羽島銀。男性。二十四歳教師。特別な力は、何もない。
いたって平凡な新米教師に過ぎない俺が、どうして桐原とこんな関係になったのか。
そいつをわかりやすく説明するには、やっぱり、最初から丁寧に、順を追って説明するのが一番効果的だと思う。
全ての始まりは俺がまだ大学生だったころのこと。
俺が今まで生きてきた中の、絶頂期だ。
実家は一人暮らしの俺に仕送りをしてくれる程度に太く、勝ち組に分類される有名な大学に通っていた。三回生になると単位はほとんど取り終わる。余った時間は週三、四日程度のバイトに当てて、合コンがきっかけで付き合い始めた彼女とうまくやりつつ、勝手気ままに過ごしていた。
四回生になってすぐ始めた就活もうまくいき、一流企業への内定もあっさり決まった。
まさに前途有望。悠々自適の大学生活。卒論も早々に目途をつけて、遊びまくっていた。
「他に好きなひとができた」と言われて彼女にフラれたけど、ちょうどマンネリ化していて、二人で会うよりもひとりでいる時間が恋しくなっていたから、時期としてはちょうどよかった。
というのも、そのころの俺はゲームにハマり始めていた。
ネットゲームってやつだ。
社会人になるとがっつり遊べないから、今のうちに──と始めた趣味だったけど、多分に漏れず、のめり込んだ。
バイトがない日は朝から晩まで、ずっとログインして、ずっと遊んでいた。バイトがなければ間違いなく引きこもっていた。
少人数で強敵を倒したり、ダンジョンを攻略したり。いわゆる『狩猟ゲー』と呼ばれるジャンルに近いゲームで、気の合う何人かのメンバーと毎日毎日、飽きもせずに遊び続けていた。
その中のひとりに、「ARIA」という女性キャラを使うフレンドがいた。
夕方から夜にかけてプレイするひとで、昼間はバイトで家を空ける俺と、遊ぶ時間帯が一致していた。
長く一緒に遊んでいると、相手の情報にも詳しくなっていく。
「ARIA」は大学の二年生。女性キャラを使っていても中身が男性ってことは多々あるが、彼女は自分のことを「女だよ」と言っていた。
そう言われても話半分にしか聞いていなかったけど、チャットをしているうちに「本当なのかもな」と思い始めるようになった。もしも噓だったら、大した演技力だな、と思う程度に「ARIA」はゲームの中でも女の子していた。
アップデートで可愛い系の装備が出ると必ず「取りに行こう」とせがんできたし、俺の助力で手に入ると「ありがとう!」とハートマーク付きで感謝してくれた。その程度だったら信じなかったかもしれないけど、仲が良かったせいか、彼女は私生活の悩みもちょいちょい、俺に相談するようになっていた。
学校のことだったり、親とケンカしたっていう深刻度の高いものもあれば、「やばいちょっと太った。いい運動ない?」みたいなしょうもない相談もあった。そうしているうちに、「本当に年下の女の子かもな」と思うようになっていったんだ。
『GINは相談に乗るのが上手だよね~。つい色々と話しちゃう』なんて言われると、俺も気分がよかった。
ゲーム外で連絡先を知っていると誘いやすくなるから、と言われて、メッセージアプリのアカウントも交換した。そうなってからは、ゲーム外でも連絡を取るようになった。
そんな中、「ARIA」の中身が女の子だとわかる決定的な出来事が起こる。
『ちょっと、電話していい?』
別にいいよ、と返事をした。電話番号は交換せずに、メッセージアプリの通話機能で初めてお互いの声を聞いた。
「はじめまして」と少し緊張気味に話す「ARIA」の声は、確かに女の子のものだった。
緊張したのは最初だけで、話しているうちにゲームのチャットと同じくらい、リラックスして話せるようになった。
次の日はバイトも休みだったから、彼女の気が済むまでずっと話し続けた。夜の十時から深夜二時くらいまで話したあと、ようやく電話を切った。けど、その後もアプリでメッセージのやり取りが続いた。
『長話しちゃってごめんね。色々とわがまま聞いてくれて、ありがと』
『いや、別に。俺も楽しかった』
『ほんと? よかった! わがままついでに、もうひとつお願いを聞いてもらえない?』
『何?』
『GINの顔、見てみたいな』
いきなり言われたら絶対に断っていたけど、楽しく話したあとだったから、断らなかった。
深夜帯特有のテンションも作用していたと思う。
適当に自撮りして送ると、返信はすぐに届いた。
『ありがと。写真、見たよ。どうしよ。ちょっとタイプかも』
『お世辞でも嬉しいよ。ありがとう』
『お世辞じゃないってば!』
それを証明するために、と「ARIA」は自分の写真を送ってきた。
顔は写っていなかったけど、けっこう、キワドイ写真だった。ノーブラで肌着だけ。胸の谷間を意図的に強調した、挑発的な写真だった。染みひとつない足を撮った写真も届いた。
『ネットで拾ってきた写真じゃないよ』と、ゲーム画面も一緒に写してくれたりもした。
『サービス、行き届いているなぁ……』
『でしょ? 私、デキる女ですから』とドヤられた。
そんなやり取りをした俺たちだったけど、電話をしたのも写真を送り合ったのも、これっきりだった。
相談に乗っている最中に『電話で聞こうか?』と俺から尋ねることもあったけど、彼女の方から断られた。
『あんまり甘えすぎると、本気になっちゃうから。そうなるとつらいかもだし』と言われて、俺も深追いしなくなった。俺と「ARIA」は、ただのゲーム仲間に戻った。
それからおおよそ二年後。二十四歳の春、俺は高校教師になった。
大学卒業してすぐじゃないのは、新卒で入った一流企業を半年でドロップアウトしたからだ。
「……先生? 羽島先生?」
隣の席から声が聞こえて、ハッとなって振り返る。
椅子に座っている女性が、俺の様子を心配そうに、注意深く窺っていた。
「大丈夫ですか? なんだか、ぼうっとしていましたけど……」
「……すみません、暮井先生。勤務中なのに」
バツが悪そうに答えると、暮井さんは大人っぽい柔和な笑みを浮かべながら、上品に笑い飛ばしてくれた。
「いいんですよ、そんなの! もう授業も終わって放課後だし、今日は職員会議もないし……小テストの採点、終わったんでしょう?」
視聴覚室で桐原と別れたあと、職員室に戻って、手早く済ませた。
放課後は、会議がなければ自分のペースで事務仕事をしていい時間だ。
部活動の顧問をやっている先生は忙しいけど、幸いなことに、俺は何も担当していない。
暮井さんは、なおも俺に話し掛けてくる。
「別に声を掛けるほどのことじゃなかったんですけど、羽島先生があまりに遠い目をしていたものだから、気になって」
暮井さんは、俺の指導教員だ。教師生活六年目で、担当科目は俺と同じ現代国語。
一般的に、新米教師の面倒は同じ科目の教師が見ることになっているそうで、俺が赴任した『森瓦学園』も例外ではなかった。暮井さんは席も隣だし、歳も先輩だらけの職員室の中では、一番近い方だ。生徒たちにも評判がいいし、授業も丁寧で……あと、めちゃくちゃ美人だ。職業柄、服装も化粧も地味におさえているようだけど、着飾ればとんでもなく映えるはずだ。
俺に対しても、赴任初日からとても親身に色々と気遣ってくれる。理想の先生と言っていい存在だ。
「何か、昔のことでも思い出していたり?」
「えぇ、まぁ……前の会社のことを、少し」
大半は「ARIA」とゲームをしていたころの振り返りだったけど、まったくの噓でもない。
暮井さんの整った顔が、途端に曇った。
「……つらかったこと?」
「残念ながら、前の会社の記憶に良かったことは存在してないですね」
冗談抜きに、入社直後からまるでいいことがなかった。