1.好きな香水:柑橘系 ②

 入社式を終えたあと、まり込みで同期と新人研修を行うはずが、研修初日に高熱を出し、ホテルで込んだのがケチのつき始め。

 熱は一週間下がらず、俺の研修はているだけで終わった。

 当然、同期とは差がつく。

 同じ部署に同期は三人いたけど、その中で俺だけが上司にいやな顔をされて、しかられ続けた。

 ──いったい、お前はなんのために会社に入ったんだ。

 ──いつまでも学生気分でいられちゃ困る。

 まずいことをやったのは俺自身が一番よくわかっていたし、なんとかしたいと考えていたのも、俺が一番だったはずだ。自分の人生で、自分の失態だから、自分がもどさなくちゃいけなかった。

 けど、ちがったことをするたび、同期がわかっているのに俺だけがわかっていないことを質問してののしられるたび、だんだん、静かにミスをし続けるようになった。

 最初は同情していた同期もあきれたのか、ほこさきが自分に向くのをいやがったのか、俺をけるようになる。

 そこからは、あまりおくに残っていない。

 俺の評価は『入社時の筆記テストはトップだったけど、勉強しかできない使えないやつ』から変わることがなかった。結局半年で会社をめて、残り半年は、実家でりようようした。

 その辺りの事情は、指導教員のくれさんと校長にだけ伝えてある。

 部活動のもんになるのを見送られたのは、学校からのづかいだ。

 クラスの担任も、主担任は産休中の先生で、俺は副担任になっている。仕事内容は担任と変わらないけど「かたきがないだけでだいぶちがう」というはいりよだそうだ。

 十分すぎるほどやさしくしてもらっているのに、くれさんはまだ俺を心配してくれる。


「あまり、引きずらないようにね」

「ありがとうございます。……なんか、すみません」

「別に。何も」


 くれさんが軽く首をる。


「そういえば、明後日あさつては私の授業を見学する日よね?」

「えぇ。勉強させてもらいます」

いやだなぁ……しま先生、教えるの上手だから、もう参考にするところなんてないのに」


 くれさんは、最初にはなけてくるときは俺に敬語を使うけど、話をしているうちに、こうはい相手の口調に変わっていく。

 どちらかと言えば、俺はこっちの方が気楽だった。職場のせんぱいより、となりの席のお姉さんの立場でしやべってもらえた方が、きんちようしなくていい。


しま先生のプリント、校長先生と教頭先生にも見せたんだけど、好評なのよ。だんなら『プリントは便利で楽だけど使い過ぎるな』って言うひとたちなのに、何も言わないの。きっと、地頭がいいからまとめるのが上手なのね」

「……ありがとうございます。はげみになります」


 たぶん、めるためにこの話題を選んでくれたんだと思う。

 つくづく、俺なんかにはもったいないせんぱい教師だ。


「クラスの生徒たちとはどう? うまくいってる?」

「あんまりですかね。面と向かって文句は言われてないですけど、ナメられているなぁ、って感じるときがたまにあります」


 生徒たちが俺自身をちゃんと見てくれたのは、最初の三日間だけだった。

 クラスえのあと、生徒たちはどんな先生、どんな担任でも、この期間だけは絶対に言うことを聞く。『黄金の三日間だ』と教育論の本に書いてあった。まさに、その通りだった。


「最初の三日が過ぎると、生徒たちは俺のことを見なくなりましたね。俺を通して学校の言うこと、大人の言うことは聞くけど、俺自身や、俺の言葉には価値がないと判断したようです」


 くれさんは、しんみような顔でうなずいた。


「新人のつらいところよね。あのとしごろの子たちってさといし、ざんこくだから」


 やさしいくれさんだけど、俺がナメられていることは否定しない。


だれもが通る道よ。でも、ちゃんと現状に気付けているあなたは立派だわ」


 結局、めてくれる。さすがだ。


くれ先生も経験した苦みですか?」

「えぇ、もちろん」

「どうやってえました?」

「無理なものは無理、ってあきらめたかしら」

「……その答えは、意外です」

「だって、じたばたしてもどうにもならないもの。きよくたんな話、一年がてば、またクラスえがある仕事だしね。引きずらないのは立派なスキルよ。まったくなやまないのもよくないけど、最善をくしたら、あとは私にはどうにもできない。不可能な領域だって思うのも大事」


 でも、あながちちがいでもなかった、とくれさんは続ける。


「だって、私たちの相手って、子供だけど人間だもの。思い通りになんていくはずないのよ」

「……なるほど。さすがです。いいお話をありがとうございます」


 くれさんはけんそんせず、「どういたしまして」と返してきた。このひとはやることなすこと、本当に全て大人だ。


「先生って、変な職業ですよね。俺みたいなやつでも、なったしゆんかんから先生になる。新米でたよりなくても、自信がなくても大人にならなきゃいけない」

「それ、鉄道会社に就職した大学の同期に話したら『私だっていつしよよ』って返された」

「確かに。自分が乗ってる電車を運転している人間は新人だろうが、プロとして見ますね」

「そういうこと。きよせいも時には大事よ。とりあえず、生徒たちも人間なんだから、クラスで波長の合う子を見つけて、しんらい関係を築くところから始めてみるのはどう? なおに言うことを聞いてくれる子もいるでしょ? きりはらさんがそうなんだっけ?」


 ちくり、と胸の奥が痛む。


「変わらず、うまくいってる?」

「えぇ、まぁ」

「あの子に気に入られているならだいじようよ。味方につけておけば、最終的に生徒をうまくまとめてくれる。大事故にならないわ」

「そうですね」


 学校とくれさんは、俺によくしてくれている。とてもづかってくれている。

 俺がさっき、ちようかく室できりはらとしていたことを知ったら──がっかりさせてしまうだろう。


「でも、彼女はあくまでも生徒。わかってると思うけど、親密になり過ぎないようにね」

「えぇ。心得ています」


 ……本当に、申し訳ない気持ちときようで、胸がいっぱいだった。



 後ろめたい気持ちをいだきながら、きりはらを完全にこばめないのにはワケがある。

 学生から社会人になって早々、会社で居場所を失った俺だったけど、完全にを失ったわけではなかった。

 職場でのごこは最悪だったけど、一流ぎようだったからきんたい管理はしっかりしていて、昨今問題視されるような無茶な残業はなかった。

 家には一応、帰れていたのだ。

 会社から数駅はなれたワンルームのマンションは帰宅しても暗くて冷たかったけど、俺の帰宅を待ってくれているひとはいた。


『そろそろ帰ってきた? 遊べる?』


 帰宅時間を見計らって、「ARIA」はいつも俺にメッセージを送ってくれた。

 基本的に、俺はさそいに応じて彼女と遊んだ。

 最初は、会社でのおくれをもどす勉強をしたくて断っていたけど、上司からの当たりが強くなり、かかえ込む感情が大きくなるにつれて「ARIA」と過ごす時間は増えていった。会社に行きたくなくなると、ずるずると深夜まで遊ぶようになった。

 いま思えば、それが原因で仕事のミスも増えていたので、完全にあくじゆんかんだった。でも、あの時間がなかったら、俺は死んでいたかもしれない。


『ちゃんと、学生から社会人へ──子供から大人になりきれなかった』という負い目もある。

 その一方で、『あれが、あのときの限界だった』という確信めいた感情もある。

 結局、半年で会社をめることになり、実家へもどったあとも「ARIA」との交流は続いた。

 仕事がうまくいってなかったことや、仕事をめたことは、彼女には言わなかった。

 彼女の前では、大人のフリをしたかった。

 つまらないだったけど、俺に残った最後のプライドだった。