序章 カップラーメン ①

 日本国憲法により、日本人は健康で文化的な最低限度の生活を保障されている。

 その生活の根底を支えるものこそ『食べ物』である。

 だが、『望むものを食べる自由』は、既存のいずれの法でも保障されていない。



 雨音と暗闇にかすかに漂う冷たいかびくささを、暴力的で温かなカレーの匂いが押しのけた。

 同時に冷え切った空間にほんわりと湯気が立ち上って、麵をすする音と、小動物が物悲し気に鳴くのに似た、きゅう、という音がする。

 標高の高くない山でも、冬の雨の中では信じられないほどに気温が下がる。

 冷たいコンクリートの床にあぐらをかく男は顔を上げ、カレーの強烈な香りが漂う麵を大きく一口すすってから言った。

 男の前にはキャンプ用の携帯ガスコンロが、同じくキャンプ用の鍋の水を沸かしている。

 短い髪に細面ではあるがせいかんな顔つき。そして鍛えられた体を寒そうに丸くしながら、真剣な顔でカレー味のカップラーメンをすすっているのだ。

 男がいるのは、何年も前に使われなくなった変電施設の管理小屋だった。

 朽ちた機械や調度品が壁に並び、広さは二十畳程度。割れた窓ガラスから時折外の冷たい雨が吹き込んでくる。


「はあ、い」


 男がそうつぶやいた途端、部屋の端からまたきゅう、という音がした。

 麵をすするのを止め、男は音がした方を見るとあきれたように言った。


「いい加減諦めてお前も食えよ。腹に何か入れないと持たないぞ」

「黙りなさい! 私はインスタント食品なんかに屈しないわ!」


 のんびりした男の声に対し、女の鋭い金切り声が響いた。

 男の視線の先に、ネイビーのカーゴパンツに機動スーツの上から防弾アーマーを装備し、ミドルボブの髪をほこりだらけにして横たわる女性が、けん感に満ちた目で見返してきていた。

 女性の右足には乱暴に処置された添え木と包帯が巻かれており、靴も脱がされている。


「健康のためなら死ねるってか。バカじゃねぇの」


 男は鼻で笑うと食事を再開した。


「好きに言えばいいわ! 私が犯罪者の口車に乗ると思って……ぇぁうう」


 また、きゅう、と小動物のような音が響き、女の声が情けなく途切れる。


「口では強がっても、体は正直だな?」

「フザけないで! 今のはその、そうよ、この小屋にいるネズミの声よ!」

「ネズミも腹減らしてるからな。ここで死んだら、お前の死体はいいように山のネズミや虫に食い荒らされるだろうな」

「だ、黙りなさいっ!! 私は食料国防隊員よ! 犯罪者の反健康主義者……アディクターの持っているインスタント食品なんか、死んでも食べるもんですか!」


 女は緩慢な動作で身を起こすと、防弾装備のホルスターから拳銃を引き抜き男に向ける。


「インスタント食品の所持と摂取は食料安全維持法違反の重罪よ! 割り箸とカップ麵から手を離して、両手を上げて地面に伏せなあっ、あっ、ちょっとああっ!」


 男は女の言うことを全く無視し、割り箸とカレーの香り漂うカップを手にしたまま立ち上がると女に歩み寄り構えた拳銃を無造作に蹴り飛ばした。


「目の焦点も銃口の向きも合ってない。そんなんでどうやって犯罪者を撃つんだ」

「う……く……」


 手の中から拳銃が消え、女は冷たい床に手をつく。


「現実を見ろ。この二日間、インスタント食品を食ってる俺はこんなに元気だ。一方、お前はどうだ? 犯罪者をまともに脅すこともできず、腹減らしてへたりこんでる」

「だ、黙りなさい……アディクターの、くせに……」

「アディクターでも、自殺志願者を見捨てると後味が悪いんだよ。なぁ、お前が守りたい法律は、お前の命を投げ出す価値があるものか?」


 女は男をにらみ上げるが、その眼光に力はなかった。

 男はカップ麵の最後の一口を一気にすするとカップと割り箸をかたわらに置き、倒れる女の足を見た。


「血は止めたが、放っといていい傷じゃないのは分かるよな。銃創だぞ。骨だって折れてる。それにこの寒さだ。食わなきゃ凍死するぞ」


 女はみして答えない。だが、言い返すこともできなかった。


「撃ったのは俺達だ。の責任を感じてるから今まで面倒見たが、俺は医者でも神様でもない。食って体力つけないと、救助が来るまで持たないんじゃないか」

「ぐ……」

おおぐすやまはそこまで険しい山ってわけじゃない。それでもいまだに救助が来ないってことは、お前んとこの食料国防隊は撤退しちまったんじゃないか? そうなると、一体いつになったらお前は助けてもらえるんだろうなぁ?」


 厳しい声色の男はそう言うと、丁度沸き上がったお湯をコンロから上げて、新しいカップ麵を足元のバックパックから取り出した。

 蓋を開け、お湯を注ぐと、男は女に向かって箸とカップ麵を差し出す。


「食え」


 蓋の隙間からは、微かにしようの香りが漂い、また女の腹が鳴った。

 女は力を失った顔で男とカップ麵を見つめ、そして何かが折れたように両手を出して、箸とカップ麵を受け取った。

 そして嫌悪感をあらわに、だがどうしようもなく強い衝動にかられてカップ麵の蓋をそろそろと開ける。

 コーンとネギらしき緑色の野菜片と、ひき肉を固めたような得体の知れぬ動物性タンパクと、縮れた黄色い麵。

 女は異形の生き物を嫌悪するように、それでも箸を操って麵を一口、口に入れた。

 そこから、醬油味のスープまで飲み干してしまうまで、三分とかからなかった。


「ほら」


 男は更にクッキーバーを差し出すと、先程までの強情はどこへやら、女はそれをひったくってがむしゃらにかじる。


「落ち着けって。いきなり食うとむせるぞ」

「んぐっ……えほっ……えほっ……」


 言ったそばから咽る女に苦笑すると、男はバックパックから缶飲料のプルタブを開けて差し出した。

 女はそれを受け取ると一気に飲み干しそして、目を丸くする。


「あ、甘い……何なのこれ!」

「中国で人気の薬膳茶らしいぜ。俺も初めて見たから甘いってのは知らなかったが」

「信じられない……何が入っているかも分からない、しかも缶飲料……こんな、こんな……」


 女は片手にお茶を、片手にクッキーバーを持ったまま、静かに涙を流した。


「何で、私、こんな……ううっ……ひっ……くぅ……」


 言いながらお茶を飲む手もクッキーバーを齧る手も止まらない。


「美味いだろ?」


 女は涙目のまま男を睨みながら答えない。


「腹減ったときに、美味いもんを食ってこその人間だ」

「アディクターが……ひぐっ、何を、え、偉そうに……っ」


 女は泣きながら渡された食べ物をすっかり食べきってしまった。

 だが食べきってなお、女の腹は不満を漏らすように小さく鳴く。


「ところで食料国防隊員は、任務中に金は持ち歩いてるか?」

「……っく、そ、そんなわけないでしょ、何よ、いきなり……」

「お前が死にそうだったから今の一食はタダにしてやったが、ここから先は有料だ」


 そう言うと、男はバックパックの中から様々な『食品』を取り出した。

 日本語ではないパッケージの缶詰やレトルトパックに色とりどりの菓子に缶飲料。

 さらに醬油以外のフレーバーのカップラーメンもごろごろと現れる。

 女はごくりと喉を鳴らした。


「興味があるか?」

「そ……そんなわけないでしょ! 食料国防隊員が、インスタント食品や、違法な添加物がどれだけ入ってるか分からない海外製品を……っく」


 空きっ腹にはんに食べ物を入れたせいなのか、女の腹が再び鳴った。

 語るに落ちるどころの騒ぎではない。


「だ、第一……お金もないもの」


 顔を赤くして降参したようにうつむくその顔に、男は事も無げに言った。


「金ってのは、要するに具現化した価値だ。俺にとって価値あるものを提供できるなら、相応のものは提供するぜ」

「……っ」


 女は顔を引きつらせる。

 山奥の密室。足を負傷して動けない女と、犯罪者の男。

 あまりにも容易に導き出される推測に女は顔を強張らせるが、男も自分の物言いが女に何を想像させたのか気付いて、慌てて首を横に振った。


「違う違う違う悪い悪い悪い! そういうことじゃない!」

「じゃ、じゃあどういうことなのよ!! このゲス!!」

「ゲ……! お前、そりゃあ紛らわしい言い方した俺も悪かったけど、やるならこの二日間いくらだってチャンスはあったろうが! 誰がここの便所に連れてってやったか忘れたか!」

「うるさいこの変態!!」


 女は顔を真っ赤にして床に転がっている崩れた壁の小さな欠片かけらつたの葉を男に向かって投げつける。


「じゃ、じゃあ一体何を差し出せって言うのよ!!」


 そう言うと男は、やおら自身のスマート端末を取り出して女に差し出した。


「んー、これ?」

「っ──────!!」


 女は声なき悲鳴を上げた。そこには涙を流しながら必死の形相でカップラーメンをすする女の映像が表示されていたのだ。


「いいい、い、い、いいいつの間にそんなものをっ!」

「いやー腹減ってるときやっとありついたメシってちやちや集中するよなー?」

「そ、そ、そんな録画、一体どうするつもりよ!!」

「お前の名前を教えろ」

「え!?」