プロローグ 魔法ははるか彼方にある ①
無の空気であった。
椅子に座ったまま、少女の顔は完全に横を向いていた。どうやら自覚くらいはあるらしい。怖くてこちらと目を合わせられないようだ。
汗はだらだら。
同じ屋根の下の、同じ机。小刻みに震える少女の対面にいる一七歳くらいの似合わない金髪少年は知っている。今は甘やかしてはダメな時間だと。少女の見ている方へ目をやると、ぽかぽか陽気の青空がある。素直に羨ましい。……こっちの机では、ぐしゃりと羊皮紙の答案用紙を握り潰すしかない状況が展開中なのだが。
白系の長袖セーラーにレモンイエローの派手なスラックスを着た少年だった。これだけなら良くて船乗り下手すりゃ結婚式な色彩だが、肘や膝の金属装甲や分厚いブーツが印象を変える。腰回りに分厚い革のコルセットがあるのは長袖セーラーの下に厚さ数センチ大まで紙を束ねた
「えと」
「……、」
「せんせい、そんな絶対零度の瞳でこっちニラまないでなの。こわいわ」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
絶対零度ときたか。
何でそんな難しい言葉を知っている女の子がこんな答案用紙を提出できるのだろう。逆に才能なのでは。ATU番号は完全に暗記の話だ、まだ分かる。アリストテレスの話は計算ができないと苦しいので仕方ない。でも三択問題は答えが出ないなら運任せでどれかチェックをつければ
実は怒っていなかった。
どこからどう手をつけたら
担当しているのは一五歳の女の子だった。
名前はヴィオシア・モデストラッキー。
燃えるような赤い髪を長く伸ばした、まだ幼さの残る顔立ちの少女。白い肌を包んでいるのはロングワンピースだ。全く似合わないスカート両サイドのスリットといい、
「まあ、取っちまったのは仕方ねえんじゃね? 正直、本当に本気の〇点答案なんてオレも初めて見たけど、目の前の事実は
「……はい」
「でも落ち込む必要はねえぞ。まだオレからアンタにできる助言は残ってる」
「はい!!」
「近所に新しくカフェーができるらしいし。接客係のバイトを募集してるようだから……」
「全体的にちょっと待ってなの!! 魔女は続けるわッ! ひいいどんな事でもするから廃業の助言はひとまずやめて先生っ、あなたは私の家庭教師なのっ!!」
はあ、と男はため息をつく。この子を『パートナー』に選んだのは自分自身だ。なのでどれだけ悲惨であってもここから取り返していくしかない。基本である。教え子が分からないと言ったら、家庭教師としては分かる所まで巻き戻して勉強をやり直すしかないのだ。
一人でも受験勉強はできるが、楽な方に流れやすいという欠点がある。例えば暗記が得意ならそればっかりやって計算問題をおろそかにする、などだ。家庭教師はそういった欠点を外から眺めて客観的に指摘するのが仕事。教え子のダメな所を見て諦めるようでは話にならない。
「いいかーヴィオシア、魔女は三つの相を重視する。( )と( )と( )だぜ」
「えー先生何むにゃむにゃ言ってるの全然聞こえないわ……」
「(憧憬)と(太古)と(邪悪)だし〇点、とりあえずなんか答えるクセくらいつけろ」
改めて、だ。
基本の基本からその少年は説明を始める事にした。
「◎プラス一点。魔女は一つの世界を三つの側面から眺め、相互に力を回して強大な推進力を得る訳だ。蒸気船のスクリューのようにな。つまり、読み物を扱う憧憬の頂点、古代儀式の太古の頂点、そして
「くー、すー」
「……、」
規則正しい寝息があった。船乗りみたいなセーラー服を着こなす金髪少年は何にでも使える木製の計算尺をよくしならせて教え子のおでこをぺしんと
「いたいなのっ」
「三秒」
いったん寝ると呼びかけても起きないのだ、結局
まったくこれが天井突破の堂々たる一角にして『夜と闇と恋の女王』の異名でも知られる───己の意志で肉体は完全に管理しているようだが、本気出して大地や空間から力を吸い上げるとうっかり幼女化したり翼や角が生えたりくらいはやりかねないほど大人気ない───伝説の魔女の孫娘とは。まあヴィオシアは周囲の反対を押し切って勝手に神殿学都へ来たようだが。心優しい女王からお前は絶対無理だから諦めろと言われるのは逆にどれだけレアなんだ。
(……ま、親と子と孫、才能がそのまま引き継がれるほど魔女の受験は甘くねえか。学問も芸能も運動も、天才の子っていうのは余計に苦しむ羽目になるのが世の常じゃね?)
「ふぁ、あ。やっぱり昨日の夜も頼まれて迷子のにゃんこを探していたからなの……?」
そしてまた一つ明らかになった。
こいつこの極限残念少女、今のあくびはテスト勉強で寝不足とかではないらしい。
「だ、大体、家庭教師ならもっと言葉遣いをそれらしくしてほしいわ」
「それで一点でも上がるなら今からそうするし、はいですやるですそうでございます」
「すみませんでした先生。全力で謝るから元に戻ってなの」
「……やっぱりカフェーの接客係の方が向いてんじゃね? こう、例の店だとセクハラ
「ちょっと待ってどこまで話題が戻ってるか確認させてなの! うえーん! この
「一流を目指す魔女が道具の性能にすがるな。……大体、そのホウキはアンタを一人前の魔女として認めてくれたのか?」
う、と少女が口ごもった。
半人前の魔女達が集まる大都市でも、ここまでとなると珍しい。
「軍資金がなくて中古店にあった事故ばっかりの格安いわくつき、しかもそのホウキからも認められてねえ。人と道具を結ぶ
「うううー。メフィストフェレスのいけずなの……。結局、細かい計算なんか覚えなくてもイマドキの魔法は全部フォーミュラブルームが肩代わりしてくれるはずなのにいー」
かもしれないけど。
金髪の少年は内心で舌打ちし、机の縁にくっつけた小さなガラス製のホルダーで
フォーミュラブルーム=ヴィッテンベルク。
異世界の地球において、魔法の中心地とまで呼ばれる森と街の名を持つ魔女のホウキ。
つるりとした陶器のような質感。まるで上等なピアノのように漆黒に金や赤の縁取りをされたシックでオトナ、そしてどこか
そう。魔法を使う『だけ』ならフォーミュラブルーム=ヴィッテンベルク頼みで構わない。
そもそもこの世界に魔法なんかないのだから。
本当にひどい言い分だが
剣と魔法のファンシーな世界は、すでに片側を丸ごともぎ取られていた。一本の