プロローグ おすそわけ ②

『そう? 近くに好きな人がいるなんて仕事にも張りが出るかも』

「気が散って集中できない」

『十代みたいなことを言って。これだから処女は』

「そこは関係ないでしょう!」


 今度こそ大きな声を上げてしまう。

 すると、ドタンととなりの部屋からなにかが落ちるような音が聞こえた。

 だいじようかな。

 集合住宅ではちょっとしたことからやつかいなトラブルに発展しかねない。

 東京でのひとり暮らし、ご近所の付き合いはいつさいなかった。

 それどころかりんじんの顔も名前も知らない。


『レイユちゃん。相手は先生じゃなくて、いっそ生徒でもいいじゃない。将来性のありそうなイケメンをそのナイスバディーでのうさつすれば?』

「生徒とれんあいなんてできるわけないってば」


 アタシはあきれるしかない。

 毎日教室で生徒たちをながめているからわかる。

 どれだけ背格好は大人と変わらなくても、中身はまだ子どもだ。


『年下男子の情熱的でいちおもいにときめくかもですよ。世の中に絶対なんてないんだから』

「その前に学校をクビになるから」

『レイユちゃんってはなやかな見た目だけど、根はちようだよねぇ。女の方も少しは積極的にならないと、ごえんがあっても結ばれないよ』


 じゃあお店に着くから、と最後に忠告を残して通話は終わった。

 親友との電話でねむは覚めた。

 アタシは冷蔵庫からイチゴを取り出して一パックを食べる。


「おいしいけど、これは絶対に食べきれない」


 幸いにも最近はろくに料理もできていないから冷蔵庫の空きスペースはある。そこにめこまれているイチゴのパックの残りを見て、アタシは決断した。


「うん、おすそわけしかないな。だれかにおいしく食べてもらう方がいいよね」


 名残なごりしい気持ちで数パックを百貨店のかみぶくろめて、アタシは自分の部屋である103号室を出る。


「ま、れんあいじゃないけど少しは積極的になろうじゃないの」


 意を決してとなりの102号室のインターホンを押した。



 となりの部屋から聞こえた声で目が覚めたひように、俺はそのままゆかに転がり落ちた。


「痛っ……、なんだ?」


 夕飯後、宿題である日本史のプリントを終えてベッドの端っこで横になっていたら、そのままちしていたらしい。

 しりをさすりながら、俺はとなりの部屋と接しているかべを思わず見た。

 顔も名前も知らなかったが、先ほどの声から察するにどうやら若い女性らしい。

 おとなりさんはおそらく社会人か大学生なのだろう。朝が早く、帰宅もおそめなので高校生の俺とは生活リズムがちがう。

 おかげでアパートの外でニアミスしたことは一度もない。

 ただしここのかべかくてきうすいため、彼女が朝早くにセットしている大ボリュームの目覚ましの音がよく聞こえる。おまけに何度も鳴るので、俺も自然と早起きになってしまった。

 結果的に高校生のひとり暮らしでありながらこくは一度もない。

 俺はなおす前に明日の準備を済ませ、キッチンの食器を洗い終えたところで部屋のチャイムが鳴った。


「はーい。今出ます」


 ドアスコープもかくにんもせずにかぎを開けた。


「はじめまして、よるおそくにすみません。となりの103号室に住むてんじようですが、おすそわけに来ました」

「────ッ!?」


 とつぜん、真昼になったみたいに視界が明るくなった気がした。

 後光でもしているのか。それほどまぶしい美人がげんかんさきに立っており、俺は固まってしまう。

 俺の部屋を訪ねてきたテンジョウと名乗る女性はごくじようがおかべながら、聞き取りやすいハキハキとしたしやべり方で用件を告げる。

 おとなりさんを名乗るかみの長い女性は若くて美しい人だった。

 ねんれいは十代後半から二十代前半。

 目鼻立ちのはっきりした上品な顔は小さく、おしりの下までかくれるオーバーサイズのパーカーを着ていてなお手足がすらりと長い。白い太ももに思わず目をうばわれる。足元はファーつきのサンダルという季節感のよくわからないものをいていた。

 カジュアルな格好ながらも、かくれないあつとうてき魅力オーラ

 まるでお人形のようなすぐれたようぼうは、明らかにいつぱんじんはんちゆうえていた。

 モデルか女優をやっていても不思議ではない。


「あの、聞いてます?」


 俺がぼんやりしているのを見かねたのか、彼女が心配そうにたずねてきた。


「え? えっと、おとなりさん、なんですか?」

「はい、そうですよ。しいイチゴがあるんですが、もらっていただけませんか?」


 彼女は百貨店のかみぶくろを開いて、中に入ったイチゴを見せる。

 パックに入ったイチゴはみずみずしい赤色で宝石のようにつやめいていた。


「これは確かにしそうですね」

「セールスとかかんゆうじゃないので心配しないでください。おどろかれたと思いますが、ひとりで食べきれないくらいのイチゴが届いてしまって困っているんです。イチゴ、おきらいですか?」


 彼女はていねいに事情を説明する。


「いえ、俺も好きなので問題ないです」

「よかった、味はアタシが保証します! 甘くてジューシーだから、食べ出したら止まらないですよ! 受け取ってもらえると助かります。どうですか!?」


 どうも気持ちのままに身体からだも動いてしまうタイプらしい。

 たずねておきながら、おとなりさんは一歩近づいてかみぶくろをこちらに差し出してきた。

 動いたひようかみれて、いいにおいが香ってくる。


「じゃあ、ありがたくいただきます」


 俺はどうようさとられないように、平気なふりをして受け取る。


「冷蔵庫に入れてなるべく早めに食べてくださいね」

「わかりまし──ん?」


 きんちようしながらも会話を続けているうちに、ふと気づく。

 おとなりさんから感じたにおいには覚えがあった。

 こうすい……いや、シャンプーかな。

 つい最近もいだ気がする。というか、今日も昼間に同じにおいを感じたぞ。

 一体どこだ?


「あれ?」


 きんちようよりもこうしんまさり、改めてその顔立ちをよく見る。

 そして、彼女の正体に気づく。

 平日は毎日のように学校の教室でながめている人物のことが頭にかぶも、すぐにその可能性を否定する。

 あの人がこんなところにいるはずがない。

 そう思ってまばたきを何度もかえす。

 だが、目の前にいる女性が消えることはない。

 他人の空似と考えるには、俺にとって心当たりのある女性はれいすぎた。

 だんの大人っぽいイメージとあまりにもかけはなれたカジュアルな私服な上に、しようを落として幼い印象だったからすぐに気づかなかった。


「どうかされました?」

「なんでここに!?」


 俺はおどろいて、つかんだはずのかみぶくろを落としかけた。

 彼女も同時に反応しており、その細い手が俺の手に重なる。

 結果、ふたりでイチゴの入ったかみぶくろの持ち手をつかんでいる状態になってしまう。


「す、すみません!? 俺がちゃんとにぎっていないから」

「こちらこそごめんなさい! アタシもいっぱい入れすぎていたので重かったですよね」


 彼女はあわてて自分のむなもとに手を引き寄せた。

 気まずいちんもくおとずれる。


「どうぞ余計なおづかいは不要でお願いします。では、夜分に失礼しました」


 おとなりさんは居たたまれなくなった様子で、げるようにとなりの部屋へ帰ろうとする。

 そのしゆんかん、俺は彼女の名前を呼んでいた。


てんじよう先生ですよね!? てんじようレイユさん」


 急に自分の名前を呼ばれて、彼女はピタリと足を止める。


「あれ、アタシって名字しか名乗っていませんよね」


 その声は一気にきんぱくしたものに変わっていた。