《第一話》 ③

「おいしい?」

「うん。自分で食べるよりも数倍はうまい。魔法の調味料でも使ったみたいだ」

「ふっふっふ……今こっそりまぶしたからね、粉」

「褒め言葉が事実の指摘になったぞ……」


 俺の見ている前でバレずに謎の粉をまぶしたとなると、りつは時間でもめたのかもしれない。りつなら出来なくもなさそうではあるが、まあ冗談の一環だろう、流石さすがに。


「ところで、ろうくん。?」

「もちろん。りつも大丈夫だったか?」

「うん。今日はお買い物以外で外出してないよ」


 夫婦間には幾つもの決まりごとやルーティンが存在するものだ。俺達なら家を出る前のキスがそうだが、他にもう一つ、俺とりつには毎日の確認事項があった。


「今の俺達はただの一般人だ。『普通』に過ごしてるだけで平気だと思うんだけどな」

「だよねぇ。みんな心配しすぎだよ~」


 それが、このような『今日も目立たず一般人だったか?』という相互チェックである。

 恐らく、普通ではない。こんなことをする夫婦など、まず存在しないと思う。

 戦闘訓練に明け暮れ、多くの武器の使い方を学び、そして戦いを幾度も重ねた俺。

 同じく幾度もそんな手練と戦い抜き、いまだ異能力《祝福ブレス》を保有するりつ

 ──俺とりつは、ただの人間ではない。


「俺なんてもう立派な社畜だぞ。今や攻撃避ける時よりも謝罪で頭下げた回数の方が多い」

「ごめんね、もっと頭を狙っておけばよかった」

「そういう問題か……!?」


 世間に対し、《ぬれの聖女》の存在は公になっていない。どころか、《機関》も《組織ロツド》も、その存在が完全に秘匿されている。《祝福ブレス》などもってのほかで、ああいった異能力なんか漫画やアニメの中だけのものである、というのが一般人の常識だ。

 つまるところ、俺やりつの過去というものは、この現代社会の中においては全て出来の悪い空想物語でしかなく、しかし一方で俺達はそれらを経験した上で、確かに人並みから外れた力を今も持っているわけで。


「──わたし達が問題を起こすなんて、そんなことありえないのに」

「違いない。隣人がいきなり逮捕される可能性の方がまだ高いな」

「お隣さんのかめおかさんはい人だよ!」

「例え話だって」


 一人だけで生きるならまだしも、そんな強い力を持っている俺とりつ共に生きる結婚となれば、余計な心配をされるのも無理はない、らしい。

 俺なら今は部長がよく口をっぱくしてとがめて来る。「変なことするなよ」と。

 ……いやいやいや、もう26ですよ俺は。自分の力を無闇に振りかざすほど幼稚でもないし、それを使って何か大きな事を成し遂げてやろうという野心もない。

 俺はただ、りつと平穏無事に──どちらかが先に死ぬまで、一緒に生きていたいだけだ。


「──毎日幸せだよ、俺は。りつといられてさ」

「あ、じゃあ幸せついでにお掃除してくれる? ちょっとたいテレビがあるので……」

「おい」


 食器洗いは飯を作らなかった側、掃除は毎日交代制なのが俺達のルールだ。今日はりつの当番だったのだが、俺の歯の浮くようなセリフをダシにされてしまった。


「ったく……しょうがないな」

「ろうくん、優しい~。愛してるちゅっちゅ♡」

「そういう都合のいい愛はいらん」


 でも投げキッスするりつわいかったので良しとしよう。

 結局のところ、誰にどれだけ心配をされたところで、俺達は俺達でしかなく。そして俺達なりに気を付けて毎日精一杯生きている。自分達が問題を起こしているとは思わないし、実際のところ起こってもいない。俺とりつは今やどこにでも居るような、仲良し夫婦だ。

 なので、俺とりつの間にある、目下最大の問題──をご紹介したい。

 俺にとっては世間体とかよりも、よっぽど重大なねん事項を。


「それじゃ、おやすみろうくん。また明日ね!」


 にっこりとほほみ、片手をくいと上げて、りつは自室へと消えていった。

 自室……りつの自室。ではない。

 俺には俺の部屋があり、りつにはりつの部屋がある。だがはない。


(今日もか……)


 誰にも聞こえないいきを俺はつく。酒は飲まないので、浄水器の水を飲む。


(なあ、りつ。キミの旦那様はさ……)


 軽くグラスを水洗いして、キッチンペーパーで水気を拭き取り、食器棚に戻す。



(なんとまだ童貞なんだわ……)



 そして俺はその事実に頭を抱えた。

 童貞。童貞とはなんぞや。まあヤってない男のことを指すんですけどね。

 俺は童貞だ。女を抱いたことがない。だがそこは人によって価値観が異なる部分で、様々な女を抱くこと自体に価値をいだす男もいれば、そもそもそういうことに興味があまりない男もいるだろう。何より、童貞が恥であるとは俺は全く思わない。

 もし俺が恥であると考えているのなら、今頃どうにかして童貞を捨てているはずだ。

 だが違う。俺はその辺の女を抱くくらいなら童貞でいい。そう、俺はりつ以外抱く気がない。みさおを立てる(?)相手は生涯でりつがいい。りつだけでいい。りつだけがいい。

 しかし──しかし、それでも……ッ!



『寝室は別じゃないとどうせいはやだ♡』



 ──と、過去にりつから笑顔でそう言われているのだ。

 そもそも付き合い始めた頃から、俺はりつとキスまではあってもそれ以上がない。多分、身体からだではなくりつの心の、どこか柔らかくてデリケートな部分に、俺の手は触れてしまう。

 めちゃめちゃ詩的に表現したが、要は一度流れに身を任せてりつ身体からだを全力でまさぐったら顔面グーパンされた苦い思い出があるのだ。りつちゃんはとてもお強いので、あれは常人ならけいついねじれて死んでいたと思う。俺は鍛えてるから生きてた。血は出た。


(俺の何が不満なんだ……? 顔か? スタイルか? 性格か? 収入か?)


 りつの俺への好意にうそはない。それでも一線を越えさせてくれないのには、必ず理由がある。それが何かは今もなお分からないが、俺に原因があるはず……である。

 寝室をわざわざ別で所望されている時点で、俺はりつと一緒に寝たことすらない。前に下心抜きで『添い寝しちぇ♡』と懇願したことがあるが、不意に三角コーナーから出てきたゴキブリを見るような目で蔑まれたので、もう二度と言わないと一人誓った。

 だが、俺は何も諦めてはいない。まず諦め切れるわけあるか、愛する人のことを。


(──来月、来月だ。来月に勝負を仕掛ける)


 俺は壁掛けカレンダーをめくり、翌月のある一日に目を落とす。

 11月12日。俺とりつの結婚記念日。

 一周年記念でもあるその日をに、俺は着々と『準備』を進める予定だ。


(せめて……! せめて理由だけでも……!!)


 いきなりしようだなんて思わない。少しずつ関係を進められればそれでいい。俺を拒む理由だけでも、その日に知れたらそれでいい。もし、りつが生涯誰にも身体からだを許さないと決めているのなら、それならそれで構わない。りつを傷付けるくらいなら俺は生涯童貞でいい。

 ただ──俺は知りたいだけなのだ。愛する人のこと、全てを。


 十年前に一度終わった俺の物語は、十年後の10月12日からまた、動き出す──

刊行シリーズ

組織の宿敵と結婚したらめちゃ甘い3の書影
組織の宿敵と結婚したらめちゃ甘い2の書影
組織の宿敵と結婚したらめちゃ甘いの書影