ。だってGINと会えたんだもん」


 いつしよにゲームをして、電話をしたこともある「ARIA」ときりはらはまったく似つかない。


「ARIA」は甘えたがりで、ほんぽうで、けな性格だ。クラスのきりはらとは正反対と言ってもいい。


「私と会えてうれしい?」

「それは……うん」


 精神的に落ち込んでいたとき、になってくれた女の子だ。

 まどってはいるけど、会わない方がよかった、とは思えない。


「よかった。でもまさか、GINが先生になってるとは思わなかった。しかも、自分のクラスの担任! すごくない?」

「……びっくりだよ」


 じようだんきに、せきのような確率だ。

 こういうときは、いったいどうすればいいんだ?


「私がARIAだと困る?」


 きりはらは回り道をすることなく、かくしんに切り込んできた。


「……立場上、どうしても、そうなる」


 としも近く、しゆも同じ。こんなじようきようでなければ、付き合ってみたいとすら思っていた相手だが、生徒となれば話は別だ。友人として接するのだってためらいがある。


「教師としては、他の子と同じように接しないとまずい?」

「あぁ」


 内心、ホッとした。きりはらは、やはりちゃんときりはらだ。

 よくわかってくれている。──ところが、そうではなかった。


「そっか。でも、それだと私がつまんないんだよねー。二人きりのときだけでも、ちょっと楽しい仲になれない?」

「ごめん。それは、かんべんしてくれ」


 情熱はないけど、最低限の常識はあるつもりだ。


「いいじゃんー。アプリで写真のやり取りした仲でしょ。私のエッチな写真、まだそのスマホに入ってる?」


 痛いところをかれて、だまってしまった。


「あ、大事にしてくれてるんだ? うれしいなー。ふふふ」


 しいが、あとで消そうと決意した。


きりはら、ちょっと、落ち着いて話そう」

「ううん。ごめんね、先生。もうおそいよ」


 きりはらはセーラーの胸ポケットから何かを取り出した。

 四角い形をした、うすがたみような機械だ。手のひらより少し小さいくらいの大きさで、ちかちか、と赤いランプがてんめつしている。


「これ、ボイスレコーダー。録音してたの。ごめんね」


 きりはらは軽く舌を出しながら、わいらしく両手を合わせてしやくした。

 やっていることは、全然わいくなかった。

 取り上げるために足を動かして手をばしたけど、きりはらは身を引きながら手早くスカーフをゆるめて、ボイスレコーダーを自分のむなもともぐり込ませてしまう。

 下着の中だ。

 う、とのどの奥からうめき声がれる。こうなっては手が出せない。


「GINは、やっぱりやさしいなぁ。だから好き」


 どんなけいであれ、生徒のはんを写した画像を持っていると知れたら、タダでは済まないだろう。

 あのデータがある限り、俺はきりはらに逆らえない。

 表向きは品行方正な生徒の、秘密の遊び相手だ。



 きりはらとの出会いをかえりながらだったけど、無事に仕事は終わった。

 学級日誌を書いて、小テストの採点をして、来週の授業に使うプリントも作り終わった。くれさんと期末試験の問題について打ち合わせもしたから、少しおそくなってしまった。


「おつかさま。土日はしっかり休んでね」

「ありがとうございます。また来週、よろしくお願いします」


 手をってくれたくれさんと職員室で別れて、学校を出る。

 時刻は午後七時を回ったところだ。