『そう? 近くに好きな人がいるなんて仕事にも張りが出るかも』
「気が散って集中できない」
『十代みたいなことを言って。これだから処女は』
「そこは関係ないでしょう!」
今度こそ大きな声を上げてしまう。
すると、ドタンと隣の部屋からなにかが落ちるような音が聞こえた。
大丈夫かな。
集合住宅ではちょっとしたことから厄介なトラブルに発展しかねない。
東京でのひとり暮らし、ご近所の付き合いは一切なかった。
それどころか隣人の顔も名前も知らない。
『レイユちゃん。相手は先生じゃなくて、いっそ生徒でもいいじゃない。将来性のありそうなイケメンをそのナイスバディーで悩殺すれば?』
「生徒と恋愛なんてできるわけないってば」
アタシは呆れるしかない。
毎日教室で生徒たちを眺めているからわかる。
どれだけ背格好は大人と変わらなくても、中身はまだ子どもだ。
『年下男子の情熱的で一途な想いにときめくかもですよ。世の中に絶対なんてないんだから』
「その前に学校をクビになるから」
『レイユちゃんって華やかな見た目だけど、根は超真面目だよねぇ。女の方も少しは積極的にならないと、ご縁があっても結ばれないよ』
じゃあお店に着くから、と最後に忠告を残して通話は終わった。
親友との電話で眠気は覚めた。
アタシは冷蔵庫からイチゴを取り出して一パックを食べる。
「おいしいけど、これは絶対に食べきれない」
幸いにも最近はろくに料理もできていないから冷蔵庫の空きスペースはある。そこに詰めこまれているイチゴのパックの残りを見て、アタシは決断した。
「うん、おすそわけしかないな。誰かにおいしく食べてもらう方がいいよね」
名残惜しい気持ちで数パックを百貨店の紙袋に詰めて、アタシは自分の部屋である103号室を出る。
「ま、恋愛じゃないけど少しは積極的になろうじゃないの」
意を決して隣の102号室のインターホンを押した。
隣の部屋から聞こえた声で目が覚めた拍子に、俺はそのまま床に転がり落ちた。
「痛っ……、なんだ?」
夕飯後、宿題である日本史のプリントを終えてベッドの端っこで横になっていたら、そのまま寝落ちしていたらしい。
尻をさすりながら、俺は隣の部屋と接している壁を思わず見た。
顔も名前も知らなかったが、先ほどの声から察するにどうやら若い女性らしい。
お隣さんはおそらく社会人か大学生なのだろう。朝が早く、帰宅も遅めなので高校生の俺とは生活リズムが違う。
おかげでアパートの外でニアミスしたことは一度もない。
ただしここの壁は比較的薄いため、彼女が朝早くにセットしている大ボリュームの目覚ましの音がよく聞こえる。おまけに何度も鳴るので、俺も自然と早起きになってしまった。
結果的に高校生のひとり暮らしでありながら遅刻は一度もない。
俺は寝直す前に明日の準備を済ませ、キッチンの食器を洗い終えたところで部屋のチャイムが鳴った。
「はーい。今出ます」
ドアスコープも確認もせずに鍵を開けた。
「はじめまして、夜遅くにすみません。隣の103号室に住む天条ですが、おすそわけに来ました」
「────ッ!?」
突然、真昼になったみたいに視界が明るくなった気がした。
後光でも射しているのか。それほど眩しい美人が玄関先に立っており、俺は固まってしまう。
俺の部屋を訪ねてきたテンジョウと名乗る女性は極上の笑顔を浮かべながら、聞き取りやすいハキハキとした喋り方で用件を告げる。
お隣さんを名乗る髪の長い女性は若くて美しい人だった。
年齢は十代後半から二十代前半。
目鼻立ちのはっきりした上品な顔は小さく、お尻の下まで隠れるオーバーサイズのパーカーを着ていてなお手足がすらりと長い。白い太ももに思わず目を奪われる。足元はファーつきのサンダルという季節感のよくわからないものを履いていた。
カジュアルな格好ながらも、隠し切れない圧倒的な魅力。
まるでお人形のような優れた容貌は、明らかに一般人の範疇を超えていた。
モデルか女優をやっていても不思議ではない。
「あの、聞いてます?」
俺がぼんやりしているのを見かねたのか、彼女が心配そうに訊ねてきた。
「え? えっと、お隣さん、なんですか?」
「はい、そうですよ。美味しいイチゴがあるんですが、貰っていただけませんか?」
彼女は百貨店の紙袋を開いて、中に入ったイチゴを見せる。
パックに入ったイチゴは瑞々しい赤色で宝石のように艶めいていた。
「これは確かに美味しそうですね」
「セールスとか勧誘じゃないので心配しないでください。驚かれたと思いますが、ひとりで食べきれないくらいのイチゴが届いてしまって困っているんです。イチゴ、お嫌いですか?」
彼女は丁寧に事情を説明する。
「いえ、俺も好きなので問題ないです」
「よかった、味はアタシが保証します! 甘くてジューシーだから、食べ出したら止まらないですよ! 受け取ってもらえると助かります。どうですか!?」
どうも気持ちのままに身体も動いてしまうタイプらしい。
訊ねておきながら、お隣さんは一歩近づいて紙袋をこちらに差し出してきた。
動いた拍子に髪が揺れて、いい匂いが香ってくる。
「じゃあ、ありがたくいただきます」
俺は動揺を悟られないように、平気なふりをして受け取る。
「冷蔵庫に入れてなるべく早めに食べてくださいね」
「わかりまし──ん?」
緊張しながらも会話を続けているうちに、ふと気づく。
お隣さんから感じた匂いには覚えがあった。
香水……いや、シャンプーかな。
つい最近も嗅いだ気がする。というか、今日も昼間に同じ匂いを感じたぞ。
一体どこだ?
「あれ?」
緊張よりも好奇心が勝り、改めてその顔立ちをよく見る。
そして、彼女の正体に気づく。
平日は毎日のように学校の教室で眺めている人物のことが頭に浮かぶも、すぐにその可能性を否定する。
あの人がこんなところにいるはずがない。
そう思って瞬きを何度も繰り返す。
だが、目の前にいる女性が消えることはない。
他人の空似と考えるには、俺にとって心当たりのある女性は綺麗すぎた。
普段の大人っぽいイメージとあまりにもかけ離れたカジュアルな私服な上に、化粧を落として幼い印象だったからすぐに気づかなかった。
「どうかされました?」
「なんでここに!?」
俺は驚いて、摑んだはずの紙袋を落としかけた。
彼女も同時に反応しており、その細い手が俺の手に重なる。
結果、ふたりでイチゴの入った紙袋の持ち手を摑んでいる状態になってしまう。
「す、すみません!? 俺がちゃんと握っていないから」
「こちらこそごめんなさい! アタシもいっぱい入れすぎていたので重かったですよね」
彼女は慌てて自分の胸元に手を引き寄せた。
気まずい沈黙が訪れる。
「どうぞ余計なお気遣いは不要でお願いします。では、夜分に失礼しました」
お隣さんは居たたまれなくなった様子で、逃げるように隣の部屋へ帰ろうとする。
その瞬間、俺は彼女の名前を呼んでいた。
「天条先生ですよね!? 天条レイユさん」
急に自分の名前を呼ばれて、彼女はピタリと足を止める。
「あれ、アタシって名字しか名乗っていませんよね」
その声は一気に緊迫したものに変わっていた。