序章 カップラーメン ②

「名前と録画、これを人質にさせてもらう。俺はあんたの命の恩人だ。恩を返す気があるのなら、支払いはツケでいい。それまで名前と画像を質に取らせてもらう」

「……」


 女はしゆんじゆんしているようだった。だが、男を睨むよりも、転がったインスタント食品に一瞬目が行ったとき、既に勝敗は決していた。


さか……

「やさか……?」

「ほ、ほら、これを見て! うそは吐いてないわ!」


 矢坂弥登、と名乗った女は、ジャケットの下から震える手で食料国防隊手帳を取り出した。

 そこには確かに『食料国防隊係長 矢坂弥登』の表記があった。


「OK、取り引き成立だ」


 男は矢坂弥登と手帳をスマート端末で撮影すると、両手を広げた。


「どれがいい。好きなの選んでくれ。このリュックに入れてる分くらいなら渡せるが」

「そ、そんなに食べられないわよ! で、でも、それじゃあ……その……カレー、を」


 おずおずと指さしたのは、最初に男が食べていたカレー味のカップラーメンだった。


「それだけでいいのか? いつ救助が来るのか分からないんだぞ?」

「わ、分かったわよ……じゃ、じゃあその缶詰と……ウーロン茶を」

「欲が無いな。それじゃ待ってろ。湯、沸かすから」


 男はそう言うと立ち上がり、雨の降る屋外へと鍋を持って出て行ってしまう。

 ふるい時代の変電所管理小屋にまともな水道があるわけがない。

 男は小屋の外に出ると、そこに駐機してある多脚式軍用ビークル『ヒュムテック』のコンテナから、見たことのない文字でパッケージングされたミネラルウォーターを取り出し戻ってきた。

 弥登は直接見たわけではないが、男のヒュムテックのコンテナには、きっと恐ろしい量の密輸食品が積載されているに違いない。

 やがて鍋が煮立ち、男は慣れた手つきでカレーカップラーメンにお湯を注ぐと、蓋をして弥登に差し出した。

 弥登が受け取ると、男はプルタブ式の缶詰も蓋を開けて直接火にかけ、軽く熱を通してくれた。


「本当は缶詰にじかは駄目らしいけど、まぁ今は他に手がないからな」

「いちいち言い訳しなくていいわよ、何も言ってないでしょう」

「食料国防隊って連中は国民が食ってるメシやメシの食い方が間違ってたらそれだけで逮捕するのが仕事だろ。一応、言い訳しとかないと」


 男はそう言うと、温まったオイルサーディンらしき缶詰を差し出してきた。

 痛む足をかばいながら、地べたに置かれた缶詰とカップラーメンに向かって、弥登はつい、言っていた。


「いただきます……」


 インスタント食品など人間の食べる食べ物ではない。

 そのはずなのに、自然と食べ物に対する日本人の自然な行動をとっていた。

 蓋の隙間からこぼれるカレーの香りは、蓋を開けるとまるで空間一杯に広がるようだった。

 チップ状の小さな小さなにんじんにジャガイモ、そしてやはり謎の固形タンパク質。一応カレーらしい体裁を整えているが、やはり本物のカレーライスやカレーうどんなどとは比べるべくもない、いや、比べるにも値しない内容だ。

 それなのに、箸が止まらない。麵にからんだカレースープが舌をき、缶詰のいわしとオイルと恐ろしく合う。

 カレーとオイルで熱せられた口をウーロン茶で冷やして流すと、脳に電流が走ったと錯覚するほどに心地よい。


「……はぁ……しい」

「だろ?」

「…………………………今、私は何を!?」


 弥登ははっとして、今度は顔を青くさせた。


「噓でしょ、私、私今、インスタント食品を美味しいって言ったの!?」

「美味いもん食ったときは美味いって言うのが人間さ」


 男がからかってくるかと思いきや、思いがけず穏やかな顔でそう言ったので、弥登は思わず拍子抜けしてしまう。

 最初と変わらぬ勢いで食べきった弥登は、満足したように大きく息を吐いた。

 弥登の食べ終えたごみを回収し、後片付けをしている男を黙って見ていると、やがて眠気が襲ってきた。

 男とこの小屋で過ごして既に三日目であることを思い起こす。


「ねぇ」

「ん?」

「どうして私の事、見捨てなかったの」

「何の話だよ」

「インスタント食品を持ち運んでるアディクターにとっては、食料国防隊員は敵でしょう」

「別に好きでアディクターなんかやってるわけじゃないからな」


 男は何でもないことのように言う。


「あとは怪我してるやつを見捨てる人間にはなりたくねぇし、何よりお前、死ぬほど腹減ってるように見えたからさ」

「おなか?」

「ああ。腹減ってる奴に腹いっぱいになって笑顔になってもらえたら、うれしいだろ」

「……何それ」


 弥登はついおかしくなってしまって、小さくくちはしを上げた。


「眠かったら寝ろよ。怪我してんだから体力は落ちてるはずだ。食ったならしっかり寝ろ」

「……ええ、そうさせてもらうわ」


 弥登はまた固い床に横になる。寝袋も毛布も無いが、男が見つけてきたベニヤ板のおかげでこの凍死しそうな床の上でもなんとか眠れていたことに今気が付いた。

 男はいつ追手がかかるかも分からないこの荒天の中、弥登の看病をし続けてくれたのだ。


「あなた、名前は?」

「何だよ尋問か」

「違うわよ。名前が分からないと、その……お金、払いに行けないでしょ」


 男は少し困惑したように弥登を見てから、小さく口を開いた。


「仲間は俺をニッシンと呼ぶ」

「そう」


 弥登はそれ以上聞かなかった。

 捜査員と犯罪者である以上、ニッシンと名乗った男の本名を知ることは不可能だろう。


「寝る前に、言っておきたいことがあって」

「何だよ」

「ごちそうさま。ニッシン」


 弥登はそう言うと痛む足を庇いながら寝返りを打ち、ニッシンと名乗った男に背を向けた。


「ん。お粗末様でした」


 ニッシンが後片付けをする音を聞きながら、弥登は足の痛みが少し強くなったように感じた。恐らく腹に物を入れたことで血流が増したためだろう。

 だが痛み以上に強い眠気が弥登を襲い、意識が急激に遠のいた。



 気が付くと、弥登は小屋の中で自分が一人取り残されていた。

 三日間降り続いた雨は上がって割れた窓から日光が注がれ、鳥の鳴き声が聞こえる。


「ニッシン?」


 呼びかけてみるが、返事はない。よく見るとニッシンが使っていたバックパックも消えていた。

 怪我の痛みをこらえて立ち上がり壁伝いに小屋の外に出るが、やはりニッシンの姿はなく、駐機していたヒュムテックもどこにもなかった。

 木々が落とす朝露に日光が降り注ぎ、土と木の匂いが柔らかく香っている。

 そしてそんな朝の爽やかさを吹き飛ばすように、ヘリのローター音が近づいてきた。


「食料国防隊……」


 雲一つない空からぐ弥登に向かって近づいて来るのは、食料国防隊のヘリだった。


『矢坂係長! 無事でよかった! すぐに救助隊を下ろします!』


 弥登はヘリから身を乗り出した隊員に手を振って了承の意を示した。

 そのとき思わず小屋の中を振り返った。

 自分でも振り返ったのか、分からなかった。インスタント食品の痕跡が見つかったら大変だ、という思いがあったことは間違いなかった。

 そんなことを思った自分が信じられなかった。

 だが、弥登の不安をふつしよくするかのように、この小屋は弥登以外の人間がいた痕跡は一切存在しなかった。

 だが、彼は間違いなくここにいた。他でもない弥登の胃袋が、それを証明していた。


「……また、会えるかしら」


 決して誰にも聞かれてはならないその言葉は、しんしんと冷えたコンクリート造りの小屋の中でカップラーメンの湯気よりも、おぼろはかなく消えたのだった。





 二〇七四年。冬。

 食料国防隊の第一次三浦半島食料浄化作戦は、旧よこエリアにけるアディクター集団、シンジケートの苛烈な抵抗に遭い、多くの死傷者を出した末に事実上の失敗に終わった。

 南関東州食料国防隊鎌倉署所属、矢坂弥登係長率いる部隊も大楠山のアディクター拠点制圧に失敗し壊滅。

 食料国防戦線を・金沢ラインまで後退させざるを得ず、改めて三浦半島の食品衛生環境汚染の深刻さを露呈する結果となった。

 政府と食料国防庁、食料国防隊南関東州本部は事態を憂慮するも、組織の再編は急務であり、多くの人事異動が発生。

 結果、三浦半島の食品衛生環境は汚染されたまま放置を余儀なくされ、第一次三浦半島食料浄化作戦は日本の食料国防史に残る汚点となり、以後食料国防隊は威信を取り戻すために全隊を上げての綱紀粛正、組織の強化にまいしんすることとなった。

 その歴史的汚点となる事件から、九ヶ月の月日が流れたある秋のこと。