入社式を終えたあと、泊まり込みで同期と新人研修を行うはずが、研修初日に高熱を出し、ホテルで寝込んだのがケチのつき始め。
熱は一週間下がらず、俺の研修は寝ているだけで終わった。
当然、同期とは差がつく。
同じ部署に同期は三人いたけど、その中で俺だけが上司に嫌な顔をされて、叱られ続けた。
──いったい、お前はなんのために会社に入ったんだ。
──いつまでも学生気分でいられちゃ困る。
まずいことをやったのは俺自身が一番よくわかっていたし、なんとかしたいと考えていたのも、俺が一番だったはずだ。自分の人生で、自分の失態だから、自分が取り戻さなくちゃいけなかった。
けど、間違ったことをするたび、同期がわかっているのに俺だけがわかっていないことを質問して罵られるたび、だんだん、静かにミスをし続けるようになった。
最初は同情していた同期も呆れたのか、矛先が自分に向くのを嫌がったのか、俺を避けるようになる。
そこからは、あまり記憶に残っていない。
俺の評価は『入社時の筆記テストはトップだったけど、勉強しかできない使えない奴』から変わることがなかった。結局半年で会社を辞めて、残り半年は、実家で療養した。
その辺りの事情は、指導教員の暮井さんと校長にだけ伝えてある。
部活動の顧問になるのを見送られたのは、学校からの気遣いだ。
クラスの担任も、主担任は産休中の先生で、俺は副担任になっている。仕事内容は担任と変わらないけど「肩書きがないだけでだいぶ違う」という配慮だそうだ。
十分すぎるほど優しくしてもらっているのに、暮井さんはまだ俺を心配してくれる。
「あまり、引きずらないようにね」
「ありがとうございます。……なんか、すみません」
「別に。何も」
暮井さんが軽く首を振る。
「そういえば、明後日は私の授業を見学する日よね?」
「えぇ。勉強させてもらいます」
「嫌だなぁ……羽島先生、教えるの上手だから、もう参考にするところなんてないのに」
暮井さんは、最初に話し掛けてくるときは俺に敬語を使うけど、話をしているうちに、後輩相手の口調に変わっていく。
どちらかと言えば、俺はこっちの方が気楽だった。職場の先輩より、隣の席のお姉さんの立場で喋ってもらえた方が、緊張しなくていい。
「羽島先生のプリント、校長先生と教頭先生にも見せたんだけど、好評なのよ。普段なら『プリントは便利で楽だけど使い過ぎるな』って言うひとたちなのに、何も言わないの。きっと、地頭がいいからまとめるのが上手なのね」
「……ありがとうございます。励みになります」
たぶん、褒めるためにこの話題を選んでくれたんだと思う。
つくづく、俺なんかにはもったいない先輩教師だ。
「クラスの生徒たちとはどう? うまくいってる?」
「あんまりですかね。面と向かって文句は言われてないですけど、ナメられているなぁ、って感じるときがたまにあります」
生徒たちが俺自身をちゃんと見てくれたのは、最初の三日間だけだった。
クラス替えのあと、生徒たちはどんな先生、どんな担任でも、この期間だけは絶対に言うことを聞く。『黄金の三日間だ』と教育論の本に書いてあった。まさに、その通りだった。
「最初の三日が過ぎると、生徒たちは俺のことを見なくなりましたね。俺を通して学校の言うこと、大人の言うことは聞くけど、俺自身や、俺の言葉には価値がないと判断したようです」
暮井さんは、神妙な顔で頷いた。
「新人のつらいところよね。あの年頃の子たちって聡いし、残酷だから」
優しい暮井さんだけど、俺がナメられていることは否定しない。
「誰もが通る道よ。でも、ちゃんと現状に気付けているあなたは立派だわ」
結局、褒めてくれる。さすがだ。
「暮井先生も経験した苦みですか?」
「えぇ、もちろん」
「どうやって乗り越えました?」
「無理なものは無理、って諦めたかしら」
「……その答えは、意外です」
「だって、じたばたしてもどうにもならないもの。極端な話、一年が経てば、またクラス替えがある仕事だしね。引きずらないのは立派なスキルよ。まったく悩まないのもよくないけど、最善を尽くしたら、あとは私にはどうにもできない。不可能な領域だって思うのも大事」
でも、あながち間違いでもなかった、と暮井さんは続ける。
「だって、私たちの相手って、子供だけど人間だもの。思い通りになんていくはずないのよ」
「……なるほど。さすがです。いいお話をありがとうございます」
暮井さんは謙遜せず、「どういたしまして」と返してきた。このひとはやることなすこと、本当に全て大人だ。
「先生って、変な職業ですよね。俺みたいな奴でも、なった瞬間から先生になる。新米で頼りなくても、自信がなくても大人にならなきゃいけない」
「それ、鉄道会社に就職した大学の同期に話したら『私だって一緒よ』って返された」
「確かに。自分が乗ってる電車を運転している人間は新人だろうが、プロとして見ますね」
「そういうこと。虚勢も時には大事よ。とりあえず、生徒たちも人間なんだから、クラスで波長の合う子を見つけて、信頼関係を築くところから始めてみるのはどう? 素直に言うことを聞いてくれる子もいるでしょ? 桐原さんがそうなんだっけ?」
ちくり、と胸の奥が痛む。
「変わらず、うまくいってる?」
「えぇ、まぁ」
「あの子に気に入られているなら大丈夫よ。味方につけておけば、最終的に生徒をうまくまとめてくれる。大事故にならないわ」
「そうですね」
学校と暮井さんは、俺によくしてくれている。とても気遣ってくれている。
俺がさっき、視聴覚室で桐原としていたことを知ったら──がっかりさせてしまうだろう。
「でも、彼女はあくまでも生徒。わかってると思うけど、親密になり過ぎないようにね」
「えぇ。心得ています」
……本当に、申し訳ない気持ちと恐怖で、胸がいっぱいだった。
後ろめたい気持ちを抱きながら、桐原を完全に拒めないのにはワケがある。
学生から社会人になって早々、会社で居場所を失った俺だったけど、完全に生き甲斐を失ったわけではなかった。
職場での居心地は最悪だったけど、一流企業だったから勤怠管理はしっかりしていて、昨今問題視されるような無茶な残業はなかった。
家には一応、帰れていたのだ。
会社から数駅離れたワンルームのマンションは帰宅しても暗くて冷たかったけど、俺の帰宅を待ってくれているひとはいた。
『そろそろ帰ってきた? 遊べる?』
帰宅時間を見計らって、「ARIA」はいつも俺にメッセージを送ってくれた。
基本的に、俺は誘いに応じて彼女と遊んだ。
最初は、会社での遅れを取り戻す勉強をしたくて断っていたけど、上司からの当たりが強くなり、抱え込む感情が大きくなるにつれて「ARIA」と過ごす時間は増えていった。会社に行きたくなくなると、ずるずると深夜まで遊ぶようになった。
いま思えば、それが原因で仕事のミスも増えていたので、完全に悪循環だった。でも、あの時間がなかったら、俺は死んでいたかもしれない。
『ちゃんと、学生から社会人へ──子供から大人になりきれなかった』という負い目もある。
その一方で、『あれが、あのときの限界だった』という確信めいた感情もある。
結局、半年で会社を辞めることになり、実家へ戻ったあとも「ARIA」との交流は続いた。
仕事がうまくいってなかったことや、仕事を辞めたことは、彼女には言わなかった。
彼女の前では、大人のフリをしたかった。
つまらない見栄だったけど、俺に残った最後のプライドだった。